イエスの結婚観を例に・・・。

 題: イエスの結婚観を例に・・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教聖書における、イエスの結婚観を見てみると・・。
 聖書を参照してみる。
 初めの例として・・「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二
人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体であ
る。従って、神が結び合わせてくださった者を、人は離しては
ならない。・・妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対し
て姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする
者も、姦通の罪を犯すことになる。(「マルコによる福音書
10・1〜12)」
 この言葉は、多くの学者によって、イエスの真正な言葉であ
るとは認められていない。また、『創世記』の1・27と2・24
を合体させた言葉だと言われている。
 また、女性蔑視であった社会及びキリスト教は、女性から離
縁などできる状況ではなかった。
 何しろキリスト教の聖書は、似たような宗派が、言い争って
出て来た言葉などでできた教義で、言葉をまとめた書物と言え
る。
 「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする
者は、姦通の罪を犯すことになる(「マタイによる福音書」19
・9)。弟子たちは、このイエスの言葉を聞いて不満たらたら、
「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」
と、イエスの言葉に対して「ブーイング」を言っている。
 というのも、今の社会と比べようもない程度の低い社会で、
男尊女卑の社会であり、その様な観念の中にいた人たちである
ため、この様な不満が出た訳で、
 1例を言えば、この社会ではよくあったことなのだということ
なのですが、気に食わなくなったら、料理を焦がしただけでも
離縁ができるとされていた。
 つまり、『料理のお焦げ離婚』は合法の世界だった。(「マ
タイによる福音書」10節を参照)。
 ユダヤの法律において合法であれば、離縁しても良いとの考
えであって、現代人が考えたらおかしいこと。上記の様に、何
ら正しいことを言っていることにはならない。
 故に、今、我々がいる現代の法律の状況や、今の現代社会に
照らして考えても、何ら正しい示唆を与えていると言えない内
容となっている。
 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を
犯す事になる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯す事
になる(「ルカによる福音書」16・18)。
 「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だ
けである。生まれながらの去勢者、人から去勢者・宦官にされ
た者もいるが、天の国のために自らすすんで去勢した者もいる。
これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。(「マタ
イによる福音書」19・11〜12」。
 「バツイチ」は姦通罪、結婚できないという世界だった。ま
た、キリスト教の罰が怖いため、自分から去勢するものがいた。
 そして、イエスが、結婚について話していたと思ったら、急
にこんなことを言う。
 これは、イエスが悪いのではなく、聖書記述者が、聖書に書
き加えた結果で、聖書のそのほとんどがイエスの言葉でないと
いう研究者の研究結果の様に、これも聖書記述者が書き加えた
言葉なのである。
 結局、キリスト教聖書は、種々の(必ずしも、聖書の表題の
人が書いたとは限らない。キリスト教の聖書は、不特定の人た
ちが書き加えたり、削除したりしている)。故に、それらの種
々の記述者が勝手に書いていくので、そこには論理の統一性は
ない。矛盾が多いという状況となる。
 各人が、各自が持っている論理を書いているという状況とな
っている。そして、それを、当然、「一人のイエスが言った」
という形の書き方をしている。故に、イエスが、矛盾した事を
言ったという事にもなってしまう。
 種々の書き手のため、結果的に支離滅裂な事を言ったという
状態になっている。
 これ等の言葉を、色々な人が勝手に書いているという実態を、
一般の信徒は知らないで、信仰に忠実に、「信仰する宗教のイ
エスは1人」という形で捉(とら)えて、信仰し、真剣に毎日
読んでいると、意味の不一致のあちこちを、理解しようと悩み
の中で思い、思考するなどの行為から、精神の統合をはかれな
くなる。統合性に自信の無い状態に陥(おちい)ることが起き
る。
 故に、キリスト教聖職者は、この点について、責任ある説明
を(注意事項を)信徒に誠実にするべきである。
 (聖書を家に持って帰ってはいけないという教会もある。ま
た、聖書は一人では読まない事と指導しているところもある)。
 このあたりのコンプライアンスがしっかりしていないと、キ
リスト教聖職者が、被害者から責任を追求され得るという状況
もあると言える。
 矛盾の多い状況の聖書に対し、種々の見解を、その時々の権
力を持った者が、異論だと、異端だと、切り捨てて来て整合を
図って来た歴史だったと言ってもよいが、まだまだ不整合のと
ころが多い状況となっている。
 聖書学と称して研究し、後代の人たちが学究的にも整合性を
図ろうと研究・思考を重ねてきているが、キリスト教にはそれ
らのことについて統一的見解はなく、信徒がさ迷う状況にある。
 その様な思考の中で生活するという状況から、精神的にダメ
ージを受けるという中にいる。