(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月〜1866年1月)

題:(増補版)266D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年9月〜1866年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(慶応1年)9月10日、長州藩のはっきりしない態度
 に、将軍が江戸を進発するという令を、1865年5月12日
 (旧暦:4月18日)に出した。
  そして、将軍は、江戸を出発し、上洛し、参内した。
  幕府と長州の駆け引きが続く・・、
  そこまで出来る長州へと育っていた、また、幕府の権
 威が凋落していた。
  高杉も長崎に行ったり・・、長州藩は、抗幕態勢を整
 えている。
  長州藩の村田増六(後の大村益次郎)も、近代洋式軍
 隊の創設をした。
  薩摩の西郷と、長州の桂が、会談へと斡旋され・・、
  その様な時の、この日(1865年9月10日)、井上馨と伊
 藤博文が長崎へ入った。
  長州藩は、抗戦武装のため、小銃1万丁を求め、青木郡
 平を長崎に派遣していた。
  坂本竜馬は、薩摩藩の名義で、長州藩がイギリスより
 購入できるように薩摩藩へ運動した。
  薩摩が同意したため、桂は、藩政庁の承諾がないまま
 2人を長崎へ派遣したのであった。
  千屋虎之助、高松太郎、上杉宗次郎、新宮馬之助は、
 協議の上で、小松清廉に、薩摩藩で、伊藤・井上を潜匿
 (せんとく、人知れず隠れること)させるように依頼し
 た。
1865年、第二次長州征伐・長州再征が発令されて・・、
  長州藩は、朝敵の立場であったので、表立って武器は
 調達出来ず・・、
  薩摩藩が調達した武器を、長州藩に融通していた。
  ただ、薩摩藩も、まだ幕府と決定的に対立していたわ
 けではないので、
  まだ、表立って名前を出すことは出来なかった。
  その様な両藩を、仲介する形で、間に立ったのが坂本
 龍馬の率いる亀山社中だった。
  薩摩藩が調達した武器を、亀山社中長州藩に届け、
 長州藩は、その代金として米などで亀山社中に払い、亀
 山社中が、それを薩摩藩に輸送した。
  薩摩に限らず、多くの西国大藩はこの第二次征長には
 出兵しなかった。
  この時期、洋式兵制が整った藩はほとんどなかった。
  長州藩にしても 洋式兵制で、ある程度、訓練を受けた
 のは、まだ、3000〜4000人に過ぎなかった。
  小倉口の敗戦は、家茂死去以降、主力の筑前藩、肥後
 藩が引き上げた後に、小倉藩と、八王子千人隊だけにな
 ってしまったからだった。
  八王子千人隊は、洋式訓練受けている筈だが、活躍し
 たという事例がまったくないので、事実は不明?
  役に立たなかったのかもしれない?
  八王子千人隊は、八王子千人同心(はちおうじせんに
 んどうしん)とも言い、
  徳川家康の江戸入府に伴い、1600年に発足していた。
  そして、『徳川実紀』には・・、
  「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王
 子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首
 領とした。
  その理由は、八王子は、武蔵と甲斐の境界なので、有
 事の際には、小仏峠方面を守備させようとお考えになっ
 たからだった。
  同心どもは、常々、甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿
 の類をはじめとして、甲斐の産物の行商を行い、江戸で
 売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ
 った」(現代語訳)
  すなわち、千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に、徳川
 氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍
 豪農などで組織されていた。
  甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田
 家遺臣を中心に、甲斐方面からの侵攻に備えたためだっ
 た・・、
1865年12月31日、筑前の女傑・野村望東尼が、玄海の孤島
 姫島に流された。
1865年、牛乳の販売
  この年、幕府が、雉子(きじ)橋門内の牧場で牛乳をと
 り、一部を市中にも売り出した。
1865年、津田真道(つだまみち、法律家、法学博士、開成
 所教授貴族院議員)訳『西洋各国盛衰強弱表』
1865年、アメリカの第1期プロパテント時代(特許重視)
1865年、ジオヴァニ・カセリがファクシミリを発明した。
1865年、アメリカ合衆国で、この年まで、200年以上の間
 (1640年代〜1865年)、アフリカの方々と、その子孫の
 方々が、合法的に奴隷化されていた。
  その所有者は、圧倒的に白人だった。
  4家族に1軒が奴隷を所有し、
  奴隷にされた方々の労働から富を搾取するという、非
 人道的行為が行なわれていた。
  17世紀から19世紀にかけて、何と、1200万人ものアフ
 リカの方々が、
  アフリカ大陸の地から、奴隷として連れ出されて来て
 いた。
  荒れ地のプランテーションを切り開くという超重労働
 に従事させられて、亡くなるという・・アフリカからの
 奴隷の方たちだった。
  死亡率は凄まじかった。
  労働が、過酷になるほど、奴隷の方たちの反抗も増え、
 白人たちは、暴力に訴えて監督をするという状態だった。
  日の出から日没までの・・過酷な労働だった。
  ニューオーリンズの奴隷売買の市場が最大だった。
  白人の奴隷所有者の言葉が残っている・・、
  「奴隷に説得して働くように仕向ける事は、豚に真珠
 を投げる事に似ている。
   奴隷は、働くように仕向けなければならない、罰を
 受ける事を常に理解させておくべきだ」。
  腕力での管理が目に浮かぶ、
  その腕力を受けるアフリカから来た方々が悲惨だった。
  キリスト教の聖書にも、隣国に攻め入った、キリスト
 教徒の「神の許しを得て非行を行なう、奴隷狩り」のキ
 リスト教の教義が記されている。
  キリスト教の神は、叫ぶ、「○○人は全滅にせよ」「
 △△人は男だけを殺せ」「生娘は生かしておけ」
  そして、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・・と。
  自分たちの利ために、相手の民をしゃぶり尽くす。
  その事をキリスト教の神は叫び、そして、「奴隷にす
 る」。そのことをキリスト教聖書は説き、教える。
  聖書に書かれた事であるため、忘れられる事なく、連
 綿と歴史に、この悪行為は続けられて来た。
  市場で売買される奴隷の方々についての話・・、
  「その奴隷に売られる100人の娘たちは、印のために、
 足に石灰を塗られた。
  売りに出された奴隷だとすぐ分かる様に、その様な非
 人道的な事をされた。
  また、一家単位で取引される奴隷もあるが、その一家
 が、バラバラにされて、売りに出される、白人たちの勝
 手な都合で取引された。
  見捨てられた子供が、哀れだった。
1865年4月9日、アメリカ合衆国南北戦争が終了した。
  この南北戦争が終了すると、アメリカ政府は、今度は、
 アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々へ、
 全力投球の戦争でもって、向かって行った。
  その目的は、アメリカ・インディアンの方々を狭い区
 域に入れたい、閉じ込めたい、
  そして、アメリカ・インディアンと白人・アメリカ人
 との間を引き分ける「はっきりした境界線」が引きたい
 のだった。
  そして、それをやるために、あらゆる戦争・軍事上の
 行動をするという方針だった。
  アメリカ・インディアンのスー族が、この勝手なアメ
 リカ政府の方針に、特に、抵抗した。
  それまで虐げられてきたインディアンの方々、スー族
 の方々は、やっと住み慣れたプラット川の谷に広がるブ
 ラックヒルズの領土を守りたいと思った。
  領土防衛のために決死の覚悟で立ち上がった。
  スー族は、アラパホ族やシャイアン族の理解と支持を
 受けた。
  戦いが繰り広げられた。
  戦いは長く続いた。
  被害が大きい『消耗戦』となった。
  悲惨な戦いが続いた。
  アメリカ政府は、インディアンの方々と交渉を持つ方
 針に切り替えた。
  1868年の春に、ララミー砦で結ばれた約束・条約では、
 スー族によるブラックヒルズとプラット川渓谷の統治権
 が認められた。
  アメリカ政府が作らせたアメリカ軍の砦のいくつかも
 撤去する事となった。
  しかし、アメリカ・インディアンの方々が、当然、得
 たいだろう自由に住む権利、生活する権利は奪われたま
 まだった。
  肝心の、この当然の権利は認められなかった。
  狭い居留地に住み続けさせることが、アメリカ政府の
 根本精神だった。
  人権は全く認められていなかった。
  隔離生活が続き、虐げられた。
  ここに、自由や民主主義は全くなかった。
  人権、人道に従う道もまったくなかった。
  アメリカ・インディアンの方々の多くの命を懸け、殺
 戮され、失った命が無駄になってしまっていた。
  この戦いが起こされる前、アメリカ政府は、インディ
 アンの方々へ、インディアンの土地に止まるのではなく、
 さらに西へ行って金を探すためだと嘘を言っていた。
  「我等と同じ人々よ、よく聞け、ワシントンにいる白
 人の長の言う事は、嘘となり(だましとなり)戦争にな
 ってしまう。私は戦うつもりだ」と。
1865年4月14日、第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハ
 ム・リンカーンが狙撃された。
  フォード劇場で「Our American Cousin」(われらのア
 メリカのいとこ)を、
  妻メアリー・トッド、従者フォーブスとラスボーン少
 佐、少佐のフィアンセのクララと観劇中だった。
  北部軍メリーランド州出身のジョン・ウィルクス・ブ
 ースに1.2メートルの至近距離から、拳銃で、後頭部左耳
 後5センチを1発、撃たれた。
  狙撃時刻は、午後10時13分(午後11時17分?)
  4月15日、午前7時21分、向かいの民宿、ピーターセン
 ハウスにて死亡が宣告された(1809年〜1865年)
1865年、北部人による南部人へのいやがらせ
  アメリカの南部人は、北部人から、嫌がらせを受けた。
  その市長の席から、町長・村長の席から、郵便局長の
 席から、あらゆる要職の席から、北部人によって追放さ
 れた。
  そして、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  これは、当てつけだった。
  嫌がらせだった。
  自分たちが、しなかったことを、できなかった事を、
 南部人に対してやった。
  1872年に至って、やっと、この嫌がらせ行為を止めた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive