(増補版)388E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年10月〜1883年12月)

題:(増補版)388E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年10月〜1883年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1883年10月16日、東京商工会が設立された。
1883年10月22日、独逸学協会学校が設立された。
  獨逸学協会学校(どいつがくきょうかいがっこう)は、
 獨逸学協会によって設置された。
  戦後、設立された獨協大学の源流と位置づけられてい
 る。
  この時、設立された独逸学協会学校は、私立の旧制学
 校で、中等教育機関であったが、
  一時期、高等教育課程である「専修科」も併設した。
  また、獨逸学協会は、1881年に、「ドイツ文化の移植」
 を目的に設立された団体。
  学校設立に際し、初代学長の西周加藤弘之ら、当時
 の啓蒙学者が関与した。
  そして、ドイツ啓蒙主義を基礎とした。
  啓蒙思想は、中世以来のキリスト教会によって代表さ
 れる古い伝統的権威や、旧来の思想を、徹底的に批判し、
  理性の啓発によって、人間生活の進歩・改善を図ろう
 という思想。
  イギリスではロック・ヒューム、
  フランスではモンテスキューボルテールディドロ
  ドイツではレッシングなどに代表される。
1883年10月24日、陸軍監獄則を制定した。
  軍事監獄(ぐんじかんごく)とは、戦争犯罪などを起
 こした軍人を専門に収容する刑務所。
  戦争犯罪とは、国際条約の定める戦闘法規に違反する
 行為で、戦争における非戦闘員の殺戮などがある。
  アメリカの原爆投下は、完全な無差別な、非戦闘員の
 殺戮で、国際条約違反である。
  しかし、東京裁判では裁かれなかった。
  東京裁判当時、国際法で定められていない法規を、ア
 メリカなどの連合国は、新規の法律をわざわざ作って、
 日本だけを裁いた。
  例えば、貴方が、今夜、飲んだ酒が、後の時に禁酒法
 が作られて、日にちを遡(さかのぼ)って、その法規を
 適用されて、貴方が有罪にされるようなもの。
  東京裁判では、その様な不正な裁きを、アメリカなど
 の連合国は、日本にした。
1883年11月12日、観菊御宴が開かれた。
  天皇陛下の主催の菊花観賞会で、1880年11月に、赤坂
 離宮で催されたのを初めとして、以後、年中行事となっ
 た。
  皇室外交による条約改正促進の意図ももっていた。
  モースの『日本その日その日』や、ピエール・ロチの
 『秋の日本』に、その記述がある。
1883年11月16日、自由党が臨時大会を開催した。
  この大会は、関西勢はほとんど出席してなく、下り坂
 の党勢だった。
  ただ、星亨(ほしとおる)だけが頑張って、党維持の方
 針が決定された。
  しかし、党の総力あげて、政府と正面から戦おうとい
 う姿勢は失われていた。
  関東勢が党指導部に多く入り、また、板垣総理の権限
 も強化された。
  この頃、地方間の「いさかい」があり、党員同志の攻
 撃がある状態だった。
1883年11月20日天璋院篤姫が逝去した。
  千駄ヶ谷・徳川邸
  1836年〜1883年、享年48歳、
  江戸幕府第13代将軍・徳川家定正室
  幼名は於一(おかつ)。
  通称は篤姫
  薩摩藩島津家一門に生まれ(島津斉宣の孫。島津忠剛
 の娘)、
  島津斉彬の養女・篤子(あつこと改名)となり、
  近衛家の養女・敬子(すみこ)と改名を経て、
  安政3年、御台盤所(みだいばんどころ)となった。
  婚姻から2年足らずの、1858年7月の22歳の時に、家定
 が没し、
  家定の死後、落飾して天璋院の号を得て、従三位に叙
 せられた。
  幕府崩壊に際しては、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略
 の回避に、静寛院宮(和宮)らとともに力を尽くし、協
 力して徳川家救済に尽力した。
  しかし、1868年7月、官軍に反発、奥羽越列藩同盟に官
 軍討伐を願った。
  その後、一橋邸、紀伊藩邸、尾張藩邸、相良(さがら)
 藩邸と移り、徳川16代当主家達(いえさと)のいた徳川千
 駄ヶ谷邸で過ごし、
  徳川本家の家格・家名の維持を目ざし、徳川宗家を継
 いだ家達の養育に専心した。
  徳川家処分の際には、位記を剥奪(はくだつ)されてい
 た時もあったが、従三位に復し、上野の家定の墓域に埋
 葬された。[
  家定との婚姻は、政略的なものであったと言われるの
 は仕方のないものではあるが、生涯、徳川家の人として
 生きた誠実な方であった。
1883年11月28日、鹿鳴館、開館式が挙行された。
  東京麹町山下町に、西洋社交クラブ「鹿鳴館」が開館
 した。
  煉瓦造り2階建て。1350万平方メートル。
  建設費は18万円。
  設計はコンドル。
  2階には、大広間とバルコニーがあり、舞踏会などが開
 かれた。
  鹿鳴館は、外国からの賓客や外交官を接待するために
 明治政府によって建てられた社交場。
  「鹿鳴」は、詩経の「鹿鳴の詩」に由来、来客をもて
 なすことを表わす語。
  開館の当日は、井上馨の誕生日だった。
  落成の祝宴が、名士1200人を招待して行なわれた(1300
 人?、600人?)
  パーティは深夜にまでおよび、午前1時に、新橋発横浜
 行の臨時列車が運行された。
  その後・・、
  1887年4月9日に、井上馨外務大臣を辞任し・・、
  鹿鳴館時代は、井上とともにその歴史に幕をおろした。
  1890年には、鹿鳴館の建物が、宮内省に払い下げられ、
 華族会館が一部を使用した。
  1894年6月20日、明治東京地震で被災し・・、
  後に、修復後、土地・建物が、華族会館に払い下げら
 れた。
  1927年に至り、徴兵生命保険(後の大和生命保険)に
 売却され・・、
  1940年、取り壊された。
1883年11月9日、石川縣能美郡の農民が、小松町の金貸会社
 を襲撃した。
  松方デフレ下でおこった農民騒擾。
  この日、石川県能美郡下70〜80ヵ村民100余人が集合し、
 米価下落・金融閉塞による困難打開のため、利子低減・
 元金年賦を債主の金貸し会社に迫ることを相談。
  11月14日〜15日ごろより、各地の金貸し会社に押しか
 けるもの1500人〜1600人におよび、
  18日には、700人が小松町の金貸し会社に迫った。
  20日八幡山・三道山に各500人集合したが、25日鎮静
 にむかった。《自由新聞(復刻版)》
1883年12月11日、英国外相が、条約改正に関する覚書を、
 森有礼駐英公使に送付した。
  内容
  (1)予備会で討議の改正税目、関税率引き上げの大要
   は承認する。
  (2)関税率改正条約を結び、その期限後に内地開放を
   条件に関税自主権を認める。
  (3)領事裁判権放棄については留保する。
1883年12月11日、為替手形約束手形条例を制定し、公布
 した。
  為替手形約束手形条例(かわせてがたやくそくてがた
 じょうれい、明治15年12月11日太政官布告第57号)が、
  1883年12月11日に制定・公布され、太政官布告した。
  近代手形・小切手法の先駆となる法令。
  江戸時代、日本の為替・手形システムは、大坂の両替
 商による信用制度に基づいて、高度な仕組が確立されて
 いた。
  しかし、明治政府は、為替・手形に対する理解が不十
 分で、
  銀目廃止や、国立銀行以外での持参人払式の約束手形
 小切手振出の禁止(国立銀行条例)などを行ったため、
  両替商の破綻や、信用制度の混乱が発生した。
  しかしながら、為替・手形に対する需要が高かったこ
 と、欧米でも同様の制度が存在していることから、
  西南戦争以後に、為替・手形制度の法制化が進められ
 た。
  そこで、御雇外国人ヘルマン・ロエスレルを中心に編
 纂が進められていた商法草案のうちの「為替」の部分の
 みを独自の法令「為替手形約束手形条例」として先行し
 て実施した。
1883年12月12日、山県有朋が、内務卿に任命した。
  山県有朋が、内務卿に就任し、市制・町村制・府県制・
 郡制を制定した。
1883年12月18日、海軍志願兵徴募規則が制定された。
1883年12月28日、徴兵令を改正
  免役を廃止、現役・予備役・後備役の制を定め、代人
 料が廃止される。
1883年12月28日、中山道鉄道公債証書条例が制定。
  中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅〜大垣
 駅間の建設が始まったが、
  山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。
1883年12月28日、金札引換無記名公債証書条例が制定され
 た。
  この月に、松方は、どうしても免れがたい国庫の一時
 的な資金不足に際しては、政府紙幣ではなく、大蔵省証
 券を発行する様に建議した。
  そして、1884年9月の大蔵省証券条令で、
  「出納上一時使用の為」に満期が3、5、6、9ヶ月
 の無記名利付債を一般公募発行、あるいは売り出し発行
 することを定めた。
  また、松方正義大蔵卿は、この月に、
  「独り鉄道布設の用に供するのみならず傍ら現今紙幣
 価格の挽回を謀る一助とも相成候」と、
  鉄道建設と紙幣整理の一石二鳥を狙って、
  中山道鉄道公債2000万円の募集を太政官に上申した。
  中山道鉄道の敷設には、予定以上の経費と期間を要す
 ることが判明し、
  新たに東海道鉄道の敷設を計画することになった。
  このため、第3回発行の収入金で、10%利付き金禄公債
 の繰り上げ償還を行なった。
  これが、国債整理の先駆けとなった。
  中山道鉄道公債を公募発行すると同時に、政府紙幣
 回収償却と正貨獲得のために、金札引換無記名公債を発
 行した。
  これまでの金札引換公債は、記名式であったために流
 動性が乏しく、
  しかも、外国人に所有を認めなかった。
  これらを改め、また、財政上の都合により発行を停止
 するという条項を加えた条例を、1883年12月に公布した。
  1883年度から3年間で、1000万円程度を、募集期限を設
 けず申し込みに応じて随時発行することし、
  発行条件を6%利付き、紙幣との額面交換発行、償還は
 5年据え置き後、30年間で毎年抽選償還とした。
1883年8月19日、ココ・シャネル(ガブリエル・ボヌール・
 シャネル)生誕(〜1971年1月10日)
  20世紀を代表するフランスのファッションデザイナー。
  第二次世界大戦中にドイツに協力したという暗い影が
 ある。
1883年、優生学、そして、人間を差別する行為に
  イギリス人のフランシス・ゴルトンが、この年に、「
 優生学」という言葉を初めて用いた。
  そして、キリスト教の有色人種蔑視などの優劣意識を
 植えこまれたキリスト教徒たちは、人種の蔑視と共に人
 種の差別意識も植え込まれた。
  キリスト教聖職者だったダーウィンの従兄弟のフラン
 シス・ゴルトン(イギリス人)は、人間の能力の研究を
 し、優生学の研究をして、1883年に優生学という言葉を
 初めて用いた。
  そして、1869年に「遺伝的天才」という本を著した。
  そして、彼は、「人の才能がぽぼ遺伝によって受け継
 がれるものである」と主張した。
  そして、人間も人為選択を適用すればより良い社会が
 できると論じた。
  (このキリスト教から派生したこの考えが、ヒトラー
 ユダヤ人虐殺につながって行く)
  そして、当時のイギリスの産業革命の中のイギリスに
 おいて、
  社会の発展のためには、環境の改善よりも、生物学的
 な改良が有意義だと言う考えを示した。
  このゴルトンの思想を、イギリスは受け入れた。
  そしてまた、アメリカにも伝播し、
  アメリカは、イギリスより多く受け入れられた。
  アメリカは、1931年に、全米の30州に『断種法』が成
 立した。
  そして、この考え方は、有色人種蔑視の論拠にも用い
 られ、
  また、移民の制限の論拠にもなった。
  そして、スエーデン、ノルウェーフィンランドなど
 の北欧の国々においても断種法が成立し、
  人間を差別する行為が行われた。
  (参考)断種:だんしゅ、精管や卵管の手術などによ
    って生殖機能を除くこと。
1883年、アメリカ合衆国のインディアンの方々への傲慢な
 態度
  本当のアメリカ合衆国の領土の持ち主のアメリカ・イ
 ンディアンの方々へ対し、
  アメリカ合衆国は、まったく蔑視的態度から傲慢な態
 度が出ていた。
  例えば、アメリカ合衆国のシャーマン将軍は、「イン
 ディアンを制圧するためには、軍隊を増強するよりも鉄
 道を発達させる方が効果が高い」と言い、
  さらに、「鉄道や電信で圧倒すれば、『木の葉っぱの
 様に固まってたくさんいる』インディアンたちも、みん
 なバラバラになってしまう」・・と、発言した。
  完全にキリスト教の有色人種蔑視に毒された頭からの
 発言だった。
1883年、ベトナムの全土が、フランスの植民地支配下にな
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive