(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月〜1892年12月)

題:(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月〜1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月1日、甲武鉄道会社が、中等および上等の賃率を
 低減した。
1892年12月3日、皇族方の肖像の販売が黙許(もっきょ、
 無言の内に許すこと)される。
  京都大学の研究によると、従来の「御真影」の研究で
 は、
  天皇陛下を「現御神」とする国体イデオロギーを民衆
 に植え付けて行った「イコン」としてとらえられていた。
  だが、そうした「御写真」のすべてが、そうした儀礼
 の対象となっていなかったと説明する。
  この様な「御写真」は、全体から見ればごく少数に過
 ぎないと説明する。
  明治以来、皇室の御写真の大多数は、学校や官庁など
 の公共空間ではなく、各家庭の内部に持ち込まれていた。
  明治期より、市中で手に入れることが出来、新聞や雑
 誌にも掲載されていた。
  雑誌界は、1890年代の頃より、皇室グラビアを読者獲
 得のための貴重な品として、重用していた。
  また、新聞は、1920年代のころには、皇室写真が紙面
 に載らなかった日を探すのが難しいほど、新聞社は、天
 皇陛下の御一家の方々の写真を用いる様になっていた。
  今、NHKや一部マスコミが、国家イデオロギーの話
 をして・・悪のイメージを作ろうとしているが・・
  「国体イデオロギー形成だ」のイメージを植え付け、
 そして、洗脳しようとする国を貶めるプロパガンダだ。
1892年12月4日、関西鉄道会社が、鉄道局との間に連絡運輸
 の契約を締結した。
  12月15日から、会社線各駅と官設鉄道大阪・京都・馬
 場の3駅相互間で連絡乗車券を発売した。
1892年12月9日、東京湾北部でM6.2クラスの地震が発生した。
  (6月3日説あり)
1892年12月12日、坪井航三(49歳)が、海軍兵学校の校長
 となる。
  坪井航三は、周防国三田尻(現 山口県防府市)の出身。
  1843年4月、医師・原顕道の二男として生まれ、藩医
   坪井信道の養子となった。
  1863年(20歳)庚申丸(長州藩で建造された西洋式帆
   船)に乗り、外国船の砲撃に参加した。
   遊撃隊士として戊辰戦争に従軍。
   日本海軍の発足後は、甲鉄艦副長を務めた。
  1871年(28歳)アメリカ海軍アジア艦隊の司令長官ジ
   ョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドで乗艦実習
   をした。
  1872年(29歳)離任し帰国するロジェーズ少将に従い
   渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレ
   ッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学
   に学んだ。
  1873年(30歳)12月、官費海外留学生の一斉帰国命令
   に従い・・、
  1874年(31歳)7月、帰国した。
   帰国後、第一丁卯艦長となる。
  1894年(51歳)日清戦争時、第一遊撃隊司令官を務め
   る。
   単縦陣戦法を唱え、豊島沖海戦黄海海戦に勝利。
   特に、黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、
   優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主
   導権を握ることに成功する。
   日清戦争が始まるまで、日本海軍は、連日、単縦陣
   と横陣の二手に分け模擬海戦を行ったが、坪井の主
   張する単縦陣がいつも勝った。
   しかし、当時、横陣を有利とする主張も強く、単縦
   陣で実戦に挑むのは勇気がいることだった。
   彼は、単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊は戦闘
   のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さな
   かった。
   黄海海戦で、清国海軍の軍艦に乗り日本海軍の動き
   を見たフィロ・マクギフィン米海軍少佐は・・、
   「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利し
   て有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値
   する」と、日本海軍の単縦陣を高く評価した。
   以後、単縦陣は海戦のセオリー(理論。学説)とな
   った。
1892年12月13日、第1回鉄道会議を招集して、議員より広軌
 道建議案を提出した。
  1869年11月、明治政府は、廟議で、東京〜京都間の幹
 線鉄道、東京〜横浜間、京都〜大阪〜神戸間、琵琶湖近
 傍〜敦賀間の支線を敷設することを決定した。
  この鉄道網を実現するためには、まず軌間(ゲージ)
 を決定しなければならなかった。
  日本の鉄道の軌間は、当時、イギリスの植民地であっ
 たオーストラリアやニュージーランドと同じ3フィート
 6インチ(1067ミリメートル)の狭軌で敷設された。
  そのプロセスの詳細は不明である。
  しかし、当時、民部兼大蔵大輔であった大隈重信の回
 顧では・・、
  1870年4月、建築師長のお雇い英国人エドモンド・モレ
 ルと会見したとき、軌間の説明を受け・・、
  「元来が貧乏な国であるから、軌幅は、狭い方が宜か
 らう」と答えたという。
  当時、イギリスでは、ゲージ論争が活発に行われてい
 て、経済発展が遅れている地域では、4フィート8イン
 チ半の広軌道よりも、狭軌道の方が適しているという議
 論が優勢であった。
  そうしたなかで、井上も、「多少欧人の諸論を研究」
 したが、「我国の如き山河多く、又、屈折甚しき地形に
 在りては、三呎六吋ケージを適当とす」と判断した。
  すなわち、イギリスなどで採用されている4フィート
 8インチ半のゲージでは、「過大に失して不経済」であ
 り、
  「殊に、当時の勢にては、広軌にて百哩を造らんより
 は、寧ろ、狭軌にて百三十哩を造らんこと国利最も多か
 らん」と考え、狭軌を採用するよう大隈に進言した。
  その結果、廟議も、3フィート6インチの狭軌道を採
 用するにいたった。
  1892年に、銀行条例が改正され、第十五銀行が積立金
 を株主に割り戻すと、
  華族は、大金を得た。
  雨宮は、かねて、「日本の鉄道を広軌に改築せねばな
 らぬ」と考えていたので・・、
  500万円で1000マイルの全鉄道を広軌に改築するという
 計画を立て、華族に、出資を促すと多くの賛同を得た。
  そこで、参謀次長であった陸軍の川上操六を動かして
 補給利子を得ることにし、さらに、井上勝にも同意を求
 めたが、「豈に図らんや、井上は、頑として応ぜなかっ
 た」。
  井上の軌制論は、次第に動揺した。
  1900年5月、鉄道時報社の記者のインタビューで、鉄道
 が、「今日の如く発達するなれば、無論、欧米の通り広
 軌道が適当だ」と・・広軌改築をほのめかした。
  しかしながら、井上は、なお・・、
  「今日でも、鉄道を速成するには、矢張、現行のゲー
 ヂが或る意味に於ては適当ならん」と・・、
  鉄道をさらに延長するには、狭軌道の方がよいとも述
 べている。
  その後、日露戦争を経て・・
  1906年3月、鉄道国有法が公布されると、井上は、はっ
 きりと広軌改築を主張するようになった。
  井上は、駕籠を主要な乗り物としていた時代に、狭軌
 道を採用したのはやむを得なかった。
  むしろ、狭軌道を批判するほど経済が発展したことを
 喜ぶべきであると強弁しているが・・、
  一方で、3000マイルの路線を、一昼夜のうちに、広軌
 に改造したというアメリカの事例をひきながら、日本で
 も、「広軌改造」を実行すべきであるとした。
  1909年5月の、それから3年後、井上は・・、
  「只慙愧(ざんき)に堪へない事が一つある、夫れは、
 我国に鉄道が出来てから四十年になる、其時、なぜ、ゲ
 ージを四呎八吋の広軌にして置かなかつたのか、
  日清戦役には、彼の様に勝ち、日露戦役にも彼の様に
 勝ち、露国を満洲より追ひ払ふやうな進歩を我国に予期
 して居たならば、マサカ、狭軌にしては置かなかつたに
 と、余は、全く先見の明がなかつたのを頗る(すこぶる、
 大いに)愧(は)ぢて居る次第だ」と、鉄道創業期に、
 狭軌鉄道を採用したことを心から悔いた。
  (2013年、釧路公立大学で講演された老川慶喜氏の論
 文を参考にした)
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  (今日の言葉)
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  題:今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん買われ、
    逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人になっているという。
    日本の北海道も中国化しているという・・、
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815年、嵯峨天皇が、近江へ行幸された時、梵釈寺(ぼんし
 ゃくじ)の僧・永忠(えいちゅう)より茶を献じられた。
  後に、嵯峨天皇は、茶の栽培を命じられた。
  信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町は、その様な地。
  俳人小林一茶は・・、
  「しがらきや 大僧正も 茶摘み唄」と詠んでいる。
.
16世紀、スペインについて、本は次の様に記述する・・、
  「16世紀まで、西欧諸国に大きな支配力をふるったこ
 の国は、いま国民総生産(GDP)は低くても、国土の
 いたる所に珠玉の様な文化遺産を残している」・・と・・
  しかし、この文化遺産と言ったって、南米・中米・北
 米の先住民の方々、インディオの方々から奪った金で作
 ったもの・・
  インディオの方々は、今、そのほとんどが絶滅させら
 れている。
  わずかに残った種族の方々が、存在はしては居るが・・、
  このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たち
 が、人類史上で最悪の事を、長年に渡ってしでかし、全
 滅させた。
  キリスト教の考え方・教義から「この卑劣な行動とな
 った」。
  わずかに生き残ったインディオの方々は、この殺戮者
 から逃げることが習慣となっていて、今でも山の中を走
 り回っている・・留まることを村のタブーとしている・・
 この可哀想な習慣・性(さが)となっている・・
  山の中で走る行動が・・悲しい習性となって続けられ
 ている・・
  また、別の地域のある村では、男性が総べて殺されて、
 このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちの
 強姦によって・・その村人のすべてが混血の人となって
 しまった・・
  この様な悪行の状況の結果が、今のスペインにある。
  キリスト教に偏向するNHKは、日本を貶める放送だ
 けをしていて・・この様な放送はしないというNHKと
 なっている。
.
1758年、今も、中国の地で苦しむウィグルの方々・・
  ジュンガルは、17世紀に有力になったモンゴル人の部
 族の方々の事で・・オイラト系である。
  族長ガルダンはチベットのダライ=ラマと結び、内モ
 ンゴルのハルハ地方に進出した。
  康煕帝は、内モンゴルに2度出兵してガルダンを攻め、
 ガルダンを自殺させた。
  ジュンガルは、なおもチベットに入り、抵抗を続けた
 ので、康煕帝は、皇子をチベットに派遣しジュンガル
 勢力を排除し、チベット支配下においた。
  ジュンガルは、その後も、タリム盆地を拠点に清朝
 の抵抗を続けたが、雍正帝に続いて、乾隆帝時代にも激
 しい清側の攻勢を受け、1758年に滅亡した。
  その支配領域は、清朝の藩部の一つ、「新疆(新疆ウ
 イグル自治区)」となった。
  (参考)オイラト:モンゴル民族の中の有力部族で、
     チンギス=ハン一族と婚姻関係を持ち、モンゴ
     ル帝国解体後も、モンゴル高原西部を中心に活
     動していた。
      15世紀に強大化し、一時、その族長エセンが、
     全モンゴルを統一し、エセン=ハンを称した。
      エセンは、明に侵攻し、1449年には、土木堡
     (現在の河北省張家口市)で明の皇帝正統帝(
     英宗)を捕虜としている(土木の変)。
      その後、モンゴル高原東部のモンゴル人、い
     わゆる韃靼(タタール)のダヤン、ついでアル
     タンに討たれ、衰えた。
      17世紀に、再び、中央アジアに勢いを盛り返
     し、ジュンガルとして知られるが、1757年、清
     に討たれ滅亡した。
  そして、中国の資源は、『人』。
  チベットやウィグル自治区へ、この地域へ、中国の人
 (漢民族)を、多量に、多数を、送り込んでいる。
  チベットの方々が多く住む地や、ウィグルの方々が多
 く住むから自治区とされたこの地は、今や、一番多く住
 んで居るのは『漢民族となってしまった』。
  民族の多さで自治区となっていたその国は、今、おぼ
 ろげに・・人為的になされている。
  だから・・東京なんて・・1300万人が住んでいるなん
 て、中国の人口を考えれば『笑い話』・・少数の小民族
 なのだ。
  日本の10倍以上の中国の『人口大国』が・・やろうと
 思えば、日本人なんて少数民族となってしまう・・明日
 のチベットや、ウィグルや、モンゴルの如く・・そして、
 消された満州族の如くになる・・
  今、チベットやウィグルや内モンゴクルが「消されつ
 つあることを思え!」。
  満州人が多いので、日本が、かつて、建国を助けてあ
 げた満州国は、中国は、その後、一生懸命、漢民族を送
 り込んだ・・そして、今、満州国は消滅している・・
  そして、今、その満州人はどこに行ってしまったのか?・・
 殺されたのか?・・その満州人は居ないという・・
  満州国は、今は、完全に過去の話、おとぎ話の様にな
 っている・・
  沖縄なども、中国には、中国のものだという声もある
 というが、何でも言う中国なのだが・・??
  NHKが、中国に媚(こび)を売っているのが、なん
 とも気持ちが悪い・・??
.
1854年2月、アメリカのペリーが神奈川に上陸した。
  そして、約500名の兵士も上陸した。
  ペリーの『日本遠征記』には、下記の記述がある・・
  「(日本人には)読み書きが普及しており、見聞を得
 ることに熱心である。
  ・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質
 的進歩、当代の歴史についてもなにがしかの知識を持っ
 ており、我々も多くの質問を受けた」
  「日本人が、ひとたび文明世界の過去・現在の技術を
 有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバル
 となるであろう」
  「日本人は一生懸命に働くが、時々の祭日をもって埋
 め合わせをし、また、夕方や暇なときには勝負事や娯楽
 に興じる」
  「若い娘は姿よく、美しく、立ち居振る舞いは大変に
 活発で自発的である。
  それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているため
 に生じる、品位の自覚から来るものである」
.
1856年8月21日、日米和親条約に基づき、この日、下田に
 着任したアメリカ総領事ハリスは・・、
  日本とあめりかが、貿易を開始するために、新たに
 通商条約を結びたいと要求した。
  幕府は、朝廷の許可を得てから条約を結ぼうとした。
  政治の権限を、朝廷から与えられていた幕府が、この
 様な手順を踏んで、「朝廷の許可を得ることをするのは
 前例のない事だった」。
  アメリカを撃退する「攘夷をするか?」・・「通商条
 約を結んで開国するか?」・・
  この問題は、国論を二分する大問題となった。
  京都の朝廷は、にわかに国政の中心舞台となった。
.
1863年6月25日、下関戦争
  孝明天皇の強い要望により、将軍・徳川家茂は、文久
 3年5月10日(1863年6月25日)をもって攘夷実行を約束し
 た。
  長州藩は、馬関海峡(現:関門海峡)を通過する外国
 船への砲撃を実施した。
  しかし、逆に、米仏の報復に逢い惨敗した。
  高杉晋作は、下関の防衛を任せられ、この6月に、廻船
 問屋の白石正一郎邸において、身分に因らない志願兵に
 よる奇兵隊を結成した。
  そして、阿弥陀寺赤間神宮の隣)を本拠とした。
  しかし、1863年9月に、教法寺事件(8月16日、奇兵隊
 と他の隊とのトラブル)の責任を問われ総監を罷免され
 た。
  京都では、薩摩藩会津藩が結託したクーデターであ
 る八月十八日の政変1863年9月30日)で長州藩は追放さ
 れた。
  1864年1月、晋作は、脱藩して京都へ潜伏した。
  桂小五郎の説得で、2月には、帰郷するが、脱藩の罪で
 野山獄に投獄され、
  1864年6月に、出所して謹慎処分となる。
  1864年8月20日長州藩は、「禁門の変」で敗北して朝
 敵となった。久坂玄瑞は自害した。
  8月に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4
 カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠された。
  この事によって、晋作は、赦免されて和議交渉を任さ
 れた。
  24歳の晋作は、交渉の席で(通訳を務めた伊藤博文
 後年の回想では)講和会議で、連合国は数多の条件とと
 もに「彦島の租借」を要求してきた。
  晋作は、ほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「
 領土の租借」についてのみ「頑として受け入れようとは
 しなかった」。
  結局、取り下げさせることに成功した。
  (古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)
  これは、清国の見聞を知っていた晋作が、「領土の期
 限付租借」の意味するところは、「日本の植民地化であ
 る」と深く見抜いていたからだった。
  もし、この要求を受け入れていれば、日本の歴史は大
 きく変わっていたと伊藤は自伝で記した。
  幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩は、幕府
 への恭順は止むなしとする保守派が台頭した。
  1864年10月、晋作は福岡へ逃れ、平尾山荘に匿われた。
  しかし、晋作と同じ派の家老の処刑を聞いて、再び、
 下関へ帰還した。
  1864年12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、
 石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺
 挙兵した。
  後になって、奇兵隊ら諸隊も加わった。
  そして、元治2年(1865年)3月、晋作は、俗論派の首
 魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握った。
  そして、この月、晋作は、海外渡航を試みたいと長崎
 でイギリス商人グラバーと接触するが、反対された。
  1865年4月、晋作は、下関開港を推し進めたことにより、
 攘夷・俗論両派に命を狙われた。
  そこで、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ
 逃れ、日柳燕石を頼った。
  1865年6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。
  元治2年(1865年)1月11日付で、晋作は、高杉家を廃
 嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、
  1865年年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。
  慶応3年(1867年)3月29日、新地100石が与えられ、谷
 家を創設して初代当主となる。
  (明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名
 し現在に至る)。
  高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
  再度の長州征討に備え晋作は、防衛態勢の強化を進め
 た。
  慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が
 桂小五郎井上聞多伊藤俊輔たちと共に進めていた薩
 長盟約が、土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎・土方久元の
 仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。
  1866年5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その
 途次、長崎で、蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を
 購入した。
  慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐(四境戦争)
 では、晋作は、海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦
 闘指揮を執った。
  周防大島沖で、幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半
 七が率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。
  小倉方面では、艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊
 を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させた。
  その後、小倉城近くまで進撃したものの肥後藩・細川
 家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
  しかし、7月20日、将軍・徳川家茂が死去すると、7月
 30日に、肥後藩久留米藩柳川藩唐津藩・中津藩が
 撤兵した。
  幕府軍総督・小笠原長行も、海路で小倉から離脱した。
  残された小倉藩が、8月1日、小倉城に火を放ち逃走し
 た・・このため幕府軍の敗北が決定的となった。
  幕府の権威は大きく失墜した。
  これは、翌年の慶応3年(1867年)11月の大政奉還へと
 つながった。
  その後、晋作は、肺結核を桜山で療養するが、慶応3年
 4月14日(1867年5月17日)に死去した。享年29(満27歳)
 だった。
  臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・
 山県狂介・田中顕助が立ち会ったという。
  奇兵隊は、長州藩の正規兵とは別に創設された軍隊で、
 長州藩の正規兵は、武士で構成されていたが、武士階級
 は全体の1割に過ぎず、この武士だけでは戦えないと判断
 した高杉晋作が、農民であれ商人であれ志があれば入隊
 を認めるという規則を設けて創設した。
  身分制度にうるさい当時の封建社会では画期的な軍隊
 だった。
  全体の構成は、武士が半分、農民四割、商人その他一
 割だった。
  この奇兵隊に習い、身分を問わない軍隊が、次々に長
 州で創設された。
  それらを総称して「諸隊」と呼ばれた。
  諸隊は、最も多い時期で400隊を数え、一大兵力として
 長州を支えた。
  奇兵隊は、1864年禁門の変以降、四カ国聯合艦隊
 の対決、第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争と主要
 な戰場で活躍し、その存在感を増した。
  地元の下関では・・次のような声もある・・
  「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒
 れくれ者の集まりだった。
  仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじ
 ゃった。
  やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町
 の者は噂した」との声もある・・また・・
  奇兵隊隊士・金子文輔の日記には、隊士数人で、俵山
 温泉(現:長門市)に湯治に行ったら・・、
  「余輩入浴すれば他の浴客皆去る」(文久三年九月四
 日の条)・・とある。
  奇兵隊は、身分を問わず入隊できた。
  そして、入隊希望者は、諸隊に入れば武士として取り
 立ててもらえるという噂があった。
  しかし、実際、赤根武人が、士気高揚のために藩へ願
 い出たが、「却下された」。
  入隊は、原則的に「志ある希望者」となっていたが、
 実際は・・「半ば強制的に入隊させていた」こともあっ
 たという。
  農民の記録では、「命(めい)により入隊」させられ
 た者も多く・・、
  「自分たちこそが明治維新の原動力」という自負があ
 りながら、充分な論功行賞も行われないまま「使い捨て」
 となった。
  家に戻っても、次男・三男は、養子にも行けず、
  耕す田畑もなく・・嫁も貰えない。
  冷や飯を食わされるだけの余生という状況は、彼らに
 とって受け入れられなかった。
  このこともあって、高杉晋作が、萩で評価されたのは
 ずっと後の時代になってからだった。
  しかし、やはり・・日本の気概(きがい、困難にも屈
 しない強い意気。気骨)を見せ、イギリスに、その様な
 日本人の姿を見せ、植民地化を封じた晋作は、「これだ
 けでも、大きな仕事をした偉人だった」。
.
1867年11月15日、坂本龍馬、暗殺される。
.
1868年4月6日、五箇条の御誓文
  明治天皇陛下が、新しい国づくりの大方針を明らかに
 し、明治政府の基本方針を示された。
  一、広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スへシ
  (会議を開いて、広くみんなの意見を出し合い、すべ
   ての政治は世論に従って決めるべきである)
  一、上下心ヲ一ニシテ、盛二経綸ヲ行フヘシ
  (身分の違いをこえて、みんなの気持ちを一つにし、
   国を治める施策をしっかり進めるべきである)
  一、官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシ
   テ倦マサラシメンコトヲ要ス
  (公家と武家が一体となり、一般の庶民でもその望み
   がかなうようにし、人々の気持ちが飽きて嫌になる
   様なことがないようにする必要がある)
  一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道に基クヘシ
  (古くからの悪い習慣をやめて、世界に通用する正し
   い道理に従うべきである)
  一、智識ヲ世界二求メ、大二皇基ヲ振起スヘシ
  (智識を広く世界に求めて、大いに天皇陛下が国を治
   める事業の基礎をふるいおこすべきである)
.
1868年(明治元年)、政府は、農民が、田畑に何を作付け
 するかは自由であるとし、田畑の売買も認めるとした。
  さらに、政府は、全国の地価(土地の金価格)を定め、
 土地所有者を確定して、『地券』を公布した。
  地券には、所有者・面積・地価・地租(税金)などが
 記されていて・・
  この地券を元に、1873年、政府は、地租改正に着手し
 た。
  地価の3%にあたる地租を、貨幣で納める制度に改めた。
  これにより、政府の歳入は安定した。
  土地所有者に、納税の義務を課し、財政基盤は固めら
 れた(江戸時代は米を物納した)
.
1871年8月29日、廃藩置県
  日本の2回目の無血革命。
  大久保利通らの新政府の指導者たちは、全国の藩を一
 挙に廃止した。
  薩摩・長州・土佐の各藩から集められた天皇陛下直属
 の約1万の御親兵を背景に・・、
  1871年7月、東京に滞在していた元藩主たちを皇居(元
 の江戸城)に集め、天皇陛下の名において廃藩置県の布
 告を言い渡した。
  廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止して、中央
 集権制の下での地方組織である県を置くことで、藩に残
 されていた「軍事と徴税の権限」をも新政府のものとし
 た。
  これによって、農民から集められた年貢は、藩ではな
 く、新政府の管理下に入ることになった。
  武士は失業したが、武士の禄は、その後しばらく、新
 政府が肩代わりして給付した。
  新政府は、反乱を恐れていたが、大きな混乱はなかっ
 た。
  新たに置かれた県には、新政府から派遣された県令(
 県知事)が治めることになり・・、
  日本は、統一された中央集権国家となり、中央政府
 権力が高まった。
  1871年7月、全国に、3府(東京府京都府大阪府
 302件が置かれ、半年後には3府72県となり・・、
  1888年に、ほぼ現在の区分となった。
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1872年、学制が発布された。
  「必ス邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事
 ヲ期ス
  (カナラズムラニフガクノコナクイエニフガクノヒト
 ナカラシメンコトヲキス)
  「学事奨励二関スル仰セ出サレ書(ガクジショウレイ
 ニカンスルオオセイダサレショ)」より・・
.
1873年、徴兵制が公布された。
  20歳に達した男子は、士族・平民の区別なく、すべて
 兵役に服することになった。
  今、日本も、体験入隊者には「特別な栄誉を与える制
 度」を設けるべきだ。
  今、中国からの人が自衛隊に多く入隊しているという。
  この逆が・・果たして「あるのだろうか」??
.
1941年12月1日頃、日本が、ハワイの真珠湾を攻撃する1週
 間から10日ぐらい前のこの頃、ハワイの新聞に、「日本
 が攻めて来る」という記事が掲載された。
  それも、大々的に大きな字による報道だった。
  また、ルーズベルト大統領の言葉に、「私は戦争を作
 った」という言葉がある。
  また、この新たな事実・・ハワイの新聞報道による事
 実がある様に・・、
  アメリカは「奇襲だ」「奇襲だ」と言うが、これは完
 全な嘘という事が、歴史が、また、明らかにした。
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1961年、アメリカは、ベトナムで卑劣な「枯葉剤を撒く」
 ・・「汚い・卑怯な手」を使った。
  この枯葉剤を撒くことを、何と、1975年までの15年間
 も続けた。
  この事によって、多くの死産が起き、また、奇形児が
 生まれた。
  戦争が終わった後でも、長くベトナムの方々を苦しめ・・
 影響の大きい悪の行為、卑劣な行為をアメリカは行った。
  これは、ベトナム戦争で、敵のベトコンの秘密ルート
 を見つけるためで・・、
  密林の樹木の葉が茂る事で、ベトコンの動きが見つけ
 られないために、この樹木の葉を枯らす「魔の薬剤」を、
 盛んに、アメリカは撒き続けた。
  この場所は、日中戦争の時に、日本の敵の中国・蒋介
 石軍へアメリカが、武器弾薬を与え、そして、支援した
 「援蒋ルート」の一つだった。
  (援蒋ルートは何本もあった)
  アメリカは、また、ベトコンの敵が、ベトナム住民の
 人々の家へ隠れるため、ベトナム住民の方々の家を焼い
 た。
  その住民の方々と共に、「ベトコンの敵を殺戮するの
 だ」として、住民の方も、もろとも、焼いた。
  村全体を「一気に焼いてしまう事」も行なった荒っぽ
 い卑劣なアメリカだった。
  女性も子供もお構いなく、この様な攻撃をするアメリ
 カだった。
  延々と長い期間に渡って、この攻撃は行われ続けた。
  ナパーム弾という燃焼性の高い薬剤を使った爆弾を投
 下して、無差別に、すべてを焼き殺した。
  大変多くの、言葉では言い尽くされないほど多くの方々
 が、ベトナムの方々が、一般住民の方々が・・焼き殺さ
 れた。
  日本軍は、いつの時でもしっかり軍服を身に着けて戦
 い、戦わない方々へ危害が及ばない様にしたが・・南京
 攻略戦の時も、中国軍はこの様な卑劣な事をした・・軍
 服を脱いで一般住民の中に隠れた。
  日本は、この住民の中に隠れた中国兵と戦ったが、一
 般住民の方々へ向かって爆弾などは、当然、投下する様
 な卑劣な事はしなかった。
  このベトナムのような、アメリカ軍の様な、卑劣な戦
 い方はしなかった。
  まったく、ベトナムでの、アメリカ軍の戦い方は、卑
 劣で荒っぽかった。
  非人道的な・・忌(い)むべき、蔑(さげす)むべき
 戦い方のアメリカだった。
  一般住民の方々が、何人、無為に殺されたというのか・・
  この事こそ、東京裁判ではないが、「ベトナム裁判を
 開催して、アメリカを糾弾すべきである」。
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1962年9月30日、こんなに近代になっても、アメリカは、ま
 だ、あちこちで人種差別をしていた。
  人種差別国=アメリカは、黒人の方々を差別し、事件
 も多発していた。
  この日、ミシシッピ州のオックスフォードにあるミシ
 シッピ大学で、かつて、朝鮮戦争で戦功をあげた戦士の
 黒人の方ジェームズ・H・メレディス氏の入学を巡って、
 卑劣な人種差別の妨害行為が発生した。
  あまりにも卑劣なので詳細は記さないが、死者が2人出
 て、
  また、多くの方々が重軽傷を負った。
  非常に大規模な抵抗・騒ぎだった(アメリカ白人たち
 は人種暴動を言った)
  大統領は、ジョン・F・ケネディだった。
  内戦のような状況だった。
  南北戦争を思わせる人種抑圧社会のアメリカだった。
  この中心に卑劣な「根っからの白人優越主義者」の知
 事ロス・R・バーネットが居た。
  結論を先に言えば「この黒人学生・メレディス氏は、
 入学を勝ち取った」。
  成績優秀で、翌年の1963年8月に、このミシシッピ大学
 を見事に卒業した。
  メレディス氏は、この後、公民権運動の熱心な活動家
 になった。
  まだまだ、人種差別国=アメリカは、公民権運動をし
 なければならないという状況の人種差別国の状態を続け
 る。
  アメリカ各地に、黒人の方々を奴隷として虐げ、そし
 て、その後も、延々と続く人種差別の虐げ行為、アメリ
 カ各地に懺悔の銅像を立てよ。
  これから、まだまだ、公民権運動が展開されねばなら
 なかった。
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1974年1月15日、西沙諸島パラセル諸島)の戦い(〜1974
 年1月20日
  西沙諸島パラセル諸島)の領有権を巡って、中国(
 中華人民共和国)とベトナム共和国(以下、南ベトナム
 が武力衝突し、交戦した。
  海戦によって、中国艦隊が、南ベトナム軍艦1隻を撃沈
 した。
  そして、南ベトナムが支配していた島嶼(とうしょ、
 島。島々)に部隊を上陸させて・・占領した。
  中国政府は、この戦いで、島々を占領した後、中国人
 を移住させて住まわせたり、中国人民解放軍を駐屯させ
 たりして、支配を強化した。
  この南シナ海にある既存の島での建設や、埋め立てに
 よる人工島の建設は、主に、ベトナムとフィリピンが何
 十年も行って来ていた。
  ベトナムは21島、フィリピンは8島の領有権を主張して
 いる。
  台湾とフィリピンは、領有権を主張する島の一部に軍
 を駐留させているが、ベトナムはUNCLOSの規則に
 従って島には軍を置いていない。
  (参考)UNCLOS:通称・略称は国連海洋法条約
     で、17部320条の本文などで構成されている。
  中国は、南シナ海での建設に出遅れたが、これまでに
 ない規模で、今、建設を進めている。
  過去1年半の間で、中国は、これまでのどの国よりも
 多くの建設を行った。
  また、中国は、他の国が行ってない事をしている・・
 それは、兵器を配備する事をしている。
  アメリカは、東南アジア諸国による建設行為には反応
 を示さなかったが、中国の動きに対しては、積極的に反
 対姿勢をとっている。
  南シナ海で、アメリカ海軍は、第二次世界大戦以降、
 継続的に活動している。
  カーター国防長官は、今後も活動を続ける確固たる意
 志があると表明している。
  アメリカは、南シナ海は公海であり、同海域での領有
 権は、「海洋法に関する国際連合条約(UNCLOS)」
 によって決められるべきだとしている。
  この南シナ海問題で、中国は、大きな読み間違い・錯
 誤をしている。
  中国の姿勢の根底には「大国意識」がある。
  南シナ海問題で、「ベトナムとの問題が大きくなって
 も、簡単に解決できる」と思っていた。
  中国の大国が、ベトナムとの二国間交渉によって、大
 国の圧力を見せながら「解決できる」と見ていた。
  しかし、「そのように事が運ばない世界」となってい
 る。
  このベトナムに、インドなどが接近し、「ベトナムが、
 ロシアから潜水艦を買うと、訓練施設の提供をした」。
  潜水艦の要員の養成には、シュミレーターが必要だが、
 この様な施設での養成の協力を行なう事になった。
  (インドは、ロシアから、すでに、同型の潜水艦を購
 入している)
  インドのベトナムを助ける介入となり、日本もこのベ
 トナムやフィリピンの沿岸警備隊に巡視艇を供与した。
  また、ベトナムは、オーストラリアとの戦略対話とイ
 ンテリジェンスの共有を始め、有益情報が受けられるよ
 うになった。
  中国の思惑通りにいかなくなっている。
  中国の台頭は、周辺国の協力関係を強固にした。
  二国間で、大国の思惑で、解決できると考えても、そ
 の様な「大国のエゴが通る世界ではなくなっている」。
  しかし、南ベトナム軍は、この西沙諸島の戦いで、哨
 戒艇ヌータオが撃沈され、
  哨戒艦リ・トン・キェトも大破したほか、残る2隻も損
 傷し、人的損害も多数の死傷者が出たほか、49人が捕虜
 となり、うち1人はアメリカ人の軍事顧問だった。
  因みに、中国軍は、掃海艇「389号」が大破したほか、
 駆潜艇「274号」も損傷した。
  人的損害は、中国側によると戦死18人、負傷者67人で
 あった。
  中国海軍の勝因は、速力や武装、特に、近接戦に有利
 な速射砲の数において中国艦が優っていた。
  ベトナム艦は、船体こそ大型でも速力が遅くて武装
 大口径砲が少数しかなく、より小型の中国艦に圧倒され
 た。
  また、戦術面でも、ベトナム側は、速力のばらつきが
 大きいためもあって、陣形を組んでおらず、しかも不利
 な接近戦を自ら挑むなどの問題があった。
  この戦いの結果、西沙諸島から南ベトナムの勢力は追
 い出され、完全に中国の実効支配下に置かれることとな
 った。
  中国軍は、永興島に4階建ての建物やヘリポートを整備
 し、戦車部隊やミサイル艇を駐留させるなど要塞化を進
 めた。
  今まで、ベトナム戦争終結後から、ベトナム統一を遂
 げたベトナム社会主義共和国(旧・北ベトナム)政府が、
 中国に対して西沙諸島の領有権を主張して、外交交渉を
 求めたが、中国政府は応じて来なかった。
  1988年には、中国は、2600m級の本格的な滑走路を有す
 る飛行場まで完成させ、南シナ海支配の戦略拠点として
 いる。
  1988年、中国軍は、ベトナム支配下にある南沙諸島
 スプラトリー諸島)にも侵攻すると、ベトナム軍を撃破
 して、ここも勢力下においた(南沙諸島海戦)。
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1991年11月26日、アメリカが、フィリピンのスービック軍
 港(スービック海軍基地)から撤退した。
  アメリカは、10年間の使用期限延長を望んだが、フィ
 リピン上院は拒絶し、1991年11月26日に、返還された
  遡(あかのぼ)ること19世紀、アメリカは、フィリピ
 ンを植民地にした。
  まったく卑劣な事をした。
  この事により、今、フィリピンの方々は、完全にアメ
 リカを嫌っている。
  フィリピンの方々は、1898年の米西戦争アメリカと
 スペインの戦争)以来、アメリカが、スペインに代わっ
 ての卑劣な侵略以来、フィリピンの方々は、アメリカに
 怒りを感じていた。
  そして、20世紀の1991年11月26日、フィリピンの方々
 は、アメリカをスービック海軍基地から追い出した。
  アメリカ兵による、フィリピン女性への強姦などにも
 その心底に怒りがあった。
  第二次世界大戦の時にも、アメリカ兵が、フランスの
 パリへ入った時、パリの町の至る所で、あからさまにア
 メリカ兵は、パリの女性(パリジェンヌ)を犯し、強姦
 した。
  あまりにも目にあまる状況だったので、パリ市長が、
 アメリカ軍上層部へのクレームを申し入れるような酷(
 ひど)い状況だった。
  やはり、このフィリピンにおいても、同じ卑劣な行為
 をアメリカ軍兵士はした。
  この事にも、フィリピンの方々は怒りを感じていた。
  フィリピンの上院は、16対17の票決でフィリピンから
 のアメリカ軍の撤退を決定した。
  この時、フィリピンの方々は、喜び浮かれた。
  これほどアメリカ軍は、フィリピンの方々を抑圧して
 いた。
  アメリカは、どの国へ侵攻、進駐しても、その国の女
 性の方々を犠牲にしていた。
  何の改善も見られず、同じ破廉恥を続けていた・・ア
 メリカはこの事から逃げていた・・まったく無責任状態
 だった。
  日本は、第二次世界大戦後、「慰安所を作れ」と、ア
 メリカから言われ・・日本は言われた様に作ったが・・
 卑劣な事件は、後を断たなった。
  アメリカ兵が銃を持って病院を襲い、看護婦をはじめ、
 妊婦の方々まで犯した・・この様な事件が多発していた。
  また、通学中の小学生が襲われ犯されたり・・あまり
 の多さに、アメリカは、『その様な新聞報道はするな』
 と命じるくらい、報道規制をかけるくらい酷いアメリ
 だった。
  サンフランシスコにこの銅像を立てよ!
  フィリピンの方々の喜びは、この様なアメリカ軍を追
 い出した喜びだった。
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2017年、今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん
 買われ、逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人
 になっているという。
  日本の北海道も中国化しているという・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive