(増補版)362E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年4月〜1880年7月)

題:(増補版)362E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年4月〜1880年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1880年4月22日、日本薬学会が創立された(2月か?)。
  薬学雑誌の1919年度版に・・、
  薬学会の創立はいつか? 本学会ホームページには「明
 治13年(1880年)、日本薬学会は我が国では最も古い学
 会の一つとして誕生しました」と書いてある。
  本当だろうか。ちょっと疑ってみよう・・と書いてあ
 る。
  しかし、以下の事も書いてある・・、
  しかし、薬誌の創刊号(明治14年12月)は長輿専齋、
 長谷川泰の祝詞のほかは学術論文のみ、
  以後の号も、学術記事と会員への通達ばかりで、その
 1、2年前という会の創立に関する記事は一切書かれて
 いない。
  諦めかけたら薬誌1910年(明治43年)6月号の付録に、
  「日本薬学会沿革史」というものがあった。
  30年後とはいえ創立メンバーの多くが存命中の公式記
 録である。
  既に、明治43年の薬学会は、医事、衛生、化学、博物
 の諸科にわたって会員2750余名を有する大規模学会に成
 長していた。
  しかし、沿革史によれば、明治13年創立当時は,東大
 本科の同窓生30人(明治11年、12年の卒業生19人中17人、
 在校生15人中13人)より成る、些々たる小集団に過ぎな
 かったという。
  「明治13年1月、在京の製薬士、神田明神境内の開花楼
 にたけなわ会して新年会を催す。
  酒酣なるころ、某氏発議して曰く、我ただが徒、同窓
 多年その交、水魚啻ならざれども一たび業を卒へて、校
 舎を去るの日は一別東西、容易に相見ること能はず。
  年つい処悠久竟に呉越の疎情を生ずるに至らんことを
 恐る。
  宜しく今において情誼を永遠に保持するの策を講ぜざ
 るべからず。
  その方法の一端として、今より定期の親睦会を設くべ
 し」。
  満場一致これを賛成し、
  翌2月、第4土曜日を卜して各自会きょ費15銭を醵し、
  神田仲町福田屋に親睦会を開く。
  これを第1回とし、以来、毎月集まっていたのだが、
 親睦以外何も目的がなかった。
  初めの頃こそ、談笑囲碁の間に多少の交歓の楽しみも
 ありしなれ、
  会を重ぬるに従い興味衰え、
  晩秋には、会する者わずか3人になってしまった。
  そして、このまま明治13年は終わってしまうのである。
  創立というには、少し寂しい一年ではないか?
1880年4月24日、皇室紋章の乱用禁止
  因みに、国際的にも、皇室の紋章である「十六八重表
 菊」は、
  工業所有権の保護に関するパリ条約第6条の3に基づい
 て、1967年に、同条約の同盟国に通知されていて、
  これらの国では、商標登録をすることはできない。
1880年4月、朝鮮の漢城(ハンソン)(現=ソウル)に、日
 本公使館が設置された。
1880年5月10日、弘前で大火。焼失1500戸(5月17日説あり)
  陸奥弘前の大火(約1000戸焼失ともある)
1880年5月20日、地価を、さらに5年間据え置きと決定する。
  1873年明治6年)の地租改正時にも、農民一般の不平
 は大きく、
  そのために、多くの騒擾(そうじょう、集団で騒ぎを
 起こし、社会の秩序を乱すこと)が起こり、
  やっと平静をとりもどしたのは、つい最近のこと、
  それを、今、急に、米納に戻そうとすれば、必ず農民
 蜂起が発生するであろう・・、
  この年(1880年)5月に、1885年まで、地価の再査定を
 せず、
  地租改正当初、定めた地価に基づいて、地租を徴収す
 る旨布告したにもかかわらず・・、
  今、米納の旧制に戻せば、
 「当ニ信義ヲ民ニ失フベシ」と考え、不採択とせざるを
 えなかった。
1880年5月21日、越後三条町、大火。
  約2500戸焼失、死傷者64人
1880年5月、結婚紹介所が、大阪に開業。
  日本初の結婚相談所が、大阪に開設され、
  「養子女婿嫁妻妾縁組中媒取扱所」と表示し、
  養子縁組や愛人の紹介もしている。
  大阪に、人々が集まって来た時世を現わしていた。
  人々は、「高砂屋」として結構利用したような様子。
  また、この頃、自分の略歴や相手への希望条件を新聞
 に記載して出し、結婚相手を探す広告も登場した。
1880年6月16日、明治天皇陛下が、中央道地方を御訪問(〜
 7月23日)
1880年6月29日、東京代言人組合が創立した。
  会長は星亨(東京弁護士会の前身)
  1872年(明治5年)代言人(弁護士の前身)制度発足
  1876年(明治9年)代言人免許制度開始
  1880年明治13年)代言人組合加入を義務付け
    東京代言人組合(東京弁護士会の前身)結成
  1893年明治26年)弁護士法(旧々法)制度 弁護士の
   名称採用
    弁護士試験制度の新設
    弁護士会への強制加入制度
    東京弁護士会創立
  1933年(昭和8年)弁護士法(旧法)改正 弁護士の法
   律事務独占
    実務修習制度新設
    女性に資格貸与
  1946年(昭和21年)憲法公布
1880年6月1日、逢坂山(おうさかやま)トンネルが完成。
  日本人のみによる、最初のトンネル工事(外国人技師
 に頼らず完成させた)。
  長さ:664.8メートル。
  地質が悪く、当時の技術力では難工事だったという。
  トンネルは、そのほとんどが滋賀県内に位置する。
  古代より逢坂関が置かれたところ。
  西南戦争の影響でなかなか着工できなかったが、1878
 年8月21日に着工した。
  工期:1年9ヶ月。
1880年7月6日、不公正条約の改正
  井上外務卿が、条約改正案を各国公使に交付(アメリ
 カと中国=清国を除く)
  日本人を未開人扱いするような列強各国に対し・・、
  新しく参議兼外務卿となった井上馨は、最難関のイギ
 リス公使に、上野景範に代え、省内きっての親英派で強
 硬派でもある森有礼を起用した。
  そして、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案
 を作って、
  1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を
 訓令した。
  同年・1879年11月には、在欧各国の公使に対し、海関
 税則改正と、開港場における外国人の不当な慣習(日本
 人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則
 における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外
 国人への適用などを骨子とした条約改正方針を、各国に
 通知するよう訓令を発した。
  1880年明治13年)3月の官制改革において、参議と卿
 は分離されたが、
  井上外務卿のみは、条約改正に携わる関係から、その
 例外とされ、
  なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は、前
 駐露公使・榎本武揚であり、
  外務少輔には、上野景範が任じられ、
  榎本が、海軍卿に転出すると上野が外務大輔に昇格し
 た。
  また、1880年5月以降は、横浜のアメリカ副領事であっ
 たヘンリー・デニソンが、外務省顧問に採用された。
  1880年6月に、井上案の骨子を基に修好条約改正案、お
 よび、通商航海条約改正案が準備され、
  同年・1880年7月6日に、条約改正会議を、日本で開催
 することをアメリカ・清国を除く、各国に通知した。
  この改正案の内容は、駐日オランダ公使からリークさ
 れ、7月16日付のジャパン・ヘラルド紙に掲載されてしま
 った。
  翌・1881年明治14年)2月に、井上は、条約改正案を
 関係各国に回付した。
  列国の態度は、日本案は要求のみ多く、それに対する
 報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める
 姿勢が強かった。
1880年7月14日、日本の独り立ちの大津線、京都−大津間が
 全通した。
  京都・大津間の鉄道開通式(7月15日説あり)
  外国人技師に依頼せず、邦人技師のみにて竣工せる最
 初の鉄道。
1880年7月17日、刑法・治罪法制定(公布)。
  斬首を廃止(⇒82・1・1施行)、新刑法公布(1907年)
  この刑法(旧刑法)で、刑事手続において少年として
 扱うことができる年齢が、12歳未満の者の行為は罰せず、
  20歳未満の者は、刑を軽減すると規定した。
1880年7月20日明治天皇陛下が、神戸行幸の折、勅使を
 湊川神社へ差遣し、楠正成に正一位を追贈し給う。
1880年7月26日、明治天皇陛下、中央道巡幸より御帰還。
1880年7月31日、『団々珍聞』が、政府批判の挿絵(戯画)
 を載せ、発禁となる。
1880年7月10日、東京大学文学部第一回卒業式 (岡倉天心
 井上哲次郎らが卒業)
  この日の、学位授与式において,文学部で初の卒業生
 8名が巣立った。
  因みに、1881年明治14年)9月、文学部は、二学科
 体制から、哲学科(第一科)、政治学及理財学科(第二
 科)、和漢文学科(第三科)の三学科体制に組織替えさ
 れた。
1880年7月、紡績業の振興策
  この時に、官立・広島紡績所(ぼうせきじょ)を起工
 した。
  明治政府は、輸入全体の3分の1前後を占める綿製品の
 輸入を減らすのと、国内の綿作の回復のために、紡績業
 の育成を図り、
  1878年から、労働者数十人で、2000錘規模の工場を、
 各地に建設させるという政策をとった。
  模範工場として、官営・愛知紡績所と広島紡績所を設
 立した。
  一方、イギリスから輸入した2000錘紡績機10基を、民
 間有志に、年賦で、払い下げ(十基紡)、
  また、県や民間の紡績所に資金を貸し付け、
  さらに、内務省技師を、技術指導に派遣した。
  その結果、1880年代半ばまでに、20ヵ所近い小紡績が
 開業したが、大部分は経営不振だった。
  むしろ、臥雲辰致(がうんたつむね、紡績機の発明家、
 1842年〜1900年)が、1876年に発明した「ガラ紡」が一時
 的に広まった。
  臥雲辰致は、1873年に、最初の紡織機を発明し、特許
 を申請し、特許をとった。
  そして、この紡織機の製作を事業化し、1877年の上野
 開催の第一回内国勧業博覧会に出展し、最高の賞である
 鳳紋賞牌を受賞した。
  そして、これが、各地に広まった。
  しかし、後に、洋式紡績機が普及し、高速に均質で細
 い糸を紡ぐ事が出来る様になったので、ガラ紡機は、
 1890年ころから、衰退した。
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  (今日の言葉)
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  題:沖縄は、どうなっているか?
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  中国の自治区と言っても、今、建前だけの自治区とな
 っている。
  名目上のトップは、ウイグル人だったり、チベット人
 だったりするが?
  その下の幹部は、そのすべてが、漢族で押さえられて
 いる傀儡(かいらい)政権だ・・と本にある・・、
  今、女真族は、影も形もない・・という・・
  そして、その族の、話される言葉もない・・、
  その独自の言葉も・・なくなってしまっている・・
  この族は、どこに行ってしまったかもわからない。
  この女真族・・女真族と言えば「満州族」・・、
  約80年強の以前には、日本が手助けをしてあげて、満
 州国が建国されたのに、
  今、満州族女真族は、地球上から姿を消した、居な
 くなっている。
  そして、チベットは、今、「中国の各省が、皆(みん
 な)が金と人を出し合って、チベットを助けましょう」
 ・・というキャンペーン・一大運動をやり・・
  金で黙らせて・・、
  そして、中国全土から漢族が、大勢、大挙して・・チ
 ベットに入って来て、
  チベット人が、居住区から追われることも起きて、
  結果的に、漢族に、チベット人が「やられた形」にな
 っている・・という・・
  豊かになった中国、金のある中国、結局、沖縄だって
 「金で黙らせて」、こんなはずじゃなかったのに・・と
 なる。
  そうなった後では・・「手遅れ」・・
  中国は、チベットに簡単に行けるように、国家プロジ
 ェクトで・・鉄道や道路を完成させた。
  不満を言うチベット人は、力で押え込まれている。
  これに抗議して・・焼身自殺した仏教徒は・・160人以
 上、居るが・・報道されることは、ほとんどない。
  そして、今・現在、チベットの一部は、完全に中国と
 なっていて、「自治区」の「じの字」も出て来ない・・
  中国は、「青海省」とか、「四川省」とかの名前を付
 けて・・自国の様に・・
  ここは「チベット」でした・・と、過去形になってい
 る。
  「沖縄もこうなる・・うかうかすると・・こうなる」。
  チベットの件も、満州の件も、意外と早く、事は進ん
 で行った・・
  だから、あなたのお子さんが・・大人になる頃には・・、
  「沖縄が・・どうなっているか?」・・クエスチョン
 です。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive