(増補版)413E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年5月〜1885年6月)

題:(増補版)413E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年5月〜1885年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年5月16日、シェークスピアヴェニスの商人』、大阪
 の戎座(えびすざ)で本邦初演。
  大阪戎座での中村宗十郎一座による《ベニスの商人
 の宇田川文海による翻案《何桜彼桜銭世中(さくらどき
 ぜにのよのなか)》が最初。
  その後いくつかのシェークスピア作品が、
  いずれも部分的に、翻案によって上演された。
  1883年のC.ラム《シェークスピア物語》に依拠した井
 上勤の翻訳《人肉質入裁判》がある。
  因みに、日本の法律では、「肉は切り取っても良いが、
 契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産
 を没収する」という理屈は成立しない。
  人間(肉)に血液が付随する事は必然であるため、民
 法第87条の1の規定によって血液は肉の従物とみなされ、
 2の規定によって、肉を切り取るという契約がなされた以
 上は当然ながら血が流れるから。
  また、「借りた金を返すことが出来なければ、肉1ポン
 ドを与えなければいけない」という契約は、民法第90条
 の「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする
 法律行為は、無効とする」との規定に基づいて、成立し
 ない。
1885年5月18日、監軍部条例(東部、中部、西部とする)
 鎮台条例を改正する。
  監軍本部条例を廃止し、監軍部条例を制定する。
  監軍部(かんぐんぶ)は、日本陸軍の組織。
  二つの同名称の組織があり、第一次は師団司令部の前
 身といえるもの、
  第二次は教育総監部の前身。
1885年5月19日、品川硝子製作所を貸下げていた稲葉正邦
 西村勝三へ払下げる(2月21日説あり)
1885年5月20日、各鎮台の歩兵連隊を旅団に編成する。
  歩兵連隊(ほへいれんたい)とは、歩兵を主とする連
 隊。
  1882年の軍備拡張方針が決定すると、軍隊編制の改編
 が進められて、旅団・師団の常備兵備化と編成が目指さ
 れた。
  そして、1885年の監軍本部条例と鎮台条例、および、
 参謀本部条例の改正における出師準備・出師計画の職務・
 業務を中心に改正された。
  そして、さらに、1884年の夏以降の出師準備管理体制
 の萌芽を経て、
  また、以上の監軍・鎮台・参謀本部の三つの官衙の整
 備をふまえて、
  1886年の鎮台出師準備書関係の仮制定や陸軍召集条例
 の制定などによって、最初の第一次的な出師準備管理体
 制が成立して行った。
  (参考)官衙:かんが、役所、官庁。
      出師:すいし、軍隊を繰り出すこと。出兵。
      兵備:へいび、万一の大切な防衛などの戦い
       に備えて兵員・兵器などを備えておくこと。
1885年5月21日、東京・浅草公園内に花屋敷が開園した。
  東京都台東区浅草公園にある遊園地。
  江戸後期に植木屋森田六三郎が開いた草花の陳列場に
 始まり、明治中期から遊園地となった。
1885年5月23日、内務省達で、政府は、新聞が、他の新聞
 (欧文を除く)に掲載されている論説を、10日以内に転
 載する時は、必ず原新聞の持主、または、社主の承認を
 要する旨を通達した。
1885年5月30日、 預金規則を制定
  大蔵省に初めて預金局を設置する(国家経済の運用と
 利殖を計る)
  1869年(明治2年)に、大蔵省において、紙幣、及び、
 公債証書の回収準備のために、
  不用品売却代金・その他雑収入による一種の積立金が
 創設された。
  1872年、「準備金規則」を定め、準備金と改称され、
  1876年、大蔵省国債局は、官庁その他からの受け入れ
 現金を、預金として整理した。
  郵便貯金は、当初、民間銀行に預託されていたが、郵
 便預金が預金部の中心的な資金であった。
  1878年から、郵便貯金は、大蔵省国債局に預けられ、
 運用されることになり、
  これによって、預金部が事実上創設された。
  駅逓局預金の他、社寺積立金、印刷局積立金、米国政
 府返還下関金、シーボルト恩賜金の特殊預金もあったが、
 いずれも特別の根拠法規はなかった。
  預金利率については、駅逓局預金では、預金利率より
 低い利率だった。
  その他の預金では、個別に規定された。
  一方、運用については、当初は、公債、金銀銅地金、
 官庁銀行などへの貸付けなどであったが、
  1882年以降、原則として公債のみであった。
  1885年、預金規則の制定により、預金の根拠を与え、
 範囲を明確化し、
  駅逓局預金、特別会計の余裕金、積立金を預金部に集
 中させた。
  預金部の原資について、郵便貯金が低調であった1890
 年頃を除き、6割〜8割は郵便貯金であった。
  (高橋洋一氏、財投改革の経済学より)
1885年5月31日、富山市の大火(ほとんど全滅)
  6000戸が焼失(600戸説あり)
  富山市街大火、5,900 戸余焼失の記述もあり。
1885年5月、伊藤博文が、官制改革を主張し、三条実美太政
 大臣らと協議する。
  この頃、この年の12月に予定されている内閣制度への
 移行が意識の中にあった。
  そして、初代内閣総理大臣としては、三条実美と伊藤
 博文が有力だった。
  大久保の死後、伊藤博文は、事実上の宰相(さいしょ
 う、総理大臣)として明治政府を切り回し、内閣制度を
 作り上げていた。
1885年5月、佐賀県で奇病が流行した。
  後に、肝臓ジストマと判明した。
  肝臓ジストマは古い呼び名で、肝吸虫(かんきゅうち
 ゅう)という。
  この肝吸虫が、人を含む、幅広い哺乳類を終宿主とし
 て、肝臓内の胆管に寄生する(吸虫の1種)。
  肝臓内の胆管に寄生している成虫は、平たい柳の葉の
 ような形をしており、
  体長10〜20mm、体幅3〜5mmで、雌雄同体。
  糞便とともに外界に出た卵は、水中に流出しても孵化
 せず、
  湖沼や低湿地に生息する微小な巻貝の1種・マメタニシ
 に摂食され(第一中間宿主)、
  ここで、体内で変態し、幼生となり成長する。
  幼生は、体外に出て、水中に泳ぎだす。
  そして、第二中間宿主の淡水魚に達し、鱗の間から体
 内に入る。
  淡水魚は、コイ科を中心にモツゴホンモロコなど80
 種。
  コイ科以外のワカサギの報告もある。
  こうした魚を、人、犬、猫、ねずみなどが生で摂食す
 ると、小腸で幼虫となる。
  そして、胆管に入り、肝臓内の胆管枝に定着する。
  23日〜26日かけて成虫となり、産卵を開始する。
  成虫の寿命は、20年以上に達する。
  症状としては、肝吸虫の成虫が、寄生する胆管枝を塞
 栓してしまうため、
  多数個体が寄生すると、胆汁の鬱滞と、虫体の刺激に
 よって胆管壁と周囲に慢性炎症をきたす。
  さらに、肝組織の間質の増殖、肝細胞の変性、萎縮、
 壊死が進行し、肝硬変へと至る。
  そのため、食欲不振、全身倦怠、下痢、腹部膨満、肝
 腫大をきたし、
  やがて、腹水、浮腫、黄疸、貧血を起こすようになる。
  ただし、少数個体のみの寄生では無症状に近い。
  診断・検査は、胆管の拡張、肥厚が起こるため、逆行
 性膵胆管造影、CT、エコーなどで診断すると、肝内胆管
 の拡張像、異常が認められる。
  確実な診断には、虫卵の確認が必要であるため、糞便
 検査(ホルマリン・エーテル法やAMSIII法などの沈澱集
 卵法を利用)や十二指腸ゾンデ検査が行われる。
  芸術家にして美食家の北大路魯山人の死因はこれと言
 う説がある。
  タニシを食べるときは十分火を通して食べるべき・・、
1885年6月2日、京都で、琵琶湖疎水の起工式
  琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏
 水)、国の史跡。
  日本の伝統が脈々と流れる、大事な京の町を守る水の
 流れである。
  第一疎水は、1890年に完成し、
  第二疎水は、1912年(明治45年)に完成している。
  水道水(54.8%)、その他(水力発電、灌漑、工業用
 水)
  水力発電の電気で、京都電気鉄道(京都市電)が走っ
 た。
  そして、この水は、伏見・宇治川へと結ばれている。
  インクラインなどを駆使して、日本の明治の技術者は、
 運輸・運行の役も果たさせた。
  インクラインで、船が線路の上の台車に載せられ運ば
 れた。
  優秀な技術で成就したこの水は、京都の貴重な文化遺
 産の防火用水となり、
  また、名園・庭園の池にも引き入れられた。
  禁門の変において、京の町の大半が焼け落ち、また、
