(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月〜1888年6月)

題:(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月〜1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年明治22年)5月21日、鐘淵紡績所の設立が許可さ
 れた。
  東京の繰綿(くりわた、綿繰り車にかけ、種の部分を
 取り去っただけの、まだ精製していない綿)問屋5店は、
  1886年、東京綿商社の設立を決議した。
  翌・1887年、認可され隅田川の鐘淵に紡績所(工場)
 を建設した、
  資本金100万円、錘(すい)数3万錘で出発。
  しかし経営不振で、
  1888年に、綿売買を廃止し、鐘淵紡績会社と改称した
 (渋沢栄一は顧問)。
  1892年の苦境期に、三井銀行が再建・支援に乗り出し、
  1894年、兵庫工場を建設し、続いて・・
  1899年に、上海紡績など7社を合併、
  1905年には、織布部門、
  1908年には、絹糸部門、
  1922年には、絹布、絹製品、
  1934年には、毛糸、化学繊維、麻製品に進出、多くの
   紡績会社を吸収し、
   さらに鉱業、化学、農牧畜を兼業し、
  1938年には、これ等を分離して鐘淵実業を設立、
   その後、鐘淵実業は、製鉄、航空機製造などに事業
   拡張、また、中国各地に直営事業を経営し、また、
   投資し、重化学工業へも進出した。
  1944年の第二次大戦中に、鐘淵紡績と、繊維以外の事
   業を行なっていた鐘淵実業が合併して鐘淵工業(株)
   が発足した。
  1946年の第二次大戦後は、繊維事業中心に転換し、鐘
   淵紡績(株)と社名復帰し、化粧品・食品等の事業に
   も次々進出、
   また、持ち株会社に指定され、
  1948年に、過度経済力集中排除法が適用され、
  1949年に、非繊維部門を鐘淵化学工業(現:カネカ)
   として分離した。
   朝鮮戦争による特需景気で繊維部門を再建した。
  1971年、鐘紡(株)となる。
  2004年に、債務超過などの理由から、産業再生機構
   支援を申請、支援が決定した。
  2004年の同年に、化粧品部門をカネボウ化粧品として
   分離。
  2005年の翌年6月に、有価証券報告書の虚偽記載を行っ
   ていたことにより『上場廃止』となった。
  2006年に、産業再生機構による支援が終了し、
   投資会社3社に主要事業を譲渡。
   カネボウは、その他事業の運営、清算業務等を行っ
   たのち、
  2007年に、解散、社名を海岸ベルマネジメントに変更
   し、清算業務だけを行った。
  2008年に、海岸ベルマネジメントは、投資会社3社出資
   の買収受取会社であるトリニティ・インベストメン
   トに吸収合併された。
   なお、カネボウが譲渡した主要事業会社は、2006年
   に、カネボウ・トリニティ・ホールディングス(現:
   クラシエホールディングス)を統括会社として再出
   発、2007年には、社名、商標名を「Kanebo」から「
   Kracie(クラシエ)」に変更した。
  アメリカとの「繊維摩擦」で、この会社も、苦労し、
 虐げられた。
  (鐘紡百年史、及び、その他史料などを参考にした)
1888年5月25日、憲法草案会が開かれた。
1888年5月29日、麒麟(キリン)ビール発売
  日本麦酒醸造会社が、麒麟ビールを発売した。
1888年5月、米津風月堂が、アイスクリームと、アイスキャ
 ンディーを発売した。
1888年5月、電気学会が創立された。
  一般社団法人・電気学会(いっぱんしゃだんほうじん
 でんきがっかい)は、電気学術の調査・研究と広報・普
 及を目的に創立された学会で、
  初代会長は榎本武揚(52歳)が就任し、会員数は約二
 万四千人、元文部科学省所管・・と説明がある。
1888年6月1日、東京天文台が、麻布に新設された。
  帝国大学付属として、東京天文台東京港区麻布飯倉
 に設立され、
  帝国大学理科大学天象台(学生用観象台)と、海軍省
 海軍水路部観象台と、内務省地理局が統合された。
  初めは、1878年に創設された東京大学付属の天文台で、
 創設当初は、観象台と称して文京区の東大構内にあった
 が、
  この年に、港区麻布に移って東京天文台と改称 し、
  1924年大正13年)に、都下三鷹市に移った。
   日本は、第二次世界大戦後、各種の観測を進めてい
   くために各地に観測所を設立してきた。
  1949年(昭和24年)に、乗鞍(のりくら)コロナ観測所
   (岐阜・長野県境乗鞍岳)、
  1960年(昭和35年)に、岡山天体物理観測所岡山県
   鴨方(かもがた)町)、
  1962年(昭和37年)に、埼玉県都幾川(ときがわ)村(
   現ときがわ町)に堂平(どうだいら)観測所(2000年
   3月、観測環境の悪化等により閉所)、
  1969年(昭和44年)に、野辺山(のべやま)太陽電波観
   測所(長野県南牧(みなみまき)村)、
  1974年(昭和49年)に、長野県三岳(みたけ)村(現:
   木曽町)に木曽(きそ)観測所、
  1978年(昭和53年)に、野辺山宇宙電波観測所が建設
   され、
  主な観測器械としては・・、
   188センチメートル反射望遠鏡(岡山)、
   105センチメートルシュミット・カメラ(木曽)、
   65センチメートル屈折望遠鏡三鷹)、
   25センチメートルコロナグラフ(乗鞍)、
   45メートル電波望遠鏡(野辺山)・・など世界の水
  準に匹敵する装置を保有し、
   位置天文学から天体物理学までの広い範囲の研究と
  ともに、
   宇宙科学研究所(現:宇宙航空研究開発機構)の研
  究にも参加し、
   また、時刻の測定・保持、暦の編纂(へんさん)など
  も行った。
  1988年(昭和63年)に、東京天文台は、東京大学から
   独立して、
   文部省水沢(みずさわ)緯度観測所(現:国立天文台
   水沢観測センター)、名古屋大学空電研究所の一部
   と統合し、
   文部省(現文部科学省)直轄の研究機関「国立天文
   台」になった。
1888年6月1日、後藤象二郎が、機関紙「政論」を創刊した。
  主宰・後藤象二郎が、大同団結運動の機関紙「政論」
 を発行した。
  後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、
  1838年天保9年)3月19日生まれの土佐高知藩士
   土佐藩政の最高責任者・参政を務め、そして、明治
   期の政治家。
   公武合体運動に活躍し、また、
  1867年(慶応3年)1月(29歳)、脱藩者の坂本龍馬と、
   長崎の清風亭で会談したことが、
   土佐藩が、大政奉還に向けて動き出す契機となった。
   坂本龍馬は、姉の乙女らへの手紙で、後藤について、
   「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外
   ニハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」・・と評し
   ている。
   公議政体論を唱え、前藩主・山内豊信大政奉還
   建白させ、
   江戸幕府末期の徳川慶喜大政奉還運動に活躍した。
   明治維新後は、新政府に参与、参議を歴任して仕え
   たが、
  1873年明治6年)(35歳)征韓論に敗れ、西郷隆盛
   板垣退助とともに下野した(明治六年の政変)
  1874年(明治7年)1月12日(36歳)に、板垣・江藤新
   平・副島種臣らと愛国公党を組織し、民撰議院設立
   建白書の提出に参画した。
  1874年(36歳)に、実業界へ転身して商社「蓬菜社」
   を設立。
   政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営するが、
   2年後に放漫経営のために破たんした。
   三菱の岩崎弥太郎へ売却している。
  1881年(43歳)に、自由党の結成に際し、板垣に次ぐ
   副党首格で参加した。
   自由民権運動末期の大同団結運動を提唱し、大きな
   役割を果したが、後に、政府への協力に転じる。
  1887年(49歳)、進歩党の結成に尽力し、黒田内閣や、
   第1次松方内閣で逓信大臣(1889年〜1892年)、
   第2次伊藤内閣では農商務大臣(1892年〜1894年)を
   歴任した。
  1894年5月(56歳)、商取引所の開設にまつわる収賄
   件の責任をとって大臣を辞任した。
  1896年夏頃(58歳)、心臓病となり、箱根で療養につ
   とめたが、
  1897年8月4日(59歳)没した。
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  (今日の言葉)
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  題:弱小の民族を助ける・・日本
   勿論、日本は、ユダヤの方々を助けていました。
   嘘つき新聞となった・・読売新聞・・
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1938年、日本は、世界の会議で、「民族の平等」を訴えて
 来ていた、
  そして、この年、日本は、ユダヤ人難民を救出するた
 め、当時、日本と関係のあった満州国の住民とする河豚
 計画(ふぐけいかく)が進められた。
  だから、勿論、日本は、ユダヤ人の方々の入国拒否は
 しておりません。
  逆に、日本は、ユダヤ人の方々を助けていました。
  河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に、日本で
 進められた、ユダヤ難民を助けるための移住計画のこと。
  日本には、立派に、ユダヤの方々を助ける運動を続け
 て来ていた。
  日本は、欧米列強(アメリやかヨーロッパの武力にも
 のを言わす「しいたげ行」為)のアジアの方々を苦しめ、
 そして、虐(しいた)げる状況を、江戸時代から、「常
 に、苦々(にがにが)しく」思って来ました。
  明治という時代になって、早く、「豊かになろう」、
 そして「強くなろう」と努めたのは、その表(あら)れ
 でした。
  だから、ユダヤの方々を、日本が差別するようなこと
 が、絶対に、あるわけがありません。
  なのに??
  読売新聞に・・何のかかわりがあるのか?
  読売新聞が、杉原千畝の『嘘のデッチアゲ話し』の片
 棒を担(かつ)いでいる。
  本当に、新聞という『真実を伝えない媒体』として、
 信用を落す行為をしている。
  バカじゃないか?・・と言いたい。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲの映画の後援をしている。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲ話の宣伝をしている。
  読売新聞の社歴を『汚す行為』をしている。
  読売新聞の歴史に『汚点を残そうと』している。
  立派な読売新聞の社歴が『台無しになる』。
  日本は、ユダヤ人の方々を差別していなかった。
  ドイツのナチスから言われても、頭を縦に振らずに、
 ドイツのナチスに、その点は「同調できない」ときっぱ
 り断っていた。
  日本人は、ユダヤ人の方々を決して差別してはいない。
  ユダヤの方々の入国を、「ずーっと」認めていた。
  こんなはっきりした事を、読売新聞は「日本がユダヤ
 人の入国を拒否していたという嘘の記述をした」。
  杉原千畝の嘘話の筋書きに乗っかってしまっていた。
  そして、その筋書きの映画の後援までし始め、
  そして、その嘘話の記事を読売新聞に掲載することま
 で始めた。
  ユダヤの方々が、満州に逃げて来た時、満州にいた軍
 のトップだった東条英機は、当然、日本の方針通り、「
  ユダヤ人の方々の満州国への入国を認めて、満州国
 ユダヤ人の方々は入国できている」。
  勿論、船で、日本に逃れて来たユダヤ人の方々も、日
 本に入国できている。
  こんな、杉原千畝の嘘のデッチアゲを、読売新聞は、
 何故(なぜ)に?乗る様な事をするのか?
  この杉原千畝の嘘話は、キリスト教がデッチアゲタ。
  杉原千畝キリスト教だという事で、キリスト教がデ
 ッチアゲタ。
  逃げて来たユダヤ人の方々へ、日本の方針を無視して
 ビザを出したと・・美しく仕立てた嘘の話をデッチアゲ
 タ。
  この当時、外国の日本国大使をされていた馬淵睦夫氏
 らも、呆(あき)れられている。
  馬淵大使らは、「日本は、ユダヤの方々の入国を認め
 ていたから、どこの大使館でも、ユダヤの方々へビザを
 発給していました」とはっきりと言われている。
  そして、杉原千畝の話は呆れた話で嘘の話だと言われ
 ている。
  何故?こんなはっきりした話に・・日本を貶めるキリ
 スト教の活動方針の話に、読売新聞は乗っかっているの
 か?
  因みに、杉原千畝だけを、キリスト教徒だという事で、
 キリスト教が大きくでっち上げるが、
  杉原千畝以前に、日本は、『日本という国として、ユ
 ダヤの方々を助ける計画を進めていた』、
  そして、また・・、
  1939年6月には、駐ベルリン満州国公使館書記官・王替
 夫氏が、難民にビザ発給し、杉原千畝の倍以上のユダヤ
 人の方々へビザの発給をしてもいた。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝だけを、キリスト教が行なう美化行為は、で
 っち上げのプロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  (参考)史料:
  関東軍のハルピン特務機関長であった樋口季一郎少将
 は、部下とともに、ナチスドイツの激しい反発を受けな
 がらも、東条英機関東軍参謀(後の首相)の許可の下に、
 なんと1万人ものユダヤの方々を、この年(1938年)に救
 っていたという事実がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive