「 パウロ 」 から 「 イエス 」 へ 脱却へ

 題: 「 パウロ 」から「 イエス 」へ 脱却へ

 イエス・キリストは、「他律戒」から「自律戒」の人であった。

 キリスト教の姦通の女をめぐる話において、
      イエス・キリストは、
               従来の石打ちの刑を赦した。
 これは、
   聖書の神の律(=天地創造神の他律戒)を
      否定し、
         イエス・キリスト自らが、律を決め、行った。
 そして、姦通の女を赦した
     イエス・キリストは、他律戒を棄て、
                 自律戒を発したのである。
 『私(イエス・キリスト)も貴方を罪に定めない。
     行きなさい。
        これからは、もう罪を犯してはならない』
              (「ヨハネによる福音書』8・11)
 神を立てない仏教の、人間が作った自律戒と 同様な、
     『私(イエス・キリスト)も 貴方を罪に定めない』
                         と言う。
 有罪か無罪かの判断は
         神からの他律戒を基準にしているのではない。
 他律戒の天地創造神の律および戒の
              世界」から
                  脱却した。
 そして、   
    『もう罪を犯してはならない』との 言葉を添える。

 イエス・キリスト
         仏教と同じ 自律戒の人(神)となった。
 そして、
    この自律戒の基準は何か
              と考えると、
    「宇宙を宇宙たらしめている 
                 絶対的な者であり、
      万人の内部にもあって 
          聖なる霊として働くものである(=仏性)。

 それは、万人の外にいる天地創造神のような
      他律戒を発する様な存在
            ではない(キリスト教の神ではない)
     
 今の世界のキリスト教は、
           パウロキリスト教であり、
              現状は、
              完全に論理の破綻を起こしている。
           イエス・キリスト教へ
              全面的に変わらなければならない。
 (参考)脱却:
      (1)捨て去ること。脱ぎ捨てること。
                  「古い考えをーーする」
      (2)ぬけ出ること。