(増補版)373E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年3月〜1882年4月)

題:(増補版)373E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年3月〜1882年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年3月14日、立憲改進党の趣意書の発表
  大隈重信らの東洋議政会が、嚶鳴社と合同して立憲改
 進党の趣意書を発表した。
  この年の4月16日に至り、大隈重信を盟主とする漸進主
 義の立憲改進党が、商工業者を母体に、都市中心の政党
 として発足した。
  立憲改進党には、犬養毅・小野梓・尾崎行雄・河野敏
 鎌・沼間守一・前島密らの百数十人が参加し、
  総理に大隈を、副総理に河野が選ばれた。
  根本理念は・・、
  (1) 皇室の尊栄と国民の幸福、
  (2) 金貨制の断行、
  (3) 学問の独立、
  (4) 責任内閣制、
  (5)選挙権の漸進的拡大、
  (6)通商の推進・・などで、イギリスの立憲政体を模
 した。
  そして、自由党とともに、自由民権期を代表する政党
 となり、
  イギリス流漸進主義(ぜんしん、順を追ってだんだん
 に進む)の議会政治と、
  立憲君主制のもとでの二院制議会の早期開設を主張し
 た。
  都市知識人、産業ブルジョアジー、地方名望家・地主
 層の支持を得た。
  『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』
 に、「改進党録事」の欄を設ける予定があった、そして、
 幅広い階層を地盤として、自由民権運動に積極的役割を
 果たす意欲があった。
  そして、自由党と並び自由民権運動を推進したが、
  しかし、運動が激化し、諸激化事件の発生とともに、
 弾圧が強化し、自由党の解党などのため・・、
  1884年11月ころより、党内に解党論が台頭した。
  そして、1884年12月には、総理の大隈をはじめ、小野、
 河野らが脱党するという事態が生じた。
  しかし、残った者たちで規約を改正し、事務委員制を
 とって再生を果たそうとした。
  最初に選出された委員は、藤田茂吉、尾崎行雄箕浦
 勝人、島田三郎、肥塚龍、沼間守一、中野武営の7名と、
  東洋議政会、嚶鳴社の人々を中心に、党活動を維持し
 た。
  初期議会では、民党の立場を堅持し、軍事予算削減を
 求めて政府と対決した。
  1892年の総選挙の際は、政府の大弾圧を受けた。
  しかし、外交政策に関しては、明治10年代後半より国
 権色を強め、
  さらに、1888年、外相として入閣した大隈の条約改正
 交渉を支持するなど、政府に同調する姿勢をとった。
  そして、日清戦争を支持した。
  1896年2月16日になり、解党を決議し、
  1896年3月1日に、対外硬を高唱していた立憲革新党や、
 大手倶楽部(くらぶ)などと合同し、進歩党を結成した。
  (参考)対外硬(たいがいこう):国際社会における
 日本国家の現状を、対外的に危機的状況と考え、
  国家の自主・独立を重んじ、強い外交によって危機を
 打開しようとする思想。
1882年3月16日、立憲改進党の結党式(総理・大隈重信
1882年3月18日、東京電灯会社の設立が出願された。
  矢嶋作郎、原六郎、大倉喜八郎、三野村利助、柏村信、
 蜂須賀茂韶の6氏が、発起人となり、
  資金20万円を以って、東京電灯会社の設立を、東京府
 知事を通じ、内務卿・山田顕義氏に出願した。
1882年3月18日、立憲帝政党(総裁・福地桜痴)の結成。
  長崎出身の福地源一郎、島原出身の丸山作楽らが、立
 憲帝政党を組織した。
  欽定憲法主義(天皇陛下の主権)を標榜(ひょうぼう)
 し、自由党立憲改進党に対立したが、翌年・1883年9月
 24日に解党した。
  結党の理由は・・、
  1881年自由党、1882年の立憲改進党の結成によって、
 政府に対立する政治運動がますます激しくなったことか
 ら、
  これに対抗するため(新聞によって自由党・立憲改進
 党を攻撃)福地源一郎 (東京日々新聞社長) 、丸山作楽
 (明治日報社長) 、水野寅次郎 (東洋新報社長) らを中心
 に、谷干城を交えて、結成した。
   地方の旧士族や、吏員、豪農・名望家層の保守的勢力
 に基盤を求め、自由民権運動に対抗した。
  1882年10月、京都で、全国同志の大懇親会を開催し、
 27府県から310人が集まった。
  福地らは、当初、政府に対して、直接、同党の活動に
 関与するよう期待したが、
  政府側は、政党内閣制を否定する超然主義に立って間
 接的支援にとどめた。
  党勢は振るわず、政府の後援も失って、1883年9月24日
 に解党した。
1882年3月20日上野動物園開園と、上野博物館が開園
  農商務省博物局付属の動物園が、東京・上野に開園し
 た。
  日本初の近代動物園として、上野恩賜公園内にできた。
  また、この日に、農商務省博物局博物館新館(旧本館)
 が開館した。
  浅草文庫とともに一般公開され、また、法隆寺献納宝
 物も収蔵された。  
  「東京国立博物館」の付属施設として動物園が開園し
 た時には、明治天皇陛下が御出席されて、開園式が行わ
 れた。
  収容されていたのは、鹿、猪、熊、猿、鴨、鶴などで
 猛獣はいなかった。
1882年3月24日、結核菌の発見
  ドイツの細菌学者ローベルト・コッホにより、初めて
 結核菌が発見された。
  そして、ベルリン学会で同予防法が発表された。
1882年3月、官報の発行
  参議・山県有朋が、官報発行の建議書を、太政大臣
 三条実美に提出した。
  これが、翌年・1883年7月2日の官報創刊のきっかけと
 なった。
1882年4月1日、馬車輸送業の開始
  西北社が、東京、高崎、前橋、坂本(碓氷)を結ぶ、
 郵便物・旅客・貨物の馬車輸送業を開始した。
1882年4月1日、三菱商船学校が、農商務省所轄となり、東
 京商船学校と改称した。
  日本は、四面環海の島国であり、
  航空機の発達以前の海外貿易においては、専ら、船舶
 によって行なわれており、
  外洋で、大型の商船を運行する高級船員(いわゆる商
 船士官)の養成は国家的事業であった。
  これを受けて、三菱財閥や、川崎財閥の手により、創
 立された三菱商船学校、川崎商船学校を官立に移管し、
 東京高等商船学校と神戸高等商船学校の2校が発足した。
  沿革:
  1875年(明治8年)私立「三菱商船学校」が設立される。
  1882年、官立(国立)に移管され、官立「東京商船学
 校」と改称。
  1886年、官立「商船学校」と改称(1890年まで)
  1890年、函館の官立商船学校(逓信省所管)を函館分
 校とする(現在の北海道函館水産高等学校の源流)。
  1896年、再度、官立「商船学校」と改称(1925年まで)
  1901年、函館分校を北海道庁へ移管。
  1925年、文部省所管とされ、官立「東京高等商船学校」
 と改称。
  1945年、東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し、
 「高等商船学校」が発足。
  本校は、旧清水高等商船学校の校地に集約。
  旧・東京高等商船学校は「高等商船学校東京分校」と
 なる。
  1949年、学校教育法に拠り、新制・国立「商船大学」
 が発足。
  1957年、国立商船大学は、東京商船学校の旧校地に移
 転、国立「東京商船大学」と改称。
  2003年10月、東京水産大学と統合し「東京海洋大学
 洋工学部」となる。
1882年4月4日、御雇い外国人のドイツ人カール・ラートゲ
 ンが、東京大学に着任した。
  ラートゲンは、「自由主義経済と、その上からの制御」
 とを、明治前期の日本において問う試みをした。
  彼の下から、阪谷芳郎をはじめとする俊英が輩出した。
  彼らは、日清・日露戦争を画期(かっき、過去と新し
 い時代とを分けること)する日本の経済的・社会的・国
 家的膨張を、直接、担った。
  そして、ラートゲンは、離日後も、彼らとの緊密な関
 係を保っていた。
  ラートゲンのその卓越した日本分析によって、マック
 ス・ヴェーパーの「日本社会論」に大きな影響を与えた。
  ラートゲンは、日本の政治学統計学・財政学の基礎
 づけをなした傑出した人物である。
  それ故に、同時代の日本人たちに大きな影響を与えた。
  その功績により、1890年5月20日に勲四等(旭日小綬章
 に叙せられている。
  また、1907年には、勲三等(瑞宝章)に勲位進級され
 た。
  ラートゲンは、8年間の日本滞在中、各方面の官僚・政
 治家、財界人、経済学者・財政学者・統計学者たちと知
 り合い、こうした人たちを育成・指導した。
  また、日本の俊英たちも、彼の日本財政・行政事項な
 どの研究を支え、また、その研究が日本に役立った。
  また、その日本の俊英の弟子たちも、ラートゲン亡き
 後のドイツに居る夫人を訪ね、慰め、3万マルクとテーブ
 ル掛けを贈るなど、心温まる行為をしていた。
1882年4月5日、井上馨の内地開放声明(条約改正会議)
  井上馨外務卿が、日本の法律・裁判所に服することを
 条件に、外国人内地全面開放を列国に提案した。
  この日、初めて、井上外務卿は、第7回会議において、
 内地開放を声明した。
  明治維新以来、日本は、「幕府の締結した条約は、不
 平等だ」と、早くから考えていた。
  日本は、「切り札」を持っていた。
  その最大の切り札が、日本が内地開放に応じて来なか
 ったことだった。
  そして、この日、井上馨は、初めて我が国の法律に従
 うことを条件に、全国を開放する旨を声明した。
  井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬(しゅう、
 むくいる)うる所なかるべからず」という方針に立って
 いた。
  日本が関税を引き上げて税収増加を図ること、日本の
 行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対
 等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わり
 に、
  外国人には、土地所有権、営業権、内地雑居権を与え
 ようというものであり、
  中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設
 けて外国人の雑居を許すという案もあった。
  これについて、政府部内でも、佐々木高行大木喬任
 山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るとこ
 ろは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂
 した。
  そのため、井上は、一時は辞任の意向を示すほどであ
 ったが、
  寺島前外務卿が慰留し、岩倉具視山縣有朋らの3参議
 が取りなして、結局、ひき続き、井上の方針が採用され
 ることとなった。
  なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭
 にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国
 共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会
 議を開くべきではないと強く主張した。
  井上の改正案は、諸外国からも、法権・税権のいずれ
 に対しても批判が相次いだ。
  これに対し、井上は、日本は、法典の整備に鋭意取り
 組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する
 用意があると回答、
  1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では、日本の
 法律に服する外国人には、内地開放(内地雑居)を行う
 旨宣言した。
  内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤
 廃することであり、外国人の土地所有や企業活動の自由
 を認めることであったが、
  これは、法権の束縛された当時の日本にとって唯一最
 大の切り札であり、
  列国が、明治初年から繰り返し主張してきたことでも
 あった。
  この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を
 示されながらも歓迎された。
1882年4月6日、板垣退助・遭難事件(岐阜事件)
  自由党党首の板垣退助が、岐阜県厚見郡富茂登村 (現:
 岐阜市)の神道中教院(現在の岐阜公園にあった建物)で
 遊説中に、愛知県士族の暴漢(相原尚褧)に襲撃され、
 負傷した。
  この日、午後6時半頃、板垣は、帰途につこうと中教院
 の玄関の階段を下りる。
  その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡
 り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣に襲い掛かった。
  相原は、板垣の胸を狙い、左胸を刺す。
  板垣は、相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流
 小具足術(柔術)を会得していた)怯ませるが、再び、
 相原は襲い掛かる。
  板垣は、短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と
 人差し指の間を負傷する。
  二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相
 原を押さえ込む。
  その場にいた者たちは、第2の刺客に警戒しつつ、板垣
 を連れ、門前の傘屋に避難する。
  通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察
 をする。
  その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、
 右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に
 傷を負っていた。
  板垣は、輿に乗せられ旅館に戻り、警察は相原を連行
 した。
  襲われたとき、「板垣ハ死ストモ自由ハ死セズ」(諸君
 嘆ずる勿れ、板垣退助死すとも自由は滅ぜざるなり)と
 叫んだという。
  その後、板垣を診察した医者は後藤新平だった。
  板垣は、後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないの
 が残念だ」と語った。
  だが、後に、後藤は、板垣の希望通り政治家となった。
  (氷川清話)明治15年には板垣退助の遭難。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive