(増補版)361E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年2月〜1880年4月)

題:(増補版)361E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年2月〜1880年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1880年2月、横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう、
 為替銀行)が開業した。
  国立銀行条例(1872年に太政官布告)に準拠した銀行
 で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利
 益を軽減するため、現金(正金)で貿易決済を行なうこ
 とを主な業務とした。
  東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身。
  貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新
 後、急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日
 本を、国際金融面で支えた。
  そして、列強の銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展して
 行く。
1880年3月2日、米内光政(よないみつまさ、日本海軍軍人、
 政治家)が生まれた。
  岩手県盛岡市に旧森岡藩士の長男として生まれた。
1880年3月8日、公使任命
  スウェーデンの最初の公使に柳原前光(やなぎわらさ
 きみつ)が任命された。
1880年3月15日、愛国社が、第4回大会を開催する。
  3月17日に、国会期成同盟結成(改称?)し請願運動を
 開始する。
  自由民権運動が、いよいよ盛んとなる。
  国会期成同盟の結成(元:板垣退助の愛国社)
  第4回大会において、愛国社とは別として、国会期成同
 盟の大会が開会される事態になったため、
  この後、愛国社は、旧立志社系統の人々によって継続
 するが、
  1880年12月27日(明治13年11月26日)、東京において
 解散が論議された記録を最後に、歴史の舞台から退場し
 た。
1880年3月22日、小磯國昭(こいそくにあき、日本陸軍軍人、
 政治家)がうまれた。
  栃木県宇都宮に山形県士族(旧新庄藩士)の長男とし
 て生まれた。
1880年3月23日、内務省に駅逓官を設けた。
  これまで郵便業務は、「管内の公用通信網」であった
 が、これを再構築し、
  この1880年3月以降、これまでの「地方管内公用通信網」
 が、駅逓局と各府県との契約(特別地方郵便法)によっ
 て、急速に郵便ネットワークに組み込まれていった。
  これによって、日本全国、津々浦々まで、郵便集配が
 行なえるようになり、ネットワークが完成して行った。
  これは、「五街道を中心とした駅制」と、「地方管内
 公用通信インフラストラクチャー」とが包含され、出来
 上がって行き、そして、近代郵便制度が成立・完成して
 行った。
1880年3月24日、デンマークの最初の公使に長岡護美(なが
 おかもりよし、外交官、華族貴族院議員)を、
  そして、スイス公使に鮫島尚信(さめじまひさのぶ、、
 薩摩藩士、外交官)を任命した。
1880年3月25日、前島密(まえじまひそか、官僚、政治家)
 が、駅逓総官に任用された。
  (幕臣の家に養子となり、後に貴族院議員となる)。
  1871年明治4年)に駅逓頭(えきていのかみ)となっ
 て、近代郵便制度の確立につとめていた。
  そして、1881年明治14年)に、官を辞し、1882年(
 明治15年)に結党された大隈重信立憲改進党にくわわ
 った。
  前島密・略歴・・、
  1835年2月4日、越後国頸城郡下池部村(新潟県上越市)
         の豪農、上野家に生まれる。
  1845年(11歳)、高田藩儒・倉石典太の門に入る。
  1847年(13歳)、江戸に出る。
         苦学しながら医学・蘭学を学ぶ。
         ペリー来航により国防強化の必要性を
        痛感し、全国を周遊する。
         そして、砲台、港湾などを実地見聞す
        る、
         また、砲術・操練・機関学などを学ぶ。
         その後、箱館で武田斐三郎の門に入っ
        て、航海術・測量法を修得する。
  1865年(30歳)、薩摩藩の開成学校で英語を教授する。
  1866年(31歳)、江戸に戻る。
         そして、幕吏・前島錠次郎の家を継ぐ。
         また、兵庫奉行支配調役、遠州中泉奉
        行を経て、
  1869年(34歳)、新政府に出仕する。
         この頃、密(ひそか)と改名。
  1870年(35歳)、駅逓権正に就任。
         そして、維新後も存続した江戸時代の
        飛脚が、遅滞、不着が甚だしく、そして
        また、高額という飛脚に代わる郵便事業
        創設を決意した。
  1871年(36歳)、イギリスから帰国し、駅逓頭に任ぜ
        られ近代郵便制度を東海道〜大阪間で開
        始した。
         また、郵便切手を発行した。
  1872年(37歳)、郵便を全国に実施する。
         そして、飛脚屋に陸運元会社(のち内国
        通運会社)の設立を勧めた。
  1873年(38歳)、郵便事業の政府専掌とし、全国均一
        料金制を確立した。
       「郵便」「郵便切手」の名称は前島の創意。
  1881年(46歳)、14年の政変により大隈重信と共に下
        野し、立憲改進党の結成に加わった。
  1886年(51歳)、関西鉄道会社社長に就任。
  1887年(52歳)、東京専門学校(早稲田大学)の校長に
        なる。
  1888年(53歳)、逓信次官に任ぜられる。
         そして、電話交換事業の創始に貢献。
         退官後、北越鉄道会社社長となり、直
        江津〜新潟間の開通に尽力。
  1904年(69歳)、貴族院議員になる。
  1919年4月27日(84歳)、神奈川県三浦郡西浦村大字芦
        名(現在の横須賀市芦名)の別荘・如々
        山荘にて没する。
1880年3月30日、村田銃が発明される。
  陸軍省、村田経芳作製の単発銃を、軍用に採用した。
  この年に、単発の後装式施条銃を完成し、十三年式村
 田歩兵銃として制定された。
  口径 11mm、全長 1090mm、重量 4kg、最大射程 2000m
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)の考案。
  日本陸軍の最初の正式採用された国産の制式小銃。
  日清戦争に威力を発揮した。
  砲金(銅と錫、または、銅とスズと亜鉛の合金)の薬
 莢(やっきょう、銃砲の弾丸の発射薬を詰める円筒形の
 容器。底部に雷管がついている)を用い、射撃後、槓桿
 (こうかん、銃の遊底・ゆうていを操作するための握り)
 を引いて尾筒を開けば空薬莢ははじき出された。
1880年3月、 「愛國志林(あいこくしりん)」 が創刊
  愛国社(自由民権運動の全国的指導組織)の機関誌。
  1880年8月に、「愛国新誌」と改題した。
  資金、編集ともに高知の立志社が中心となり、大阪で
 発行した。
  基本的人権人民主権を主張。
  自由民権思想の普及に大きく貢献した。
1880年、政府側も揺れていた『憲法制定と国会開設』
  この年の1880年明治13年)に入ると、立憲体制に消
 極的であった岩倉具視も・・、
  自由民権運動への対応から、参議や諸卿から、今後の
 立憲体制導入の手法について意見を求めた。
  伊藤博文は、この年の1880年の暮れに意見書を提出し、
 漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議し
 た。
  後者は、公家出身の岩倉が嫌う点であったが、伊藤は、
 敢(あ)えて提出した。
  ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにし
 なかった。
  伊藤に相前後して、参議らから次々に意見書が出され、
 様々な意見が出された。
  その中で、1人・大隈重信だけが意見書の提出を先延ば
 しにしていた。
  1881年明治14年)3月に至って、ようやく大隈が、左
 大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して、「
 密奏(みっそう、ひそかに奏上すること)」という形で
 意見書を提出した。
  大隈は、その中で、イギリス流の立憲君主国家を標榜
 (ひょうぼう、主義・主張などをはっきりと掲げ示すこ
 と)し、
  早期の憲法公布と、国会の2年後(1883年)の開設を主
 張した。
  このことを、1881年5月に、内容を知った岩倉は、その
 内容とともに、自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見
 書を出した経緯に憤慨した。
  岩倉は、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。
  井上毅は、大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)
 との類似点を指摘して、一刻も早い対案を出す事を提言
 した。
  そして、岩倉の指示を受けた井上は、ドイツ帝国を樹
 立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意
 見書を作成した。
  だが、大隈の密奏も、岩倉・井上毅の意見書も、他の
 政府首脳には詳細が明かされなかった。
  そのため、伊藤が、この事情を知ったのは、1881年6月
 末であった。
  ただし、伊藤は、大隈に対してのみではなく、岩倉・
 井上毅が、勝手にプロシア式の導入を進めようとしてい
 た事に対しても意を悪くし、説明に来た井上毅を叱責し
 た(6月30日)、
  そして、伊藤は、三条実美に辞意を伝えた。
  岩倉は、伊藤に辞意の翻意を求め、
  井上毅も、国家基盤を安定させてからイギリス流の議
 院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を
 求めたが、
  伊藤は、イギリス式かプロシア式かは、今、決める事
 ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的
 であった。
  この間にも、井上毅は、伊藤の盟友・井上馨(当初は
 将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入
 れ、
  伊藤は、薩摩閥と結んで、まず、憲法制定・議会開催
 時期の決定することを求めた。
  (参考)民情一新は・・、
  「文明論之概略」と共に、福沢諭吉歴史観を知る重
 要な書で、
  「文明論之概略」において、福沢は、歴史を動かすも
 のは一二の英雄豪傑の力ではなくて時勢であるとした。
  この「民情一新」においては、更に、その論緒を発展
 させ、時勢を動かすものは交通の便によると説いた。
  19世紀文明の急速なる発達は、蒸汽船車・電信・郵便・
 印刷の発明工夫に基ずくもので、結局、蒸汽力を、人類
 が利用することを知ったのが、近時文明の進歩の最も大
 きな原因で、
  しかも、この蒸汽力利用の発明によって、これを発明
 した人類自身が急激なる変化に遭遇し、周章狼狽してい
 るのが、これが、現在の世態民情であると言った。
  新技術の発明が、歴史を動かす原因であるとする福沢
 の所説は、
  物質的生産力が歴史推進の原動力であるとするマルク
 スの所説に甚だよく似ているので、
  近年になって永田広志、小泉信三などの諸家の注目す
 るところとなり、研究論考の対象となった。
  福沢自身は、もちろんマルクスの学説などは知らなか
 ったのであるが、
  この書については相当に自信があったものと見えて、
 「日本学士の思想」を示すために英訳しようともした。
  この英訳は遂に成らなかったが、オーストリヤの碩学
 シユタイン博士からその著書を贈られたとき、
  これに答礼するために、自著を贈るに当って、多くの
 著書の中から、この一冊だけを選んだ。
1880年4月5日、集会条例を制定し、公布した(施行)
  国会請願運動を拘束し、
  また、民心を扇動して、民心を動揺するのを防ぐため、
 「集会条例」が定められた。
  自由民権運動を弾圧、集会・結社の規制で・・、
  政治結社や集会を届け出制にしたほか、
  国家の安全に害ありと認めたときは許可しないこと、
  警官の集会場への派遣・臨席や、演説内容によっては
 集会の解散、この処分を受けた結社の禁止、
  軍人・警官・教員・生徒らの政治結社、および、集会
 への参加、政治活動の禁止などが定められた。
  また、集会の広告、政治結社相互の連絡、屋外集会の
 禁止を定めた。
1880年4月8日、2府22県、9万6924人の委託を受けた「国会
 を開設するの允可(いんか、許可)を上願する書」が起草
 された。
  そして、片岡健吉と河野広中(こうのひろなか)が代表
 で、太政官(だじょうかん)と、元老院に提出した。
  しかし、両方とも受理されなかった。
  これに興奮した全国各地の民権派は、続々と請願や建
 白の運動を始めた。
  しかし、いずれも却下されるか、回答を得ることがで
 きなかった(政府自身も、政府部内も揺れていたから)。
  同年の1880年11月、東京で開かれた国会期成同盟・第
 2回大会では、2府22県13万人を代表する64人が集まり、
 関東や東北などからも参加があり、運動は拡大した。
  この大会では、弾圧を受けた者の救援を図るための遭
 変者扶助法が定められた。
  また、翌・1881年の大会までに、加盟各社が憲法見込
 案を持参し、研究する合議がなされた。
  これを受けて、各地で憲法起草の取り組みが始まった。
  しかし、1881年に、『明治十四年の政変』が起こり、
 ついに、憲法草案の審議をすることなく、国会期成同盟
 は自由党結成への準備会と合流し、政党組織へと変わっ
 ていった。
  日本は、近代システムの建設への経過の中に居て、
 生みの苦しみをしていた。
  すべての日本国民が、誠実に、国家建設に邁進してい
 た。
1880年4月17日、「國會ヲ開設スルノ允可(いんか、許すこ
 と)ヲ上願スル書」を太政官に提出した。
  1881年3月、大隈重信が、國會開設の早期開設案を提出
1880年4月19日、河野広中・片岡健吉ら、約10万人の総代と
 して、国会開設の請願書を提出(却下される)
  片岡健吉,河野広中が、全国2府22県約9万7000名の請
 願委託者を代表して「国会を開設するの允可を上願する
 書」を提出した。
  この請願書は、120件に及ぶ国会開設請願書・建白書の
 中でも、9項目の請願理由を列挙した詳細なもので、
  その根拠が、天賦の人権、五ヵ条の誓文の国是、兵役
 ならびに地租負担者の権利、内政および財政の混乱、国
 権回復など広範にわたっていたことを示している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive