(増補版)460E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月〜1888年3月)

題:(増補版)460E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月〜1888年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年1月、日本セメント会社が創業した。
  官営の深川工作分局セメント工場を起源とする。
  (旧)日本セメントを系列化した鈴木商店は、大正末
 期には、大蔵省から台湾銀行を経て鈴木商店理事に迎え
 られた長崎英造を役員に送り込んだ。
  1939年(昭和14年日本セメントは、浅野セメント
 吸収合併され、
  1947年(昭和22年)浅野セメントは、新生・日本セメ
 ントに商号変更された後、
  1998年(平成10年)秩父小野田と合併し、太平洋セメ
 ントとなり業界最大手のセメント会社が誕生した。
1888年1月、一字名の雑誌が流行(はや)る(「文」「学」
 「友」「情」「法」など)
1888年2月1日、大隈重信が、外相に就任した。
1888年2月1日、元老院が、町村制修正案を上奏した(2月8
 日説あり)
  内閣は、市制町村制法案を元老院に付議したが、
  その元老院は、1875 年に設置されたものの、
  後年の国会と違い、公選の議員よりなるものではなく、
 政治家、学者、知事、軍人などがメンバーとなっている
 ものであった。
  また、その権限も不完全なものであり、
  内閣から交付された議案を修正できるが、その修正は
 必ずしも拘束力を持たないといったものであった。
  このように、元老院の審議を経た後、地方長官を招集
 してその意見を聞いた。
  地方長官側より、準備期間を置くことを要望したので、
 府県知事の具申を待って、順次、施行することとされた。
  市制町村制法案は、1888年2月1日に上奏され、
  1888年3月21日に、閣議に提出されたが、
  そこでさらに、市長の公選制(市会が推薦した候補者
 3名の内から、内務大臣が選任し、天皇が任命する)、
  その時点の案では適用外とされていた東京、京都及び
 大阪への市制の適用という変更が行われた。
  このような経緯を経て、市制町村制は・・
  1888 年4月17日に公布された。
  (財団法人・自治体国際化協会政策研究大学院大学
 比較地方自治研究センター、立命館大学政策化学部・上
 子秋生教授より)
1888年2月3日、 文部省が、「紀元節歌」を学校唱歌と定め
 た。
  高崎正風詞・伊沢修二曲の「紀元節歌」を学校唱歌
 して府県・直轄学校に送付した。
1888年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  日刊新聞で、日刊紙『東京電報』の後身として、『日
 本新聞社』から発行された。
  フランスの輪転機を輸入し発刊したが、発行部数が伸
 びず、その稼働率は低かった。
  過度な欧化主義を嫌い、国権の伸張を唱える国民主義
 で、同紙は『新聞停止法』により頻繁に咎められた。
  1888年明治21年)から 1897年までに22回、延べ131
 日間の発行停止処分を受けた。
  1892年(明治25年)入社の正岡子規(常規)は、最初
 は短歌、後に俳句も手掛けた。
  また、高浜虚子(高浜清)らも投句していた。
  1898年(明治31年)には、正岡が『歌よみに与ふる書
 を連載した。
  そして、根岸短歌会を経て、短歌のアララギ系や俳句
 のホトトギス派が隆盛となる基礎を作った。
  伊藤欽亮(実業家)が社長に就任すると、新聞『日本』
 は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系
 聞となった。
  そして、社屋が火事となり、事業継続が不可能となり、
 1914年(大正3年)12月31日廃刊となった。
1888年2月25日、大阪・名古屋・広島・熊本の各師団に、騎
 兵大隊を設置した。
  1888年明治21年)、大日本帝国陸軍が、鎮台から師
 団に組織変更をした際、
  騎兵の兵力は、1個師団あたり1個騎兵大隊というもの
 であり、この時点では騎兵連隊は存在しなかった。
  騎兵連隊の前身である騎兵大隊は、1888年から1896年
 (明治29年)にかけて存在した。
  1894年(明治24年)〜1895年(明治25年)の日清戦争
 時点では・・、
  騎兵第1大隊(東京、第1師団)
  騎兵第2大隊(仙台、第2師団)
  騎兵第3大隊(名古屋、第3師団)
  騎兵第4大隊(大阪、第4師団)
  騎兵第5大隊(広島、第5師団)
  騎兵第6大隊(熊本、第6師団)
1888年2月、皇城(東京城江戸城)の正殿が完成した。
  中庭に対して南面し、木造平屋建て、外観は和風で入
 母屋造り。
  内部は二重格天井。
  シャンデリア、絨毯などを取り入れた折衷様であり、
 外国使臣に東洋屈指の大美術と賞賛された。
  1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典
 が挙行された。
  1945年(昭和20年)の東京大空襲により他の宮殿殿舎
 とともに焼失した。
1888年2月、鈴木政吉が、バイオリン製造をはじめた(1887
 年説あり)。
  鈴木政吉は、1859年(安政6年)、現在の名古屋市東区
 宮出町に生まれた。
  父・正春は尾張藩士だったが、乏しい家禄で、生計を
 たてるのが困難だった。
  そこで、細工好きの腕を琴・三味線づくりの内職に役
 立てた。
  長兄は夭死し、次男・政吉は奔放に育った。
  8歳から3年間は、漢学を習った。
  その後、様々な勉学に励むが、時代の流れとともに維
 新の政変と貧乏にさいなまれた。
  地代が変わったことで、家禄も奪われ、内職を家業に
 くら替えした。
  政吉は、武士の商法に打って出た父の手助けをした。
  この家業手伝いの2年が過ぎた14歳の時、
  政吉は、従姉の嫁ぎ先である東京浅草の塗物商・飛騨
 屋の奉公人として上京した。
  この奉公生活は、主人夫婦が揃って亡くなるまでの約
 3年間だった。
  この期間の試練は貴重な体験となった。
  深夜には、読売仮名付新聞で文字を覚えた。
  また、記帳や発信の基本を自習したりした。
  この日毎夜毎に養い鍛えた知識が、かけがえのない財
 産となり将来のバイオリン製作に活かされたと、後に語
 った。
  3年後に帰郷し、家業の三味線づくりの下職に従事する
 ようになる。
  政吉は、飛騨屋仕込みの早起遅寝で奮闘し、翌年には
 父から一家をまかされるようになった。
  しかし、大工の半分くらいしか稼げぬ苦境が続く。
  唯一、仕事に対する面白さだけを糧に、苦境に耐えた。
  そして、明治17年に、父が病死する。
  その後の不況は、政吉に、格別な試練となる。
  また、鹿鳴館の鼓動が容赦なく和楽器の需要難に拍車
 をかけた。
  そんな苦境の中、政吉は、高給が望める音楽教師にな
 ることを考えた。
  父の奨めで長年稽古していた長唄の素養を活かせば教
 師になることが可能だと聞いたからだった。
  稽古仲間のつてで、愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之
 助の門を叩いた。
  入門後程なくして、運命の出会いとなる。
  政吉は、同門の甘利鉄吉から和製バイオリンを見せら
 れ、たちまちそれに魅了された。
  徹夜でそれを模写た。
  1週間で仕上げ、苦心のバイオリン初作を恒川に見せた。
  そして、その嘉賞と激励を励みに手掛けた第二作が売
 れ、注文も舞い込んで来る。
  助手を数名を雇うようになった。
  1887年(明治20年)初頭のことだった。
  数ヶ月後、岐阜県師範学校に本物の舶来品があると知
 り、政吉は自作を携行してこれに一騎打ちの比較を挑ん
 だ。
  結果は、見事な惨敗だった。
  しかし、その舶来品のバイオリンは、日本の梅雨の湿
 気にやられて板がはがれた。
  何と!その修理が政吉にまかされたのだった。
  この時、この舶来バイオリンを、政吉は、とことん模
 写した。
  これが、製品的にも、また、精神的にも飛躍のチャン
 スだった。
  1890年(明治23年)、生家から東門前町の借家に仕事
 場を移した。
  そして、さらにその翌年に、大枚300円を投じ、向かい
 の住宅を買入、これを工場にして生産・研究を続けた。
  その結果、第3回内国勧業博の有功賞(1890年・明治23
 年)を皮切りに、
  北米コロンブス世界博の賞牌(1893年明治26年)、
  第4回内国勧業博の進歩賞(1895年・明治28年)を受賞
 し結実していった。
  政吉は、これらの表彰によって自信を得ながらも、用
 材の選定から乾燥の具合、塗装の配合等といった製作上
 のあらゆる難問にぶつかり、経験を積んだのだった。
  しかし、長唄の稽古で養った自慢の耳と、口癖にいう
 “二つのぼう”で、彼はそれらの難問と戦いながらバイ
 オリン製作に没頭して行った。
  二つのぼうとは、辛抱(しんぼう)と貧乏(びんぼう)
 のことだった。
  その様な精神のもと、政吉は、その後に訪れる経済恐
 慌を凌いで行った。
  (鈴木バイオリン、ホームページを参考にした)
1888年3月1日、帝国生命保険会社が開業した。
  後の朝日生命保険相互会社で、古河グループに属する。
  近代的生命保険会社では2番目に設立。
  因みに、タモリは、福岡時代に、同社の保険外交員と
 して3年近く勤務していた時期がある。
1888年3月19日、勝海舟、孫女伊予子誕生(氷川清話)
1888年3月、荏原郡三田村(恵比寿)にビール工場地を購入
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が、東京・
 荏原郡三田村(現=渋谷区恵比寿)に、
  工場地として9000坪を購入した。  
  工場建設(1889年)
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  (今日の言葉)
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  題:正義の人・・リンドバーグ・・
   アメリカよ、歴史に恥ずかしくない行動をせよ!
   目先の利に捉われて・・ずる賢いことはするな! 恥ずかしいことはするな!
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1939年、リンドバーグが、アメリカに帰国した。
  リンドバーグは、大西洋の単独横断飛行を成功させた
 英雄で・・、
  彼は、アメリカ大統領のルーズベルトが、アメリカ国
 民の方々の意思に反して、戦争へ向かっている事を知っ
 た・・その時・・、
  リンドバーグは、その戦争への道を回避しようと行動
 を開始した。
  ラジオなどで訴えた。
  ルーズベルトの下で、ルーズベルトの意を受けて働く
 内務長官のイッキーズは、
  そのリンドバーグの行動に対抗し、抵抗した。
  リンドバーグ批判を繰り広げた。
  リンドバーグは、ルーズベルトへ、手紙も書いて訴え
 た。
  リンドバーグは、1939年に、アメリカに帰国して以来、
 戦争回避の活動をつつけていた。
  ルーズベルト政権の内務長官・イッキーズは、リンド
 バーグを激しく攻撃した。
  リンドバーグを「ナチの回し者」となじった。
  また、「敗北者」と言った。
  また、「ドイツの荒鷲の騎士」とドイツの回し者を印
 象付けようとして言った。
  リンドバーグは、「大西洋横断の偉業」を、各国から
 表彰されていた。
  アメリカ大使館は、ドイツとの関係を改善したいと、
 ドイツへ、リンドバーグ表彰を強く要請していた。
  ドイツは、その要請を受け・・、
  「大西洋横断単独飛行など航空産業への貢献をした」
 として、ドイツの最高の名誉勲章である「ドイツ鷲十字
 章」をリンドバーグへ与え、表彰した。
  リンドバーグも、各国から与えられる表彰一つと考え
 て、その勲章を受けていた。
  しかし、卑劣にも、ルーズベルトの内務長官イッキー
 ズは、この事を攻撃した。
  リンドバーグは、「アメリカを戦争へ導く」三つのグ
 ループがあると分析していた、
  一つが、イギリスで、戦争が窮地に陥っていた、ドイ
 ツの占領域が拡大の一途だった。
  二つ目が、ユダヤ人、ドイツのユダヤ人の方々への苦
 難から当然だった。
  そして、三つ目が、ルーズベルト政府・・、
  そして、リンドバーグは、戦争への最大の先導者は、
 このルーズベルトなのだと分かっていた。
       (エール大学「リンドバーグ文庫」)
.
  リンドバーグの絡(から)む・・次の話・・
.
1944年6月、太平洋のニューギニアの日米の戦いについて、
 リンドバーグは訴えた・・、
  「アメリカは、残酷な戦いをしている」・・と・・、
  リンドバーグは書いた・・、
  「アメリカ兵は、死者への尊厳を、いっさい、持たな
 くなったようだ。
  敵兵(日本兵)の勇気についても考慮しない。
  遺体の歯を足で蹴(け)って金歯を取り出し、土産に
 する。
  武器も食糧もなく、降伏しようとする日本兵を容赦な
 く射殺する。
  われわれは、果たして本当に文明国家を代表している
 のだろうか」・・(リンドバーグ第二次大戦日記)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive