渋谷ハチ公前の辻説法

 題:渋谷ハチ公前の辻説法
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
(渋谷ハチ公前の路頭の辻説法を、何度も、ビデオを見て、
 聞き書きしました。記述において、私なりの表現もあり
 ます)。
 しばらくの間、大変大きなマイクで失礼いたします。
 多くの日本の方々が、今、仏教をはじめとする「宗教」
というものの価値を忘れておられます。
 それ故に、多くの方々がおそらく「宗教なんてどうでも
いい」「自分の人生に宗教なんて関係ない」という様な、
その様なお考えをお持ちなのではないでしょうか。
 しかし、その考えは間違いです。
 なぜなら、宗教というものは、仏教をはじめとする宗教
というものは、我々、人間の「原点」であるからです。
 例えば、1921年に、「アマラ」と「カマラ」という二人
の少女が発見されました。
 可哀想な事に、その二人の少女は、何と、オオカミに拾
われ育てられてしまったのです。
 その為に、彼女たちは、四足で歩き、遠吠えをし、犬の
様に口で食事をし、言葉も話せませんでした。
 この二人の少女は、一体何を、私達へ教えているのでし
ょうか。
 それは、私たち人間という生き物は、「教わり、学ばな
ければ、オオカミの如くにさえなってしまう事さえある」
という事を、この悲しき真実が、オオカミに育てられてし
まった少女たちの事実が教えてくれています。
 では、私たち人間に、『善と悪』を、教えて来たものと
は、一体、何であったのでしょうか。
 『心の正しさを教えるもの』とは、一体、何なのでしょ
うか。
 科学の本には、核兵器の作り方は書いてあっても、その
善悪までは、『心の正しさ』までは、書いてはありません。
 国語は、言葉を教えるものであり、
 数学や算数は、数字の学問です。
 我々・人間に、私たち人類に、『善悪を教え』、『正し
い心』とは、一体、いかなるものであるのか。
 これを、これまで教えてきたものこそ、日本の方々が今、
お忘れになっている『仏教』をはじめとする宗教というも
のであったのです。
 故にこそ、日本の人々が、『宗教の大切さ』をお忘れに
なろうがなるまいが、
 宗教の事が好きであろうが、嫌いであろうが、それを問
わず、
 今、オオカミではなく、『人間として生きている』のな
らば、
 皆さんは、既に、宗教から『何か』を学んでいるという
ことなのです。
 仏教をはじめとする宗教から、『恩恵を受けている』と
いうことに他なりません。
 この真実に、気がついて戴きたいと思います。
 仏教をはじめとする『宗教こそ』が、私たち人間の心を
豊かに育(はぐく)み、築き上げているものなのです。
 誰もが、子供の頃、30代の方、40代の方であるならば、
誰もが子供の頃、21世紀に憧れを持ったことでしょう。
 希望を抱いた事でしょう。
 アニメの「ドラえもん」を見て、誰もが、21世紀は、科
学が発達し、経済が繁栄し、便利で、素晴らしい時代が来
るのだろうと、夢と希望を描いたものです。
 しかし、どうでしょう。
 私達が、築きあげているこの21世紀は、本当に素晴らし
い時代となっているでしょうか。
 誰もが、心の底では、今のこの日本、世の中を見て、「
何かおかしい」という疑問を抱いているというのが、真実
ではないでしょうか。
 子供たちが、学校ではいじめにあい、教師たちはそのい
じめを隠蔽(いんぺい)し、自殺者が3万人を超える、そん
な時代が十数年続き、コンスタントに無差別の殺人が起き
ている。
 この心貧しき日本を見て、誰が果たして『正常な世の中
である』と言えるでしょうか。
 それは、私たち日本国民をはじめとする先進国の人々が、
経済を発展させ、科学を発展させることによって、様々な
力を得ることによって、まるで西遊記に登場する猿のごと
く、孫悟空のごとく、佛に挑んだ西遊記の猿のごとく、過
信し、慢心し、『大切なものを忘れている』という事実に
気付いて戴きたいかと思います。
 日本は、世界でも稀(まれ)にみる宗教国家でした。
 2700年という、世界最古の歴史を持つ日本。
 その中で、常に、権威を持ち続けて来られた天皇陛下
いわれている御存在は、「神道(しんとう)」という日本
独自の宗教の最高神主(かんぬし)です。
 政治家ではございません。
 その神主が、最高神主であるところの天皇陛下が、仏教
に帰依(きえ)した時代もありました。
 そして、平安時代という、死刑が一度も行われない平和
な時代を迎えたことも、この国にはありました。
 世の中を、平和にし、治安を守り、秩序を築きあげてい
く時に、本当に大切なのは、警察官と、厳しい法律だけで
はありません。
 厳しい法律によって、たくさんの警察官によって、もし
世の中の平和を守ろうとすれば、国民は、人々は、その法
律の抜け穴ばかりを、探すことでしょう。
 しかし、道徳心によって、精神性によって、世の中を、
平和を造ろうとすれば、自然と、悪を犯すことを恥だと思
うことが人間の常であります。
 世の中を造っているもの、時代を造っているもの、社会
を造っているものは、あるいは、平和を守っていくものは、
もちろん最後は、法律と警察の方々でありますけれども、
 しかし、社会を造り時代を造っているのは、他ならない
私たち一人一人の『心』です。
 そして、その心を築き上げていくものが、仏教をはじめ
とする『宗教というもの』なのです。
 だからこそ、「宗教などどうでもいい」と、もし思われ
ているのであるのなら、それはすなわち、「心豊かな時代
なんて来なくていい」と、人の心を豊かにはぐくむ、この
宗教というものの価値が、「どうでもいい」というのであ
るならば、それはすなわち、「心豊かな時代なんて来なく
ていい」と、そう結果的に考えているのと同じであり、
 もっと具体的に言うならば、
 子供が学校でいじめにあって、自殺するような、こんな
世の中でも、一年間に3万人も自殺し、40万人以上の日
本国民が自殺するような日本でも、
 あるいは、若者が、お年寄りから貯金や年金を奪うこと
を恥としないことを、「何とも思わなくてもどうでもいい」
と、言っているのと、結果的に同じという事に気がついて
戴きたいのです。
 私たち人間という生き物は、泣きながら何も知らずに生
まれてきます。
 イギリスのシェイクスピアという悲劇作家は言いました。
 「人間は泣きながら生まれてきた」と、
 あの赤子があげる断末魔にも似た産声は、この地上に誕
生したことを祝福して泣いているのではなく、
 むしろこれから始まる人生が、恐ろしくて、驚愕して泣
いているのだということを、イギリスの作家、シェイクス
ピアは述べたと言います。
 これは、佛教的な真理から見ても真実です。
 なぜならば、私たちの人生には必ず、苦しみや悲しみが
訪れるからです。
 この苦しみや悲しみを、仏教では生老病死といいます。
 「あの世」からこの地上に生まれて来る苦しみ、
 「老」という、老いていく苦しみ、
 若い方に、老いる苦しみと言っても、まだ分からないか
もしれません。
 しかし、腰の曲がった白髪頭の歯の乏しくなった老人に、
誰もがなっていくのが世の常であり人間の常であります。
 また、病の苦しみ、誰もが人生の中で病や怪我に悩まさ
れ苦しまれることがあります。
 そして、この世を死して去ってゆく苦しみ、
 その他にも愛別離苦(あいべつりく)という、愛する人
と生き別れにしろ、死に別れにしろ別れる苦しみ、
 怨憎会苦(おんぞうえく)という個性の違う、自分とは
どうしても合わない人に出会い、嫌いな人に出会ってしま
う苦しみ、
 さらには、求不得苦(ぐふとくく)という、求めても求
めても得られない、富みにしろ、名誉にしろ、健康にしろ、
美貌にしろ、求めるものが手に入らない苦しみ、
 更には、五陰盛苦(ごおんじょうく)という、肉体五官
煩悩に振り回される苦しみ、
 これら四苦八苦は必ず、私たちの人生の折々に訪れます。
 人生とは一冊の問題集です。
 この私たちの人生の問題集であるところの四苦八苦を、
苦しみを乗り越えていくものは、もちろんお金も大切です。
 知識も大切です。
 しかし、苦しみを断ち切っていくものこそ、佛教で言わ
れているところの、悟りという名の心の成長にほかなりま
せん。
 一人びとりが、自らの心を悟らせ、成長させていくこと
によって、必ず人生に訪れる苦しみを、人間は乗り越え、
踏破し、心の底から「生きていることが素晴らしい」と、
そう言える心になっていくことが出来ます。
 人は、泣きながら生まれてきますが、泣くために生まれ
たのではありません。
 人は悟りを得て、苦しみを乗り越え、笑うために生まれ
てきたというのが佛教の基本的な考え方であります。
 心は自由です。
 どんな王様であっても、肉体を束縛することは出来ても、
力なき奴隷の肉体を束縛することはあっても、心を支配す
ることは出来ず、いかなる環境に置かれようとも、いかな
る状況にあろうとも、私たちが持っているところの、この
「心」は自由であり、極端な話、人間とは、たとえ強制収
容所にいようとも、遊園地にいるような明るい心を持つこ
とも出来れば、
 むしろ逆に、遊園地にいようとも、強制収容所にいるよ
うな暗い心になってしまうことがあるものであり、
 これを分けるものこそが、一人びとりが持っているとこ
ろの、悟りであるということに、どうかお気づき戴きたい
かと思います。
 私たち、一人ひとりの体力は、今すぐ2倍や3倍にはな
りません。
 10倍や50倍にはなりません。
 経済力も、今すぐには、10倍、100倍にはなりませ
ん。
 しかし、私たちが持っているところの「心」の中にある
勇気というものは、心の力というものは、悟りを得ること
によって、百倍にも千倍にも万倍にもなっていきます。
 人は、心において自由であり、心というものは確かに作
り変えていくことが出来ます。
 そして、心を作り変えて成長させていくことによって、
人生が変わり、また、一人ひとりの人生が変わることによ
って、国家や社会や時代が変わって行きます。
 人間関係の中で苦しまれている方も、多いかと思います。
 しかし、知って下さい。
 人間関係を良好にして行く時に、大切なものこそが、悟
りという名の心の成長であり、立ち向かう人の心は、私た
ちが出会っている妻や夫、友人、上司、同僚、部下・・・
そうした立ち向かっている人の心は鏡です。
 「立ち向かう人の心は鏡なり」と佛教では言われており
ますけれども、私たちの前にいる「誰か」は、私たちの心
を映す鏡であります。
 もちろん、その「誰か」が、正しく心を映してくれると
は、必ずしも限りません。
 心雲っていれば歪んで映ることもあるかもしれません。
 しかし、私たちの目の前にいる人たちは、木石ではなく、
木ではなく、石ではなく、心ある人間であるために、私た
ち一人一人が、喜びもすれば、傷つきもする、心ある人間
であるように、私たちの目の前にいる「誰か」もまた、心
ある人間であるように、自らが心を変え、悟らしめること
によって、目の前の人の反応が、変わってくるということ
が確かにあります。
 自らの心を高めることによって、目の前にいる夫や妻、
「誰か」が、笑顔が増え、優しき言葉が増えるということ
が確かにあります。
 大切なことは私たち一人一人が、自らの心を高めていく
ことであります。
 2500年前に生まれた、インドの地に佛教を興されたゴー
タマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏仏陀と呼ばれる存在と、
 2000年前のイスラエルの地に現われたイエス・キリスト
という存在を比較した時に、決定的に異なる点があります。
 イエスという方はどちらかというと、人間を弱者と見て、
その一方、遥かなる彼方に超越した存在がいると言い、
 その存在のことをイエスという人は「父」と呼びました。
 あるいは「神」と呼ぶこともあったでしょう。
.
 (注:キリスト教は、『人間には生まれながらに原罪が
ある』と教義設定し、その原罪の存在などを信じなければ
異端とし異教徒して、『異教徒は殺せ』の教義のあること
く、切り捨てられ排除される教義となっている)
.
 しかし、仏陀は、釈尊は、そうは思いませんでした。
 カルマの中で流され、宿命に翻弄(ほんろう)され、運
命の波に流されていく、そして、不幸せな人生を生きてい
く人を多く見てはきたが、それでも、仏陀は、人間とは強
き存在であり、「自らの心の中に仏と同じ性質のものがあ
る』ということを説きました。
 「ゆえにこそ、自らの心の中にある『仏性』を顕現せよ」。
 「自らの心を高めよ、悟りを高めよ」。
 「そこに真実の、心からの、魂からの幸福がある」とい
うことを説いたのが、佛教なのであります。
 どうか、先祖供養をすることを以って、それを佛教だと
 思わないでください。・・・中略・・・
 本当の仏教的精神とは、上求菩提(じょうぐぼだい)、
下化衆生(げけしゅじょう)、上に向かっては、常に、悟
りを求め、世の人々には、常に、悟りを与えんとする。
 これが、本来の仏教精神であます。・・・後略・・・

 (参考)生老病死:しょう‐ろう‐びょう‐し、仏語。避け
ることのできないこの世での人間の4種の苦悩。生まれるこ
と、老いること、病気をすること、死ぬこと。四苦。
 (参考)愛別離苦:あいべつり‐く、 仏語。八苦の一。
愛する者と別れる苦しみ。
 (参考)怨憎会苦:おんぞう‐えく、仏語。八苦の一。
うらみ憎む相手に会う苦しみ。
 (参考)求不得苦:ぐふとく‐く、仏語。八苦の一。求め
ているものが得られないことから生じる苦しみ。
 (参考)五陰盛苦:ごおんじょう‐く、仏語。八苦の一。
五陰から生じる心身の苦悩。
 (参考)五官:ご‐かん、人間が外界の事物を感じる五つ
の感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚。
 (参考)煩悩:ぼん‐のう【煩悩】 《(梵)kleśaの訳。苦
悩・心痛の意》仏語。身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けが
す精神作用。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)は根元的な煩悩と
して三毒という。染。結。垢(く)。
 (参考)悟り:さとり【悟り/覚り】 1 物事の真の意味
を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」
2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得
すること。
 (参考)上求菩提:じょうぐ‐ぼだい、仏語。菩薩(ぼさ
つ)が、上に向かって悟りを求めること。⇔下化衆生(げけ
しゅじょう)。
 (参考)下化衆生:げけ‐しゅじょう【下化衆生】 仏語。
菩薩(ぼさつ)が、上には菩提(ぼだい)を求めると同時に、
下に向かっては衆生を教化(きょうけ)・救済(ぐさい)する
こと。⇔上求菩提(じょうぐぼだい)。
参考
http://www.youtube.com/watch?v=1gWbIHhGUx8
http://ameblo.jp/uttaetotatakai/entry-11645883945.html
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  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/