 東京遷都もあって、京都は衰退した。
  第三代京都府知事の北垣国道氏が、多目的に利便性の
 ある疎水を計画した。
  そして、若き技術者、工部大学校を卒業したばかりの
 田辺朔郎に任じて、設計計画させ、
  そして、工事における監督にもあたらせた。
  第一疎水が完成し、1890年4月9日に、明治天皇陛下、
 昭憲皇太后陛下の御臨幸を仰ぎ、竣工式が挙行された。
  水力発電は、当初なかったが、田辺らのアイデアだっ
 た。
  日本初の営業用水力発電となった。
  取水量は、23.65立法メートル/秒
  現在、この琵琶湖疎水を通して年間・2億トンの湖水を
 得ている。
  この感謝金が、京都市から「疎水感謝金」として、年
 間2億2000万円が、滋賀県へ支払われている。
  滋賀県は、この感謝金を、「山の植林・間伐・林道整
 備など、水源地となる山の保護事業」に支出している。
  この美しい貴重な京都・人類の遺産であるの町へ、ア
 メリカは原爆を投下しようとしていた。
1885年6月2日、文部省東京図書館、東京教育博物館と合併
 し上野へ移る。
  東京書籍館は、蔵書は文部省から交付された約1万冊を
 基礎として、
  日本で初めての納本図書館として、すべての国内出版
 物を蔵書に受け入れた。
  閲覧は、再発足時から無料となるが、西南戦争の影響
 による財政難から1877年に廃止が決定され、
  東京府に移管されて、学務課が管轄する東京府書籍館
 となった。
  しかし、東京府も財政難で運営困難となり、
  1880年7月には、文部省に再度復帰し、名称を東京図書
 館に変更した。
  そして、東京図書館は、1885年6月に、東京教育博物館
 (国立科学博物館の前身)と合併して、上野に移転した。「
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  (今日の言葉)
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  題:日本は、「戦争不拡大」が方針だった。
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1932年(昭和7年)1月28日、第一次上海事変(だいいちじ
 シャンハイじへん)が起きた。
  中華民国の上海の共同租界周辺で、日本と中国の両軍
 が衝突した。(〜1932年3月3日)
  当時、中国は国民政府の中華民国で、
  この国(政府)は、1971年まで、国際連合安全保障理
 事官常任理事国であった。
  そして、この上海共同租界の旗には、数カ国が描かれ
 (イギリス、アメリカ、オランダ、ドイツ、ロシア、デ
 ンマーク、イタリア、ポルトガル、スエーデン、オース
 トリア、スペイン、フランス)ている。
  そして、ラテン語で「全て(の国)が一つの仲間に」
 と記されている。
  しかしこの国際共同租界には日本も居た。
  旗の様に、日本は「つまはじき」されていた・・、
  (アメリカが主導する、日本をなんだかんだと潰そう
 としていた)
  第二次世界大戦のころ、日本は「ABCD包囲網」でバッ
 シングを受けたが(A:アメリカ、B:イギリス、C:中国、
 D:オランダ)、
  すでに、この頃から日本包囲網は出来ていた。
  この中華民国へ、アメリカは、武器支援をしている、
 資金援助もしている。
  因みに、この共同租界は、1842年の南京条約にもとづ
 いて出来ていた。
  また、この地域周辺には、約2万7000人の日本人が在住
 していた。
  各国は、居留民の警護を目的として軍を駐留させてい
 て、
  日本も、1000人を駐留させていた(そして、その後、
 険悪状況によって人数は増えて行く)
  日本と各国との関係は「すこぶる良好にして・・」と、
 表現される様に平穏であった・・が・・、
  そして、「各国人も、支那側の横暴なることを熟知し、
 日本に対し同情セリ」という情報もある様に・・、
  そして、この様な状況の中で、1932年になって、上海
 市郊外に、十九路軍(国民党軍)が表れた(アメリカの
 支援を受けていた軍だ)。
  十九路軍は、3個師団で3万の兵力だった。
  共同租界の市参事会は、5年前の上海クーデターの国民
 党軍の強暴なる状況を思い起こさせた。
  前年の満州事変(1931年9月)以後、反日感情があった。
  租界には、抗日ポスターが貼られていた。
  その抗日行動が、だんだんと大きくなって行った。
  排日貨運動も起きた。
  これ等は、すべて国民党のプロパガンダだった。
  この国民党の背後にはアメリカが居た。
  軍事顧問のアメリカ司令官も居た。
  日本への抗日攻撃に対し、日本政府は、国民政府に抗
 議をしたが事態は改善されなかった。
  日本政府は、居留民に引き上げを勧告し、女性や子供
 たちが一時帰国し、帰国人数も増加した。
  マスメディアが使われ、加わって、日本への攻撃に激
 しさが加わった。
  中国の人々も、プロパガンダに煽(あお)られた。
  托鉢していた日本人僧侶や、日本人が襲撃されたりし
 た事件も起き出した。
  日本人が経営するタオル工場が、50人〜60人の中国人
 に襲撃されたりし出した。
  つい最近も、煽られた中国の人が、中国にある日本の
 百貨店などを襲ったが・・その様なことが起きた。
  この様に、民間人レベルの事件が拡大して行った。
  そして、軍事衝突へと行き着いて行く、発展する。
  1932年1月28日、小競り合い的な、日本と中国との間
 で、軍事摩擦・軍事衝突が起きる。
  そして、この共同租界周辺で、この事変は起きた。
  日本は受け身だった、自衛だった。
  白川義則大将は租界にいた日本の上海派遣軍で守った。
  中国の国民党軍(十九路軍)が攻撃して来たが、白川
 大将は、撃退した。
  しかし、深追いはしなかった。
  そして、停戦した。
  この行動は、国際連盟でも評価された(国際的評価の
 下の行動)。
  これは、平和主義の昭和天皇陛下が、白川大将へ事件
 の不拡大を言われており、
  また、「国際連盟との衝突にならない様に」と伝えら
 れていた戒めを守ったからだった・・(これが後に明ら
 かとなった)。
  しかし、この後、国民政府軍(蒋介石軍)は、1936年
 12月の西安事件の後に、第二次国共合作によって、一丸
 となって、大々的に、日本攻撃を準備し、
  この時、日本は、条約を順守して、わずかな兵士しか
 上海にいなかった。
  しかし、中国軍は、このわずかな2500人の日本の上海
 駐留軍へ、十数万の大軍で、先制攻撃を仕掛けて来た。
  この為、日本も対応し、自衛し、上海の戦闘は泥沼と
 なった。
  最終的に、4万もの日本兵が死傷するという大きな死傷
 者を出した。
  これによって、戦争は拡大方向へ進むようになった。
  南京へも拡大して行く、南京進撃の因となった。
  陰で、アメリカが中国へ兵器の供給をしていた。
  条約で決められたとおりにしているこの日本の租界へ、
 アメリカに支援されて、恵まれた準備を整えた大軍・12
 万の兵で、圧倒的兵力差で攻めて来た。
  上海の日本は、自衛の戦いを、苦しい戦いを強いられ
 た。
  なお、この中国の大軍の背後には、さらに、アメリ
 に支援された30万の兵の包囲網が形成されていた。
  中国の泥沼的に続く戦いは、この無限に続くアメリ
 の武器支援により形成された。
  ルーズベルトが、「第二次世界大戦を作った」と言っ
 たが、
  アメリカは、それより以前から、この上海の戦いの様
 に、武器支援をしたりして、戦争へ行く方向へ行動を行
 なっていた。
  アメリカは、日本人のアメリカへの移民も不法だとい
 う法律を作って、日本を、そして、日本人を差別してい
 た。
  この様な人種差別の行為も、戦争の大きな原因だった。
  当然、日本は、その逆で、その様な法律は作っていな
 い。
  その様な卑劣な事はしていない。
  本当に卑劣な事を、色々やるアメリカだった。
  アメリカが、背後で武器支援して始められた、この支
 那事変が、日中全面戦争となり、
  そして、第二次世界大戦へとつながって行った。
  当時、日本には、戦争を拡大しようという考えは、毛
 頭なかった。
  西欧諸国も租界に兵を置いたが、この上海の日本の租
 界が、アメリカの支援を受けた中国軍が攻めて来た事か
 ら始まった。
  国際連盟でも評価された様に、日本は戦争が始まった
 としても「戦争不拡大」が方針だった。
  ニューヨークタイムズの記者が・・、
  「(日本の悪口のルーズベルトの)隔離声明以来、
  ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ
 追いやるために、あらゆる手段を駆使している」・・の、
 報道の通りの行動だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive