(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月〜1884年11月)

題:(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月〜1884年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年10月10日、東京湾要塞・相州観音崎の砲台が成った。
  今、史跡として観音崎砲台跡・北門第二砲台跡
  (第二砲台・通称:だんだん砲台)・・がある。
  1980年(明治13年)起工し、
  1884年明治17年)竣工し、
  1925年(大正14年)除籍された。
  「北門第二砲台は、6門の砲座からなり、
  24センチ口径のカノン砲が、6門設置され、
  左3砲座は、第三海堡との間の海面を射撃して、敵艦の
 交通を途絶、
  右3砲座は、第1砲台と同じく、海門の通過を企てる敵
 艦に対して、予め、なし得る妨害を与えることを任務と
 していた」
  ・・と、説明されている。
  東京湾要塞は、東京湾周辺の防衛を目的に設置された
 要塞で、
  東京湾の砲台、及び、海堡等の建築物を、東京湾要塞
 司令部が管理していた。
  大東亜戦争第二次世界大戦)時は、第12方面軍の東
 京湾兵団に属した。
  明治時代の建設に始まり、逐次、設備を増やしつつ、
 大東亜戦争の終了時まで運用された。
  最初は、清国北洋水師に対しての・・、
  次に、ロシア太平洋艦隊の来攻を想定しての施設だっ
 た。
  1894年に、臨時東京湾守備隊司令部が置かれ、
  翌年・1895年に、東京湾要塞司令部が横須賀市上町に
 置かれた。
1884年10月13日、グリニッジ世界標準時GMT)が定ま
 った。
  ワシントンD.C.で開催された国際子午線会議で、
  グリニッジ子午線が、本初子午線として採択された。
  そして、陸域でも、ほとんどの国の時刻帯は、
  このGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(また
 は遅れた)時刻を標準時として採用した。
1884年10月17日、学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催
 される(最初のボートレース)(1883年説あり)
  東京大学走舸組が、隅田川で競漕会を開催した。
  しかし、以下の記述もある・・、
  日本で、ボート競技が、はじめて行われたのは、
  1869年に、横浜寄港中のイギリス軍艦乗組員と 在留外
 国人によって開催され、
  その後、1883年に、現在の東京大学と、筑波大学によ
 る対抗レースが 日本人によるボートレースの始まりと言
 われている。
 このレースをきっかけに、関東の大学を中心にボート競
 技は普及した・・と。
  日本ボートの略史
  1869年、横浜でボートレース開催(イギリス軍艦乗組員)
  1883年、東京大学筑波大学対抗レース開催
  1887年、東京大学一橋大学対抗レース開催
  1901年、第1回全国中等学校端艇競漕大会開催(滋賀県
     琵琶湖)
  1905年、第1回早慶レガッタ開催
1884年10月22日、東京薬舗学校を東京薬学校と改称する(
 1883年説あり)
  1869年(明治2年)、明治政府は、近代化のため、学問
 をおこし、教育制度を整えることを重要な政策課題とし、
  この年に、プロイセン医学の採用を決定した。
  翌年・1870年に、プロイセンと医学教師派遣の契約を
 交換した。
  1871年明治4年)に、陸軍軍医レオポルド・ミュルレ
 ルと、海軍軍医テオドール・ホフマンが来日した。
  日本の医学は、ドイツが主流となり、薬学もこの影響
 を受けた。
  日本の衛生行政の祖と言われている長与専斎が、欧州
 の医学・衛生制度の視察を終えて、帰国した。
  医制で、西洋医の重要性を示した。
  西洋医にとって大きな問題は、洋薬をいかに入手する
 かであり、
  商人の中には、西洋薬の流行と、その取扱い(規則)
 が無い事に目を付け、安い薬品を注文する。
  外商は、贋造粗製の廉物を、輸入し納入した。
  とくに、需要が多く、価格の高いキニーネ、ヨーカリ
 などは、品質の悪いものが出回った。
  この真贋良否を鑑定できる人はいなかった。
  1873年明治6年)、文部省は、ホフマンらの答申を受
 け、28項目よりなる「薬剤取調之方法」の施行を具申し
 た。
  1873年7月25日、文部省令104号「製薬学科設置の件」
 を告示した。
  1875年(明治8年)薬舗主を速成する目的で、製薬学科
 に通学生教場の設置を決定し、
  翌年・1876年より、邦人教師による、2年制の通学生制
 度が付設された。
  1877年(明治10年)第一回生が入学した。
  1879年(明治12年)23人が卒業した。
  1881年明治14年)より、1887年(明治20年)に廃止
 されるまでに、208人の卒業生を世に送り出した。
  1882年(明治15年)「薬学校通則」を公布し、薬学教
 育・薬剤師養成の普及を目指した。
  修業年限は、甲種3年、乙種2年。
  1883年(明治16年)7月、東京薬舗学校の新校舎が落成・
 移転を期に、東京薬学校と改称した。
  1883年7月23日に、東京薬舗学校の最後の卒業生を送り
 出す卒業式を行い、
  同時に、東京薬学校の開校式を実施した。
  これが、のちの東京薬科大学
1884年10月26日、秩父困民党が、埼玉県下吉田村粟野山会
 議で、11月1日の蜂起を決定した。
  ある意味、活動の形が変質して来た自由民権派系の人
 たちに、
  生活苦をタネに、騒動を煽られていたところがあった。
1884年10月28日、会計年度を改正し、1886年以降は4月1日
 を決算日と決定した。
  松方正義により、紙幣整理が推し進められた(松方デ
 フレ)。
  政府も「緊縮財政」を実施するが、松方デフレの影響
 で税収は減少した。
  政府は、対策として、煙草税や酒造税や醤油税などの
 増税をし、
  また、官営模範工場の払い下げも行った。
  また、その一方で、1882年(明治15年)に壬午事変
 あり、
  翌年・1883年から、大日本帝国海軍の拡充計画を進め
 た。
  そのため、財政赤字の穴埋めの必要があり、明治18年
 度(1885年度)の酒造税を、明治17年度(1884年度)に
 繰り入れしてしまった。
  翌年度の税収を繰り入れてしまったこの状況を改善す
 るには、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期(第
 1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないこ
 ととなった。
  そして、明治17年1884年)10月に、「4月〜3月制」
 の導入が決定され、
  明治19年1886年)4月から実施された。
  「4月〜3月制」は、明治22年(1889年)の会計法制定
 により法制化され、市制および町村制の施行に合わせて
 同年4月より市町村でも実施され、翌年5月より道府県
 後に都も)も実施した。
1884年10月29日、自由党が解党
  自由党が、大阪大会で解党を決定した。
1884年10月31日、秩父事件が起こる 。
  国民党が一斉に蜂起、(10月30日説、11月1日説あり)
  埼玉県秩父郡の農民が、政府に対して武装蜂起を起こ
 す。
  蜂起の目的は、暴力行為を行なわず、高利貸や役所の
 帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること、、
  下吉田(旧吉田町)の集結地・椋神社において、決起
 集会が行なわれ、蜂起が開始された。
  11月1日に至り、秩父郡内を制圧して、小鹿野村の警察
 分署、高利貸を襲撃し、役所等の書類を破棄した。
  一部には、指導に従わず暴力行為や焼き討ち等を行な
 った者もいた。
  電信で、いち早く蜂起を知った政府は、汽車も利用し、
 警察隊・憲兵隊等を送り込んだ。
  抵抗が激しかったが、最終的に、東京鎮台の鎮台兵を
 送り、取り締まった。
  11月4日になり、秩父困民党指導部は、事実上、崩壊し、
 鎮圧された。
  急進派の一部が、長野県北相木村出身の菊池貫平を筆
 頭に、農民を駆り出して、十石峠経由で信州方面へ進出
 した。
  11月9日に、一隊は、佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受
 け、長野県の野辺山高原で壊滅した。
  この後、主だった指導者と参加者は、各地で、次々と
 捕縛された。
  事件後、約1万4千人が処罰された。
  最大規模の事件だった。
1884年10月、名古屋事件
  名古屋の自由党員が蜂起し、資金調達のための強盗殺
 人容疑で逮捕される。
1884年11月1日、第1回秋期競馬会の開催
  明治天皇陛下が、不忍池畔の競馬場へ臨幸された。
1884年11月3日、鹿鳴館で大規模舞踏會が開催された。
  天長節(11月3日、明治天皇陛下の誕生日)の祝賀会
 行事だった。
1884年11月6日、内村鑑三が離婚をし、アメリカへ向かった。
1884年11月9日、朝鮮政府と済物浦条約による壬午(じんご)
 事変の賠償金一部返還に関する日・朝往復文書が成立し
 た。
  済物浦条約(さいもっぽじょうやく)は、1882年8月30
 日に、日本と李氏朝鮮の間で締結された条約で、
  済物浦は、朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。
  壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の
 事後処理の為に結ばれた。
  主な内容は、日本公使館が襲撃された事件の犯人の逮
 捕と処罰、日本の被害者遺族・負傷者への見舞金5万円、
 損害賠償50万円、公使館を護衛するための漢城での軍隊
 駐留、兵営設置費と修理費の負担、謝罪使の派遣などで
 あった。
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)を結ぶ、
  新たな居留地と市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 を自由にできるようにだった。
  当初は、巨済島(きょさいとう)または鬱陵島(うつ
 りょうとう)の割譲を要求していたが、
  軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着す
 る6日前に、既に、清国の介入があり、反乱が鎮圧され、
  清国が、主導権を握っていた。
  そして、アメリカも介入して、軍艦を派遣してきた。
  アメリカも威圧をかけてきた。
  その事から、交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は、方
 針を変更した。
  馬建忠(朝鮮駐在の清国軍の隊長・李鴻章の外交秘書)
 の仲介を得て、上記の内容となった。
  宗主権を主張する清国をけん制する意味と、暴動の再
 発防止のため、軍隊の駐留は必要だった。
  これは、1885年(明治18年)7月18日に、高平臨時代理
 公使の知照(口頭で知らせ、通知すること)によって、
 以降も条約の有効性は確認済。
  賠償金は50万であったが、そのうち40万円は、朝鮮内
 政への配慮から(内政使用を目的)に、返却した。
  その上、日本は、汽艇1漕と山砲2門を朝鮮へ送った。
  以上の様に、日本には、朝鮮侵略の意図はまったく無
 かった。
  条約の名の通りの修好(しゅうこう、親しく交わるこ
 と)で、特に、国家と国家のレベルで親しく交流する事
 であった。
  賠償金を返還したり、無償で武器を提供する日本であ
 った。
1884年11月16日、人類学会の設立
  坪井正五郎白井光太郎らが、人類学会を設立した。
  日本人類学会が、明治17年(1884年)に、当時、東京大
 学理学部学生であった坪井正五郎ら10名により結成され
 た。
  「じんるいがくのとも」という団体に端を発した。
  明治19年に、機関誌の第1号を出版し、同時に、会の
 名称を「東京人類学会」とした。
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  (今日の言葉)
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  題:欺瞞の東京裁判・・復讐劇の東京裁判
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1946年5月3日、東京裁判が始まった(開廷)(〜1948年11
 月12日)
  尚、極東国際軍事裁判という。
  下記の様に、イギリス人記者は「復讐劇だ」と言う。
  そして、キリスト教の二元論において「正義か?不正
 義か?」の思考の下では・・「日本は、正義ではない」
 としないと、「自分たち・連合国側が不正義となる」と
 いう思考の下に支配されていた・・と言う。
  だから、日本が悪くされた・・という・・、
  イギリス人記者のヘンリー・S・ストークスは、自著
 に書く・・、
  (日本はアジアに植民地など持ってなんかいないし、
 また、日本は、アジアを開放したのだが)、
  (たとえ)日本が、アジア植民地を侵略した(したと
 したって)のは、悪いことだったろうか?
  (この日本の)侵略が悪い事なら、世界史で、アジア、
 アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略して来た
 のは、西洋(ヨーロッパ、アメリカもやっているが)諸
 国だ。
  しかし、今日まで、西洋諸国が、(アメリカが)そう
 した侵略を謝罪したことはない。
  どうして、日本だけが、欧米(アメリカやヨーロッパ
 諸国)の植民地を侵略したことを、謝罪しなければなら
 ないのか?
  東京裁判では、「世界で侵略戦争をしたのは、どちら
 だったか」という事に目をつむって、日本を裁いた。
  それは、侵略戦争が悪いからではなく、『有色人種(
 日本)が、白人様(アメリカ、イギリスなど)の領地を
 侵略した』からだった。
  白人が、有色人種を侵略するのは『文明化(シビライ
 ゼーション)』で、
  劣っている有色人種が、白人を侵略するのは『犯罪(
 クライム)』であり、神の意向(ゴッズ・ウイル)に逆
 らう『罪(シン)』であると、正当化(ジャスティファ
 イ)した。
  日本には『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』と
 いう便利な考え方もあって柔軟だが、
  欧米人は、ディベート(良いか悪いかだけの論理)思
 考で、白か黒か判定を付ける。
  もし日本が正しいなら、間違っているのは欧米側(ア
 メリカとヨーロッパ)となる。
  だから、あらゆる手を使って、正義は自分の側にある
 と、正当化(ジャスティファイ)しようとした。
  東京裁判は復讐劇であり、日本の正当化を認めること
 など、最初からあり得ない事だった。
  認めれば、自分たちの誤りを認める事になってしまう。
  広島、長崎に原爆を投下をし、東京大空襲をはじめ(
 日本中の)全国の主要都市を(アメリカは)空爆して、
 民間人を大量虐殺した「罪」だけでなく、
  もっと言えば、世界で侵略を繰り返してきたその正義
 の「誤謬(ごびゅう、まちがえること)」が、明らかに
 されることがあっては、決して、ならなかった。
  それが、連合国(アメリカ、イギリスなど)の立場だ
 った」・・。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive