(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月〜1883年2月)

題:(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月〜1883年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1883年、流行:
・書生・士族の子弟らの間に麦わら帽子流行し始める。
・金沢で茶の湯が流行し、また、道具市がたびたび立ち、
 流行し、骨董品が高騰した。
・歌 「ダイナマイト節」
 https://www.youtube.com/watch?v=AmegfQjtB8k
  自由民権運動は、藩閥政府の弾圧が厳しく、言論集会
 も新聞活動も思うようにできなかった。
  そこで窮余の策として、歌の形式をとって街頭に出て
 民衆に直の呼びかけをはじめた。
  そして、ザラ紙刷りの歌本を一銭で売った。
  それを運動の資金にあて、全くスポンサーなしの自発
 的な活動だった。
  「ダイナマイト節」のパンチをきかせたやりかたは、
 後の演歌に引き継がれていった。
  歌の「コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキュ
 ウヨウセ」は、
  「国利民福増進して 民力休養せ」の意味。
・女史風俗で、ハイカラスタイルが流行り始めた。
  ハイカラ:西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、
 事物などを表す日本語の単語。
  1898年(明治31年)頃から、当時、東京毎日新聞の主
 筆であった石川半山(石川安次郎)が、紙上で使い始め、
 後に流行語となって定着した。
・馬車鉄道が開通したため、人力車が減少し始めた。
1883年、その他:
中西輝政京都大学大学院教授は言う・・、
  「歴史を振り返った時・・、
  日本では『国家の危機』と『文明の危機」が、常に、
 並行して起っていることが分かる。
  そして、『日本文明』が最も活力を発揮できたのは、
 『国家の危機』と『文明の危機』、その二つながらを
『一つのもの』と捉え、乗り越えようと闘った、明治の
 『和魂洋才』の時代だったことを、今日われわれは切実
 に思い起こすべきである」・・と。
・市内巡査交番所に、天気予報を掲げることとなる
・地球磁気観測が始められた。
  中央気象台に、常設の地球磁気観測が始められた。
  日本における地磁気定常観測は、第1回国際極年観測
 (1882年〜1883年)を契機に、1883年(明治16年)、東京
 市赤坂で始められた。
・英国人動物学者のブラキストンが、動物棲息の範囲を定
 める『津軽海峡ブラキストン線』を発表した。
太政官日誌を廃し、官報となる。
・帝国教育会(ていこくきょういくかい)が設立された。
  日本の教育者、および、教育関係者を構成員とする教
 育団体の全国機関。
  教育史で大きな役割を果たした帝国教育会は・・、
 東京府教育会と東京教育協会の合併により1883年発足し、
 名称を大日本教育会とし・・、
   1896年に、既存の大日本教育会と国家教育社を統合し
 た。
  「我国教育社会ノ中央機関トナリ教育ノ改良及ヒ上進
 ヲ図ルコト」を目的とし、各種の調査部会をおいて調査
 活動を行う。
  後、日本教育会と改称し、1948年(昭和23年)まで存
 続した。
  (日本教職員組合(日教組)の成立後に解散した)。
丸ノ内馬場先門外に補修道路(タタキ路)ができる。
浅野セメント・大日本製薬・東京製氷等が設立された。
  ☆浅野セメント太平洋セメント株式会社は、1998年
 に、秩父小野田日本セメント(1947年に、浅野セメン
 トから改称)が合併して設立されたセメント業界最大手
 の企業。
  ☆大日本製薬:大阪の道修町は、西日本の薬種取引の
 中心市場として栄えてきた。
  明治維新後、洋薬の輸入に取り組み、純良薬品を供給
 することを目的に、道修町の薬業家21人が発起人となり、
 1897年(明30)大阪製薬が設立された。
  翌年・1898年には、日本初の製薬会社として1883年(明
 治16年)東京に創立された大日本製薬を吸収合併し、社名
 を由緒ある大日本製薬(株)と改めた。
  ☆東京製氷:日本最初の製氷会社。
  余談だが・・1870年(明治3年)の梅雨時、福沢諭吉
 熱病にかかり、氷が必要となる。
  しかし、当時は氷を簡単に手に入れることは不可能だ
 った。
  塾生たちは困る・・、だが、たまたま福井藩主だった
 松平春嶽が、外国から製氷機を購入していた。
  春嶽は、氷製造器の使い方がわからなかったが、塾生
 たちは借り出し、大学東校の宇都宮三郎教授の元に持ち
 込んだ。
  機械自体は単純な構造だったので、すぐに氷を作るこ
 とができた。
  福沢の熱病に役立ったという・・これが日本で初めて
 の人工的に氷を作った話。
  また、因みに、仁徳天皇陛下は、氷室で蓄えられた氷
 を夏に食べられた天皇陛下で・・
  延喜式(えんぎしき)に、氷室が、山城・大和・河内・
 近江・丹波に21室あったと記されている。
佐世保村は、この頃、わずか戸数800、人口3700ほどの農
 漁村だった。
・横浜の貸自転車業屋が、大火により自転車を全て焼失、
 廃業となった。
・ガソリン自動車が発明された。
  19世紀のはじめに、トレビシックが発明した蒸気機関
 車は、スティーブンソンによって改良され、
  ヨーロッパやアメリカでは、人員や貨物を輸送する実
 用的な手段となっていた。
  一方、1769年に、キュニョーが先鞭(せんべん)をつ
 けた蒸気自動車も、少しずつ技術開発が進んでいた。
  さらには、電気自動車の可能性を探る動きもあった。
  しかし、そのどれにも一長一短があった。
  1860年、フランスのエティエンヌ・ルノワールが、「
 ガスエンジン」の特許を取った。
  実用的な内燃機関の考え方だった。
  軽量でコンパクトなシステムだった。
  4ストロークエンジンなどの工夫で問題点を乗り越え、
 内燃機関の改善がなされた。
  そして、ダイムラーとウィルヘルム・マイバッハが、
 カンシュタットで研究を重ね、1883年に、熱管点火方式
 の改良型エンジンを完成させた。
・悪く書かれた者の代理だと称し、新聞社を「告訴する、
 金で解決か」と、ゆする者がふえ、連絡所も出来た・・
 と(郵便報知)新聞が報じた。
1883年1月1日、共同運輸株式会社が開業した。
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗して、1882年
 に、三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海
 運会社。
1883年1月1日、『栃木新聞』が、不敬罪で発禁処分となっ
 た。
  不敬罪天皇陛下、および、皇族・神宮・皇陵に対し
 て不敬(ふけい、尊敬の念を持たず、礼儀に外れること)
 の行為をする罪。
1883年1月4日、叙勲の条例が制定された。
1883年1月11日、京橋の明治会堂で、西洋風舞踏会が開催さ
 れた。
  明治会堂(めいじかいどう)は、福澤諭吉慶應義塾
 (現:慶應義塾大学)の政治結社グループにより建築さ
 れた政談演説公会堂。
  1880年6月に「明治会堂建築相談会」が発足し、
  1880年9月に着工し、1881年1月に完成した。
  所在地:東京府築地木挽町(銀座)
  1階1000席、2階300席(食堂)。
1883年1月22日、『絵入朝野新聞』が創刊した。
  編集の中心は山田孝之介であったが、経営不振のため
 同年・1883年4月3日より「朝野新聞」の経営に移った。
1883年1月23日、府県に兵事課が設置された。
1883年1月23日、工部美術学校が廃止された。
  日本最初の美術教育機関で、工部省の管轄。
  「工部大学校」の付属機関として設置され、1883年に
 廃校となった。
  設置されていた学科は「画学科」「彫刻科」の二科。
  アーネスト・フェノロサの提言などもあって、日本美
 術の再評価が行われ、国粋主義が台頭してきた。
  こうした背景の中、1882年(明治15年)6月に、彫刻科
 が廃止され、翌1883年1月には、画学科も廃止されて、工
 部美術学校は廃校に到った。
  6年後の1889年、国立の美術教育機関である東京美術
 校が設立された。
1883年2月7日、東京で40年来の大雪
  東京で大雪、日本橋白木屋に来客皆無。
1883年2月12日、福島事件審問を開始
  東京法院を開き、国事犯最初の審問を開始した。
1883年2月15日、電力会社の設立許可
  矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利
 助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が、国
 から会社の設立許可を受けた。
  富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資
 本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められ
 た。
1883年2月16日、天気図初めて発行される(七色刷りの天気
 図で一日一回発行)
  日本で初めて天気図が作られる。
  御雇外国人のドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッ
 ピングの指導のもとに、7色刷りの天気図となった。
  全国11か所の観測所から、電報データを集めクニッピ
 ングが英文でかき馬場信倫が訳して天気図にした。
  1883年3月1日に、毎日発行されるようになり、
  1883年8月23日に、新橋と横浜の停車場に掲示された。
1883年2月16日、赤羽工作分局(あかばねこうさくぶんきょ
 く)を廃止し、その設備は、海軍省兵器局に移管された。
  赤羽工作分局は、明治初期の官営の機械製作工場で、
 1870年(明治3)閏(うるう)10月に、新設された工部省の
 もとで、
  翌年・1871年10月に、東京・芝赤羽の旧久留米(くるめ)
 藩邸跡に開設された製鉄寮がその前身。
  1873年に、赤羽製作所となった。
  旧佐賀藩所有の工作機械や、材料を引き継ぎ、
  外国人技師を雇って、農具、機械、鉱山・鉄道用品の
 ほか、蒸気機関や紡績機などを試作した。
  1877年に、赤羽工作分局と改称し、
  品川、深川工作分局とともに、工部省所管のもとで、
 多額の出資がなされ、当時の機械工業部門の中枢にあっ
 た。
  1883年廃止され、その設備は、海軍省へ移管された。
..
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