(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月〜1888年8月)

題:(増補版)466E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年7月〜1888年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年7月21日、枢密院議長の伊藤博文が、書記官長の井上
 毅に憲法草案の内、枢密院で問題になった点についての
 再検討を指示した。
1888年7月29日、朝鮮の志士・金玉均が、小笠原から札幌へ
 移された。
1888年7月30日、辰野金吾(たつのきんご)設計の工科大学
 本館が落成した。
  この建物の敷地は、本郷における工学部発祥の地と言
 える。
  1888年(明治21)年、ここに学部最初の校舎、旧工科
 大学本館が建った。
  建物には時計台のある大きな中庭があり、一種の広場
 のように使われていた。
  設計は、東京駅や日本銀行な設計で有名な辰野金吾
 授。
  震災後完成した現在の1号館は、1996(平成8)年、建
 築学科の香山壽夫教授によって増改修が行われ、光庭が
 屋内化され「広場」が復活した。
  学生たちの生活の中心であり、卒業式などを行うハレ
 の場にもなっている。
  (東京大学創立130周年記念事業 知のプロムナード 
 ナビゲーション・ブック)より
1888年7月31日、大久保一翁(おおくぼいちおう)が没した。
  幕末〜明治時代の武士(幕臣、幕府閣僚)、政治家(
 維新政府の官僚)
  当初の実名は忠寛。名ははじめ忠正、のち忠寛(ただひ
 ろ)。
  通称は金之助、三市郎。号は石泉。
  1818年(文化14年)11月29日、旗本・大久保忠向の子
   に生まれ。 江戸出身。
  1842年(天保13年)24歳、家督相続。
  1854年安政1年)5月、36歳、(ペリー来航後)目付
   に登用され、海防掛を担当、軍制改正用掛、蕃書調
   所頭取、外国貿易取調掛を兼ねる。
   駿河町奉行を経て、
  1858年(安政5年)5月、40歳、禁裏付を命ぜられ京に
   赴任、
  1859年(安政6年)、41歳、京都町奉行となる。
   安政の大獄で志士捕縛に当たった配下の専横に対し
   て粛正を図り、かえって西ノ丸留守居に左遷され、
   次いで罷免された。
  1861年文久1年)10月、43歳、復帰して外国奉行
  1862年、44歳、大目付、次いで側御用取次。
   この頃、大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体
   論を唱え松平慶永勝海舟らに影響を与えたものの、
   幕府有司の反発を受け罷免、
  1862年11月、44歳、差控に処せられる。
  1864年(元治1年)7月、46歳、勘定奉行に任ぜられた
   が4日後に免職、
  1865年2月、47歳、隠居し一翁と改名。
   この様に、老中・阿部正弘に重用され、大老・井伊
   直弼(なおすけ)にうとまれた。
   井伊没後、外国奉行大目付などとなり、松平慶永
   (よしなが)らと大政奉還を説いた。
  1868年(明治1年)50歳、鳥羽・伏見の戦で徳川軍が敗
   北してのちの
  1868年1月、会計総裁、次いで若年寄として海舟と共に
   江戸を開城に導き、新当主徳川家達に従い静岡に移
   住した。
  1872年(明治5年)5月、54歳、命により東京府知事
   なり東京会議所の民会組織への改革を図り挫折、以
   来、教部少輔,元老院議官を歴任したが、新政府とは
   隔たったところに身を置く。
  1887年(明治20年)69歳、子爵。
   「なにひとつ世のためはせでまうつしに のこす姿の
   はずかしきかな」。
   晩年、写真を撮ったときの感慨。
   維新後は、東京府知事元老院議官。
  1888年明治21年)7月31日死去。72歳。
  (氷川清話)7月、山岡鉄太郎、大久保一翁逝去
1888年8月1日、東京築地の海軍兵学校が、広島県江田島
 移った(開校は8月13日)
  海軍兵学校は、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成
 を目的とした教育機関
  そして、海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校
 とともに海軍三校と呼ばれた。
  その規模では、イギリスの王立海軍兵学校、アメリ
 の合衆国海軍兵学校とともに、世界三大士官学校の一つ
 に数えられている。 
  英語教育を重視し、総計、1万2433名の卒業生を輩出し
 ている。
  戦後、各界のリーダーとして活躍する卒業生も多い。
  沿革として、1869年に出来た海軍操練所がある。
  因みに、山本五十六元帥は32期の卒業生。
  南雲忠一大将は36期。
  (参考)
  1886年明治19年)1月に、海軍兵学校次長兼教務総理
 に補せられた伊地知弘一中佐は、英国留学の経験から「
 兵学校を僻地に移転するの理由」なる一文を草して、江
 田島への移転を強く訴えた。
  その理由とするところは・・、
  第一、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を
   堅実ならしむるに在り。
  第二、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精
   神勉励の一途に赴かしむるに在り。
  第三、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都
   会を避くるを良策とす」というのであった。
  1886年明治19年)5月、呉に鎮守府が設置された関係
 もあって、江田.島移転が本決まりとなり、
  1886年6月には、東京から派遣された視察団が、建設用
 地の測量を開始した。
  1886年明治19年)11月、新校舎建設工事に着工、
  1888年明治21年)4月、物理、水雷、運用の3講堂と
 重砲台、官舎、文庫等落成。
  1888年同年8月1日をもって、海軍兵学校は、江田島
 浦の新校舎に移され、東京から回航して江田内に面した
 表桟橋に繋留された東京丸を生徒学習船として・・、
  1888年8月13日から開校された。
1888年8月1日、兌換銀行券条例を改正し、発行限度7000万
 円とする保証準備発行を定め、
  特別の場合は、政府の許可で制限外発行とする保証準
 備屈伸制度が布かれた。
1888年8月1日、内国通運が、貨物早達便を開始した。
1888年8月7日、読売新聞が磐梯山の写真を掲載した。
  新聞の写真掲載の初めとされる。
  福島県会津磐梯山の大噴火を銅版画で掲載。
  報道写真の元祖とも言える試みだった。
1888年8月16日、東京市区改正条例が公布された。
1888年8月20日、家茂、27年忌、
  家茂の27年忌に、勝海舟が読んだ弔辞
  「旧臣勝安房、昭徳公霊前に口演」という文章は、熱
 のこもった感動的なものだった。
  家茂将軍夫人の皇妹和宮は、未亡人となってからは、
 髪を下して静寛院と称された。
  結婚生活はわずか4年だった、
  しかも、江戸城総攻撃の時は、宮は徳川家と生死を共
 にする覚悟を表明された。
  この宮を救うためにも、勝海舟は、その当時、奔走し
 たのであったが、
  亡き将軍・家茂への恩は、いつまでも勝海舟の胸に消
 えなかったのであろう(氷川清話より)
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  (今日の言葉)
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  題:日本人の優秀さを示す、また、一つの事例がある・・、
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1987年(昭和62年)世界初のエイズ治療薬AZT(アジド
 チミジン)が、日本人の満屋裕明氏が発見・発明し、
  この年に、アメリカで承認され、
  患者の方々は、治療の恩恵を受ける事が出来る様にな
 った。
  満屋裕明氏は、エイズに効果があるという薬の用途を
 立派に発明し、「栄光の発明者」となった。
  しかし、問題が起きた。
  アメリカという、卑劣な地の発明に原因があった。
  この薬の値段を、満屋祐亮氏は聞いて驚いた。
  1年間で、治療費が、約1万ドル(当時のレートで約150
 万円〉と、前例のない様な高額だった。
  まず、アメリカは、日本のような医療保険制度がない
 遅れた国だった。
  アメリカの所得の低い方々には、その薬価の為、その
 薬の恩恵が受けられず、
  次々と、エイズで命を落として行った。
  折角、良い薬が出来たというのに・・、
  薬の開発者の満屋裕明氏は、その姿を見て、胸が痛ん
 だ。
  良い薬を開発したというのに、その恩恵に浴せないア
 メリカの方々が多く居た。
  その状況を解決できない遅れたアメリカ合衆国だった。
  そして、満屋氏が怒りが湧いたところは、その高価な
 薬になる理由だった。
  満屋氏は思った・・「なぜ、こんなに高いのだ、この
 薬は、政府の研究機関で、アメリカの国民の方々の税金
 を使って開発された薬ではないか?」・・と感じた。
  エイズ問題の活動家たちも、抗議行動を起こした。
  濡れ手で粟の利益を享受しているのは製薬会社だけだ
 った。
  この薬が出来た貢献度は、まったくない製薬会社だっ
 た。
  この製薬会社は、この薬が、エイズ治療になるとか、
 ならないとか、まったく分かっておらず・・不明な薬を、
 ただ、エイズへの効果を発見した満屋氏へ、「送っただ
 け」のことしかしなかった会社だった。
  実験なども、この会社は、まったく行わなかった。
  実験などは、製薬会社と、まったく関係ない所で確か
 められたのだった。
  つまり、満屋裕明氏は、特許で認められている「薬の
 有効な用途を、最初に発見・発明した人」だった。
  その特許の「用途発明」をした発明者として、れっき
 と認められる人だった。
  また、実験などは、製薬会社はまったくせず、
  製薬会社と、まったく関係ない所でその薬の効果は確
 かめられた。
  (発明性の確認が製薬会社とまったく別の所で確認さ
 れた)。
  逆に、この製薬会社は、当時、治療薬がなく、そして、
 治療法もなく、危険とされていた「エイズ・ウイルス」
 から遠ざかり(逃げ)・・、
  この製薬会社は、まったく、エイズウイルスを取り扱
 おうともしなかった。
  危険性の高い患者の血液検査も拒んで、研究協力もし
 なかった。
  研究の足を引っ張っていた。
  しかし、しかし、この会社は、発見者・発明者に知ら
 せずに、隠密に、特許を申請し、独占するというハレン
 チな事をした。
  権利は、会社だけが独占した。
  (だから・・発明者の方々は、まず、論文発表などの
 公表をする前に、最速で、特許を申請すること、
  そして、共同で研究している輩たちが、誠実に行動せ
 ず、真の発明者から「大切な特許権」を盗む事例が多い
 ので、注意を要する。
  この事例の場合には、共同研究者でもないのに盗んだ
 という最悪の破廉恥さがある)
  この製薬会社の不正義は、アメリカのメディアも取り
 上げた。
  ニューヨーク・タイムズは、「薬を開発し、リスクの
 多くを負ったのは、(満屋裕明氏らが居る)アメリカ政
 府だ」との論説記事を載せた。
  製薬会社は、別の企業や消費者団体から「特許は無効」
 などの訴訟が起こされた(発明者でもない人を発明者と
 した・・など)。
  満屋氏も、法廷の場に立って発明状況などを証言した。
  製薬会社側の弁護士から、威嚇の様な詰問を、連日、
 受けた。
  莫大な金がからむ、大発明の権利訴訟、満屋氏は、命
 の危険の恐怖に襲われた。
  その様な話もあるアメリカという国の中、「僕も殺さ
 れるのではないか?」と思った。
  暗い駐車場など、怖い思いを多くした。
  医学論文の発表は、勿論、発明者の満屋裕明氏が、世
 界初の発明者として発表しているので(この「初」とい
 う所に特許性がある)、
  世界は、満屋裕明氏を、『エイズ治療薬の初の発明者・
 開発者』として認めている。
  しかし、アメリカの訴訟の不正義が、ここでも起きた。
  満屋氏などの訴えは認められず、敗訴した。
  製薬会社側の勝訴となった。
  製薬会社は、満屋氏へは1円の報酬も支払っていなかっ
 た。
  この訴訟で、アメリカの法律の不備が明らかになった。
  連邦政府管轄の研究所で開発された薬の権利関係を定
 めた技術移転法が整備された。
  満屋氏の次なる研究目標=「安価なエイズ治療薬の開
 発」の意義がここに生まれた。
  人類のために、安価なエイズ治療薬の開発の大きな意
 義が生まれた(人類の皆様が、安心して安価な薬の享受
 が出来なくて、何の意味があるのか・・?)
  もっと安価な治療薬の開発の必要性を感じが満屋氏は、
 その薬の開発に乗り出した。
  満屋氏の本当に凄い所は、その大きな意義を達成して
 しまったところにあった。
  第二・第三のエイズ治療薬を開発してしまったところ
 にあった。
  人類が絶滅するのではと恐れられた「恐怖の病気・エ
 イズ」を克服して戴けたのだった。
  しかし、アメリカは、この例の様な「特許権を奪う行
 為が多発している」。
  アメリカだけのへ理屈理論の「先発明主義」などがあ
 って、日本の大発明は、いくつも盗まれている。
  満屋氏には、「ノーベル賞の授賞資格が、立派にある」
 が、
  このノーベル賞の査定委員会が、また、曲者で、
  この様ないきさつの満屋氏は、有色人種の日本人とい
 うこともあり、特に、不利に働いている。
  残念だが・・。
  (読売新聞、2016年11月22日を参考にした)
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  そして、次・・、
.
1987年、世界で、初めて、。エイズに効く治療薬が開発さ
 れた。
  開発したのは『日本人』である。
  本当に、人類を滅ぼすと言われたエイズ治療薬を、初
 めて開発した日本人は、本当に、本当に素晴らしい。
  この薬は、日本やアメリカで承認され・・、
  それまで・・「死の病(やまい)と恐れられていた病
 気が克服された」。
  「薬を待ち望んでいた患者の方々へ、恩恵がもたらさ
 れた」。
  薬の名は「AZT]。
  エイズは、それまで、「人類を滅亡させる病(やまい)」
 とまで言われ、そして、恐れられていた。
  この薬を作った人は、開発者ではないが、ジェローム
 ホーウィック博士。
  アメリカ・ミシガンがん研究所(1919年〜2012年)。
  しかし、この薬は、エイズの薬として開発されたので
 はなかったので、世に、この点で埋もれていた。
  エイズに聞くとは分かっていない薬だった。
  つまり、エイズ治療薬としての発明に至っていなかった。
  ジェローム・ホーウィック博士は、だから、エイズ
 療薬の発明者ではない。
  この薬が、エイズに効くではないかと「偉大な発見を
 したのが、日本人の満屋裕明(みつやひろあき)氏」だ
 った。
  エイズウィルス(HIV)薬の発見者・発明者だ。
  ジェローム博士も満屋裕明氏も、ノーベル賞クラスの
 業績を作ったのである。
  ジェローム博士が、出身大学からAZT合成の功績で
 表彰された時、満屋氏は、博士に会いに行った。
  そして、博士を讃え、お礼を言った。
  博士にとても喜んで戴き、博士は、受賞記念講演で、
 アメリカ詩人・エマーソンの詩を朗読した。
  「成功とは何か。しばしば、そして沢山笑うこと。聡
 明な人々の称賛と、子供たちの愛を勝ち取ること。偽り
 の友の裏切りを許すこと。世界を少しだけ良くして去る
 こと・・」、
  博士は、その詩を書いた紙を「進呈する」と言って手
 渡してくれました。
  うれしかった。
  今でも大切にしています・・と満屋氏は書く。
  ジェローム博士にしてみれば、埋もれた物質(薬)を、
 エイズ治療薬として発明してくれた満屋氏が居られたか
 らこそ、世に注目され・・そして、浮かび上がることが
 できたのだった。
  そういう意味で、ジェローム博士は、満屋氏へ感謝の
 心・感謝の意思を表したのだった。
            (読売新聞を参考にした)
.
  (追伸)
  ☆アメリカの「先発明主義(せんはつめいしゅぎ)」
 の卑劣な所:
  この主義でアメリカは、他国の特許を奪うことをよく
 するのだが、
  アメリカの研究者が、先に発明していたと認定されれ
 ば、例えば、日本人の特許権が奪われるのである。
  例えば、研究者のノートか何かにそれが書いてあって、
 先に発明していると認定されると、特許権を奪えるので
 ある。
  日本の特許は、「先願主義(せんがんしゅぎ)」であ
 って、
  日本の考え方は、先に発明したと気が付いたなら、特
 許庁へ「特許申請の願書」を提出しなさい・・という考
 え方である。
  例え、発明しても、特許庁のその願書と同じことをし
 ていたとしても、それが発明をしたと気が付かなければ、
 「発明したことにはならないのですよ」という考え方で
 ある。
  例えば、風車をいくら作ったとしても、そして、それ
 を大きくして発電機を付けたとしても、『風力発電』を
 発明したと気が付かなければ、
  そして、それを、山や野原に設置して風力で発電する
 のだと、その発明をしたのだと・・気が付かなければ、
 発明したことにはならないのですよ・・という考え方で
 ある。
  「先願発明」を発明としている国が多いが、アメリ
 だけが「先発明主義」をしているという異常さがある。
  ☆アメリカの特許法の異常さの二つ目は・・、
  サブマリン特許:潜水艦の様に潜っているのである。
  「特許が出願されました」と公開されずに、秘密にさ
 れていて、
  特許権があるとは知らずに、その特許と同じことをし
 ていたら、
  急に、こんな特許が出願されていて特許権を持ってい
 たのだと、急に公開されて、特許権侵害で多額のお金を
 取られるのである。
  アメリカは汚く、この手で、日本の企業から何回も多
 額の金を奪った。
  さも、水面下に隠れていて、急に浮上するからサブマ
 リン特許と言うのである。
  何しろ、アメリカは不正義な国である。
  アン・フェアな国である。
  盗人(ぬすっと)みたいなことばかりしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive