「 他律戒 」 から 「 自律戒 」 へ

 題:「 他律戒 」 から 「 自律戒 」 へ

 「他律戒」から「自律戒」になって 始めて完成される 話

 キリスト教は、「他律戒」の啓示の宗教である。
  「 他(=天の神)から、与えられる律(=規則)や戒 」を
                      教義としている。
 キリスト教の聖書の「申命記」には、
   「私が命じる総べての掟と戒めを守れ、
       そうすれば長く生きる事が出来るであろう」との
                    命令型の教義がある。
 また、「主を愛せよ、
     今日、私が命じるこれらの言葉を心に留め、
     子供達に繰り返し教え、
     家に座っている時も、
     寝ている時も起きている時も、
     これを語り聞かせなさい。
 更に、これをしるしとして自分の手に結び、
     覚えとして額に付け、
     貴方の家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」・・と
     ・・・「何々を行え」など・・命令型の教義がある。
 キリスト教の宗教コンセプトは、
     キリスト教信徒を『迷えるひつじ」とし、
     天の神と信徒の間に居るとした聖職者を、
     その中央集権的な序列・ヒエラルキーの上位者と位置付け
     また、聖職者・牧師を「牧童」と見立て、
     迷えるひつじ(=キリスト教信徒)を、
            追い導くというコンセプト・設定である。

 キリスト教の聖書には、
     「世話になった牧羊者の娘の、姉と妹を、同時に口説き
     いっぺんに二人を妻にする」という記述もあり、
     この1例の様な聖書作成時の昔に成立していた道徳観と
     共に存在する、
 「他律戒」= 「アレするな、コレするな」の世界である。

 キリスト教徒の方々の自主性は
     全く考慮されていない。
     それを無用とし、与えず、
     また、キリスト教信徒の自主的な知恵を取り上げ、
     また、信じないという教義設定であり、
     コンセプトである。
 全く、信徒・キリスト教徒の「理性を尊重し、信じる」という
     所がない。 
     天から聖職者を経由して与えるだけというかたちである。

 感じるところがつくづくあったのであろう、
     世界的な権威者に
     「天の神は生活のこまごましたことまで立ち入ってくる」
     という吐露した言葉もある。
 また、キリスト教は間違った他律戒によって判断し、
     ガリレオを有罪にし、ブルーノを焚刑で殺した。

 (注):キリスト教の「他律戒」の一例 :
     「台所に他の女性が入ったなら、その鍋の料理は捨てよ」
     という意味の律(律法)(=トーラー)がある。
 「参考比較」 : 
     仏教は、衆生の行状を知って後、
     キリスト教の様に『駄目だからやめよ』とか、
     「だから、こうせよ」という命じる形はとらない。
     自律戒の形をとる。
     「それは駄目な事だと解らせ」 「悟らせよう」とする。
     そうしてまた、「究極の仏の教えまで、教え導き、悟らせ
    よう」とする。
     衆生・信徒を信じ、
     その「理性を信じる」ことを前提・スタートに置いている。

 『 律法は、他律戒から自律戒になって始めて完成される 』。
     自分の理性によって判断をするべきである。

 (参考1) アインシュタインの言葉 :
     「私が信じる神は、存在するものの整然たる調和の中に
     自らを現している神であり、
     人間の運命や所業に関心を持つ神(キリスト教の神)
    ではない
    (信徒の一挙手一投足までとやかく言う神ではない)』

 (参考2):
    モーゼは、
    「民数記」第31章18節に、違う宗教を立宗したり、
    虐殺したリ。
    また、第31章18節には、「まだ男と寝ず、男を知らない娘は
    すべてあなたがたのために、生かしておきなさい」・・・と。

 (参考3):
    キリスト教の聖書は、 「女性は財産」との道徳観で
    書かれている。