(増補版)476E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月〜1889年1月)

題:(増補版)476E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月〜1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年、報道・新聞:
・秋田魁(さきがけ)新報と改題した:2月15日
  秋田魁新報社が1874年2月2日に創刊されている。
  東北地方で最も長い歴史を持つ日刊の新聞。
  首相となる犬養毅主筆を務めた。
・大阪の「朝日新聞」が「大阪朝日新聞」と改称した。
  1879年1月25日、『朝日新聞』が大阪で創刊された。
  1888年7月10日に、発行元の朝日新聞社が東京へ進出し、
 『東京朝日新聞』を創刊した。
  大阪で発行される新聞の題号はその後もしばらく『朝
 日新聞』だったが、
  1889年1月3日に、『大阪朝日新聞』と改題した。
・『日本』(にっぽん)は、1889年(明治22年)2月11日〜
 1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞。
・「ウォール・ストリート・ジャーナル」が創刊された。
  アメリカの経済新聞であり、発行元はダウ・ジョーン
 ズ社。
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1889年、通信:
・東京電信局と熱海の間で、日本初の公衆用の市外通話が
 行われた:1月1日、
・電信架設:10月23日(旧9月19日)横浜裁判所構内に電信
 機役所が設置され、東京〜横浜間に電柱と電線を張る電
 信架設工事が着工された。  
  電話創業:1890年
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1889年、論・文学・本:
・ 「復古記」(全15巻)
  『復古記』(ふっこき)は、明治政府の編纂した、戊
 辰戦争を中心とした記録をまとめた編年体の史料集で、
 この年に完成した。
  『復古記』の原史料は、未整理のまま東京大学史料編
 纂所に保管されていたが、宮地正人(みやちまさと、歴
 史家、東京大学名誉教授)らによる整理が進められ、
 1991年(平成3年)4月に、一般公開された。
・ 「史學會雑誌」 創刊 、『史学雑誌』創刊(12月)
  史学会は、1889年に創設された、歴史学の学術団体で、
 1889年12月に機関誌『史学会雑誌』を創刊し、まもなく
 「史学雑誌」と改称した。
  1929年、財団法人となり、
  2012年4月からは、公益財団法人。
  本部は、東京大学文学部内に置かれている。
・ 「満洲地誌」 刊行
  陸軍歩兵中佐の守田利遠の編述による、出版社は丸善
  歴史・地理・民族の情報が記されている。
  朝鮮・満州を精力的に論じた朝鮮及満州社が手がけた
 朝鮮・満州・シベリアの地誌。
・「壬生浪士始末記」 西村兼文(にしむらかねふみ)
  西村兼文は、幕末の京都西本願寺の侍臣(仕える人)
 で、この著者で、「新選組始末記」とも言う。
 『新選組始末記』(しんせんぐみしまつき)は、子母澤
 寛の小説としても存在する。
・「日本紳士録」 交詢社(こうじゅんしゃ)出版局
  紳士録は、1849年のイギリス:A.& C.ブラック社から
 創刊されたものが最初であるが、
  社会的地位のある人々の氏名、住所、経歴、職業、趣
 味、家族関係などについて記載するのが普通で、
  日本では、本著の1889年の「日本紳士録」第1版(交詢
 社)が最も古い。
  福沢諭吉が設立した社交団体「交詢社」は、本著を80
 版を重ねて来た人名録であり、
  中央省庁の局長級以上、上場企業の役員、作家、弁護
 士、医師など10万人の経歴などが記されているが、
  この80版で休刊された。
  報道に於いて、その理由を、2005年の個人情報保護法
 施行以来、削除依頼が相次いだのが理由という・・、
  そして、1903年の「人事興信録」(人事興信所)がそれ
 に次いで古い。
・ 「文学評論しがらみ草紙」 創刊(1889年10月)
  1894年8月終刊、全59冊(月刊誌)
  森鴎外が、弟の三木竹二 (森篤次郎)、妹の小金井喜美
 子(きみこ)、井上通泰(みちやす)、落合直文(なおぶみ)
 らと、西洋文学に立脚する文学論確立のために始めた日
 本で初めての文学評論誌。
  文壇の流れに柵(しがらみ)をかけるという使命感(流
 れを整える)のもと、文学評論や翻訳に大きな役割を果
 たした。
  特に、鴎外が評論で活躍し、石橋忍月(にんげつ)との
 『舞姫』『うたかたの記』論争があり、また、坪内逍遙
 (しょうよう)との没理想論争がある。
  幸田露伴落合直文らが執筆し、浪漫主義の拠点とな
 り、文芸評論を文壇に確立した。
  没理想論争は、逍遥の没理想(理想や主観を、直接、
 表わさないで、帰納的批評を説いた)に対して、鴎外は
 理想なくして文学なしと応酬した論争。
  (参考)帰納:きのう、推理・思考の手続きの一つ。
      個々の具体的な事柄から、一般的な命題や法
      則を導き出すこと。
・ 「言海(げんかい)」(編:大槻文彦) :近代国家として認
 められたいために・・、
  国語学者大槻文彦が、明治期に編纂した国語辞典で、
 日本初の近代的国語辞典とされている。
  1875年(明治8年)に、当時、文部省報告課に勤務して
 いた大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編
 纂を命ぜられて、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、当時のイギリス、
 アメリカ、フランス、ドイツなどでは、国語辞典作りが
 盛んに行われていて、
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があり、そして、
 我が国にも国語辞典が必要だ」と考えた。
  1882年(明治15年)に、初稿を成立させたが、校閲
 4年をかけ、完成したのは1886年明治19年)であった。
  元々は文部省自体から刊行される予定であったが、予
 算が無いため出版が立ち消えそうになり、
  結局、1891年(明治24年)に自費出版することになっ
 た。
  最初は、四六倍判の四分冊として出版され、その後、
 一冊本や上下に分かれた二冊本、判型が異なった小型や
 中型のものが刊行されていった。
  大槻の没後に、大幅に改訂がなされた『大言海』も発
 刊された。
・ 「東洋之婦女」(植木枝盛)
  植木枝盛は『東洋之婦女』を書き、女性の参政権を認
 めて男女が政治的に平等になるべきだと主張。
・「風俗画報」(2月10日)
  日本初のグラフィック雑誌:写真や絵を用いて視覚に
 訴える雑誌。
  版元は、東京日本橋葦屋町の東陽堂で、特別号を含め
 全518冊。
  小林永濯・富岡永洗の子弟など、多くの日本画家を起
 用し、写真や絵などを多用し、江戸時代から大正時代に
 かけての世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など視覚
 的に、当時の社会風俗を解説した。
憲法注釈書が、多数、出版された。
  1888年6月18日〜7月13日に、「大日本帝国憲法」の草
 案が、枢密院の第一審会議で審議され、
  1889年1月16日には、再審会議がなされ、
  1889年1月29日〜1月31日には、第三審会議がなされ、
  この年・1889年2月11日に、大日本帝国憲法が公布され、
 た。
  そして、この年、「憲法義解」が出版され、英訳本も
 出された。
  「大日本帝国憲法」とその逐条注釈の本も出されたり
 した。
  大日本帝国憲法衍義、伊藤巳代治遺稿(信山社出版
  伊藤博文著『憲法義解』など・・、
・「陸軍歴史」勝海舟、編纂成る。30巻(陸軍省出版)
 (氷川清話)
  陸軍省の懇嘱(こんしょく)によって、1840年天保
 11年)高島四郎(長崎町年寄)による洋砲採用の建議に
 端を発し、
  1868年(慶応4年)に至る30年間の幕府陸軍及び国防に
 関する事項を編集したもので、上巻=陸軍改制・砲銃鋳
 造・砲台築造・沿海警備他がある。
夏目金之助が、子規の『七艸集(しちそうしゅう)』を
 評して、子規に送った文に、初めて「漱石」と署名した
 という、
  一説には、子規から譲られたともいう:5月、
漱石房総旅行:8月7日〜30日、夏目漱石が房総を旅行。
  この年、漱石が23歳の時、友人らと房総を旅し、漢文
 で旅行記「木屑録」を記した。
  鋸南町の保田で海水浴を楽しみ、鋸山に登った。
  そして、その後、東金、銚子を経て帰京した。
  この木屑録に刺激されて、子規は、1891年に市川、船
 橋、佐倉、成田、大多喜、小湊、鋸山を歩き、
  俳句でまとめた紀行文の「かくれみの」を書いた。
  正岡子規に見せるためにつくった木屑録(ぼくせつろ
 く)は、24日間の長旅から帰ると、10日程で、この紀行
 漢詩文集を書き上げ、9月9日に完成した。
  2人は、紀行作品に対する感想を手紙でやりとりして
 友情を深めていった。
  そして、この木屑録は、すべて漢文で、「おそらくは
 明治時代の漢文としてもっともすぐれたものの一つ」と
 言われている(中国文学者の吉川幸次郎
・『日本人』(にほんじん)は、1888年明治21年)4月〜
 1901年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治
 評論雑誌。
  1902年から、『日本及日本人』になった。
  政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判して、頻繁に発禁処
 分を受けた。
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  (今日の言葉)
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  題:愚かな第二次世界大戦戦勝国たち・・、
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1945年4月12日、アメリカ大統領のルーズベルトが死んだ。
  ルーズベルトが、突然の脳出血で死んで、この突然の
 死で、ソ連スターリンは、アメリカ大統領ルーズベル
 トとヤルタで結んだ密約が、新しいアメリカ大統領の下
 でも実施されるのか?・・を、心配した。
  スターリンの不安は、少しづつ現実のものになった。
  アメリカとソ連の間が、『完全一致』の状態から、離
 れた状態が生まれて行った。
  新しいアメリカ大統領のトルーマンが、ルーズベルト
 のヤルタ密約が、異常と捉(とら)えて、修正しようと
 したのか?
  または、アメリカ大統領の死によって、より自分に有
 利な形にしたいと考えたのか? 
  何しろ、米ソの食い違いが生まれた。
  合意の解釈を巡って・・米ソは対立した。
  そして、悲惨な事に、このルーズベルトが思い付いて
 スターリンを繰ったが如くに見えたヤルタ密約は・・、
  「悲惨な第二次世界大戦が戦われ、多くの血が流され
 たというのに、その大戦後にも・・禍根を残した」。
  浅はかなキリスト者ルーズベルトの行動の悲惨な結
 果が出て来た。
  1945年8月14日、日本が、降伏を連合国に伝え、日本は
 この日に降伏し、戦争は終結した。
  そして、翌日の8月15日には、日本は、前日に降伏した
 ので、
  この日に、日本国民へ、天皇陛下が、その事を発表さ
 れ、伝えられた。
  国民などへ、その意味を説かれ、忍び難きを偲ぼうと
 諭された。
  この様な時を経て後も、ルーズベルトの「そそのかし」
 は、その禍根を継続し、戦争が終結しているのに、ソ連
 軍が、日本の北方領土などへ侵攻し続けていた。
  また、中国の内戦は激化して行き・・
  また、ソ連金日成の軍が、朝鮮半島へ侵攻して来て、
 戦乱状態は続き、危機状態が続いた。
  浅はかなルーズベルトの思惑の禍根が続いた。
  ヨーロッパでは、ポーランドが親ソ派となることで、
 内戦の危機となっていた。
  ソ連が、日ソ中立条約を、ルーズベルトのそそのかし
 で破った様に、アメリカもソ連との約束を破り、
  ソ連アメリカとのヤルタ密約通りに行動しないとい
 う、裏をかいた者が、裏をかかれるという、「シッチャ
 カメッチャカ」の世界だった。
  『愚かな第二次世界大戦戦勝国たち』だった。
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  そして、・・
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1945年4月17日、ソ連スターリンが、アメリカに要求した
 武器提供は、「マイルポスト合意(1945年4月17日に署名)」
 として成立した(ルーズベルトの置土産的になった)・・、
  この「マイルポスト合意」によって、アメリカは、ソ
 連軍が、3ヶ月間、日本と戦える武器と弾薬の提供を了解
 し、合意し、提供した。
  これが、本当に、愚かな、馬鹿なことになる・・、
  アメリカは、1945年、日本をだますために、日ソ中立
 条約によって中立国となっていたソ連の船を使って、
  アメリカの武器・弾薬を、日本との中立国・ソ連とい
 う偽りの形をとって運んだ。
  日本海を抜けて、何ら支障なく、ソ連のウラジオスト
 クに、80万トン相当の武器や弾薬を運び込み、陸揚げし
 た。
  (日ソ中立条約を悪用して、この様な卑劣な事をした
 アメリカだった。
  この後、ソ連は、この悪用した日ソ中立条約を破棄し
 て日本へ侵攻して来る。
  まったく、卑劣としか言いようがない)。
  このアメリカが援助した武器・弾薬を使って、ソ連は、
 日本へ侵攻して来る。
  まったくの・・ソ連の日ソ中立条約違反の武器の輸送
 行為などである。
  アメリカは、その悪行為の卑劣な片棒担ぎをしている。
  アメリカは、ソ連をそそのかして、ソ連に武器弾薬を
 提供して、日ソ中立条約を破棄させて・・というハレン
 チ行為をしている。
  アメリカの正義も、何も、アリはしない。
  アメリカのルーズベルト大統領のやったことだった。
  本当に不正義な男だった。
  日本は、一旦条約を締結すると誠実に、その条約を守
 るが、ソ連の、そして、アメリカの正義なんてどこにあ
 るというのか?
  アメリカ大統領という地位にあるルーズベルトは言っ
 ている・・、
  「自分が有利になるなら、嘘だってつく」・・と。
  国の信用や信頼を背負っている男が言う言葉ではない、
 軽蔑すべきルーズベルトであり、アメリカだった。
  また、ルーズベルトの嘘をつく体質が現れているのが、
 中国に関する所だった。
  ルーズベルトは、秘密裏に中国に支援をする命令を出
 している、そして、アメリカの正規軍を中国で日本攻撃
 をさせている。
  日本の真珠湾攻撃以前に、日本を攻撃させている。
  秘密裏にである。
  これこそ、アメリカの日本への奇襲攻撃である。
  真珠湾攻撃の日本の攻撃を『奇襲』だなんていう根拠
 はない。
  また、アメリカは、金や武器を中国に支援するという
 事をしている。
  アメリカの大義名分は、日本が、侵略行為をしている」
 だった。
  アメリカだって侵略行為をしているのにである。
  中国の権益をしゃぶって甘い汁を吸っているのにであ
 る。
  日本が満州を得たのは「侵略ではない」。
  日露戦争で、ロシアから移譲(いじょう、権限や権利、
 財産などを譲り移すこと)されたのである。
  侵略なんかではない。
  また、アメリカ・イギリスは、日本に「シベリアに出
 兵してくれ」と依頼して来ている。
  都合のいい時は出兵してくれと、日本と一緒にアメリ
 カも、イギリスも出兵している。
  これを侵略と言うならアメリカも、イギリスも侵略し
 ている。
  この様に、アメリカは、中国のあちこちの権益を得て
 いながら、日本の事を侵略しているという罪を日本にだ
 けにかぶせる。
  そして、ソ連が、中国領を侵攻し、欲しがったら、許
 可している。
  中国に対しては秘密にしておこうと、ソ連へ言って、
 やっている。
  中国へのソ連の主権侵害に、許可を与えているアメリ
 カなのだ。
  中国の大連を「国際港」というごまかしの言い方で、
 実質は、ソ連の港になることを認めているのである。
  南満州鉄道も、同じ様に、「中国と共同管理で」なん
 て言って、実質はソ連のものとして認めている(ソ連
 侵略行為のアメリカの許可である)。
  アメリカは、悪知恵を働かせて、秘密裏に、ソ連に中
 国主権を侵害し、領土や鉄道などを渡している。
  実質は、アメリカはソ連のものと認めている。
  ルーズベルトは、「中国に知らせると情報が漏れる」
 からと、アメリカは強く秘密にする事をスターリンへ要
 求して卑劣な事をしている。
  この事について、アメリカの国務長官のステティニア
 スに対しても秘密にするという、大統領ルーズベルト
 卑劣さだった。
  そして、ルーズベルトは、この一連の会談について「
 欲しいものは、すべて手に入れた」と言ったが、
  すべて嘘と秘密で手に入れただけ・・で、
  自分さえよければ良いと、筋の通らないことをしてい
 た。
  こんな時代の流れの中で、何百万の方々が亡くなった。
  (参考)
  武器貸与法(レンドリース法):アメリカのルーズベ
 ルトは、この法律を作って、世界中に厖大な武器を渡し、
 ばら撒いた。
  法律は、1941年3月11日に成立し、開始された。
  この法律は、1941年4月に中国にも適用された。
  アメリカは武器庫の様になり、アメリカの工場はフル
 回転し、景気は回復した。
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  そして、何と??・・第二次世界大戦後になれば・・??
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1945年10月初旬、アメリカが、日本に助力を求めて来た。
  日本は、8月14日に、降伏を通達し、降伏した。
  その様な日本へ、その降伏の約2ヶ月後に、日本に助力
 を求めたとは・・?、嘘の様な話であるが、信用できな
 い様な話と思われるでしょうが、本当の話だった。
  まったく馬鹿々々しい、馬鹿な話である。
  その様な・・アメリカであった。
  日本を殲滅(せんめつ、皆殺しにすること)しようと
 したアメリカが、2ヶ月後に、日本に助力を求めたのであ
 る。
  アメリカは、日本を殲滅しようと、国際法違反の日本
 の一般市民をターゲットにした『原爆投下』や、
  日本の大都市など各地の一般市民を、国際法違反のじ
 ゅうたん爆撃で殲滅・殺戮して来たが、
  日本が、8月14日に降伏しての、その約2ヶ月後には、
 その日本に助力を求めて来たのだった。
  それで、アメリカ軍と日本軍は、共に、一緒になって、
 中国の天津で、中国・毛沢東軍に対峙し、戦った。
  このアメリカ軍は、元々は、日本が破れて終戦となっ
 て、日本軍の武装解除の為に、中国に来た軍だった。
  そのアメリカ軍が、日本に助力を求めて来たのであっ
 た。
  アメリカ大統領のルーズベルトの愚かな「ソ連へのそ
 そのかし」で、
  東アジア地域で、そのスターリンの領土欲に火が付い
 て、
  領土・奪い取りに火の付いたソ連は、手がつけられな
 かった。
  それと共に、悪いことを一杯して、裏切りもやってい
 た。
  その端緒となったアメリカの当事者のルーズベルト
 死んでいて、
  その後を継いで大統領となったトルーマンは、1945年
 8月11日には、見るに見かねて、『秘密指令』を出した。
  日本攻撃の太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカー
 サーと、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミ
 ッツに宛てた「秘密の指令電文」には、
  「中国の大連港と、朝鮮半島京城(現在のソウル)
 外港を占領せよ」・・とあった。
  ソ連スターリンの火の付いた領土欲に、慄(おのの)
 いたアメリカ大統領トルーマンは、秘密指令を出したの
 だった。
  ソ連が、「不凍港が手に入るではないかと、ルーズベ
 ルトがそそのかした大連港」を、ソ連が取りに来る前に、
 アメリカ軍が、先に、その大連港へ行って占領してしま
 えという秘密指令だった。
  しかし、勢いのついたソ連の方が、早く・・、
  大連港や満州全域をあっと言う間に、ソ連によって奪
 われてしまった。
  そして、尚かつ、1945年8月14日には、ソ連は、中国・
 蒋介石・国民政府と、条約を結んでいた(中ソ条約〉・・、
  ソ連へ、大連港と満州鉄道の権益(アメリカが欲しが
 って手に入れつつあった権益)を、蒋介石は認めていた。
  この条約の交換条件は、「ソ連が、中国・共産党政権
 (毛沢東)を支援しない」というものだった。
  そして、前記の1945年10月初旬には、天津(北京の南
 東150キロ)の港を毛沢東の軍によって包囲され、激しい
 銃撃にさらされていた。
  戦っていたのが、アメリカと日本の連合軍だった。
  アメリカの海兵隊(第三海兵師団)の5万3000人は、沖
 縄から出兵して来ていて、ここ中国に上陸し、占領して
 いた。
  そして、日本軍と一緒になって、毛沢東の共産軍と戦
 っていた。
  アメリカと日本の連合軍は、天津〜北京間の鉄道を守
 っていた。
  日本が敗戦となるとともに、毛沢東の共産軍の勢いが
 強まって来ていたのだった、ソ連も応援していたし・・、
  抜け目のないソ連スターリンは、中国・蒋介石との
 条約を破って、裏で、中国・毛沢東を支援していた。
  そして、アメリカは、この様な成り行きから、再び、
 中国・蒋介石国民党軍を重視し、支援する。
  ルーズベルトの思惑は、早くもチリジリに崩れ、戦い
 の火は燃え盛(さか)って行った。
  愚かなるルーズベルトの嘘の外交・偽(いつわ)りの
 外交が露と消えて行った。
  ルーズベルトの撒いた禍根は朝鮮戦争まで尾を引いて
 行く・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive