(増補版)333E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月〜1876年1月)

題:(増補版)333E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月〜1876年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1876年(明治5年〜明治6年)出来事:
・経済および景気が順調。
   製糸業が盛況、生糸の大当たりと洋銀の相場下落に
 よる。
・東京・本所柳原(現=江東区江東橋1丁目)で「新燧社」
 が設立され、マッチの製造が始まる。
・ベルツ来日、ドイツ人の医師ベルツ博士がて来日して東
 京医学学校(東大医学部の前身)の教授として着任した。
  生理学、病理学、産婦人科学、精神医学などを講義し、
 みずらかも診療にあたった。
  また、温泉の効用を調べ転地療養に活用し、近代温泉
 医学の祖といわれた。  秘湯・名湯「草津温泉
・東京〜塩釜間の水準測量を開始。1877年に終了した。
・ 「大阪日報」(のちの大阪毎日新聞) が創刊された。
・「郵便報知」に記載された記事によると・・
  条例のため、新聞記事も○○論など、伏字がふえた。
 それに便乗し「○○亭」という寄席ができた。
1876年、流行:
・貸し自転車が登場した。
  東京下谷広小路の水茶屋で、1巡=1銭5厘で三輪自転車
 を貸し出した。
・ラムネ(飲み物)が流行した。
  ラムネは、炭酸水にレモン香料と砂糖で風味をつけた
 日本独特の清涼飲料で、ガラス玉の入った特殊な瓶に詰
 め、ガラス玉がガス圧により持ち上げられて密栓をする
 ようになっている。
・東京で藤八拳、玉突が流行。
  藤八拳は、二人が相対し、両手を開いて耳のあたりに
 上げるのを狐、ひざの上に置くのを庄屋、左手を前に突
 き出すのを鉄砲(または狩人)と定め、狐は庄屋に、庄
 屋は鉄砲に、鉄砲は狐にそれぞれ勝つ。狐拳 (きつねけ
 ん) 。
  玉突は、ビリヤードのこと。
1876年、データ:
・この年の兵役免役者率=全国平均82%、兵役を免除される
 率が82%だった。
  政府にとって、常備兵の人員を確保する事は重要な事
 なのであるが、
  兵役不適格者・徴集不能者は、徴兵検査をやってみな
 ければ分からない事で、検査会場で初めて明らかになる
 事だった。
  1875年は、77.3%の徴収不能者(検査落ち)となった。
  因みに、常備兵の人員徴集率は、1875年(88.0%)、
 1876年(48.2%)、1877年(59.1%)、1878年(77.7%)、
 1879年(79.7%)で、
  徴集候補者中の約5割弱(1876年)から8割弱(1879年)
 の人員確保となった。
  上記の様に、計画人員を満たす事は出来ていなかった。
1876年、本:
・ 「写真新文」 創刊。
  東京で初の写真雑誌の創刊だった。
・ 修史局の編纂による 「明治史要」
  修史局(しゅうじきょく)は、官立の国史編纂所。
  明治史要(めいじしよう)は、1867年10月14日の大政
 奉還から、1882年12月30日までの史実の綱文(こうぶん)
 と典拠史料名を、編年体で日を追って記した史書
・ライマン 「日本蝦夷地質要略之図」
  B.S.ライマンは、日本地質学の偉大な恩人と言わ
 れている。
  門弟たちと言語に絶する艱難辛苦を重ね、3年に及ぶ北
 海度の全島調査をした。
  この調査は、地質調査だったが、地形測量の地図作成
 という難行(道なき道を進む苛烈なもの)だった。
  石狩炭田の発見もしている。
  そして、この年、1876年5月10日に、この本を刊行し、
 日本地質学史に金字塔を打ち立てたと讃えられている。
  この5月10日は「地質の日」に制定し、ライマンの業績
 を偲ぶ日となっている。
1876年、衣:
・士族の廃刀令を発布した。
1876年、食:
内務省が、甜菜種子を輸入し、東北・北陸諸県に配った。
  甜菜は「てんさい」のこと。
  別名:サトウダイコンで、根から作った砂糖を甜菜糖
 てんさいとう)という。
  今でも北海道では製糖原料用の甜菜を作っているが、
 その種子の7割がヨーロッパ産で、国内産は3割となって
 いる。
・工部省が、品川にガラス製造所を設け、食器その他の製
 造をはじめた。
  この工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)は、今、
 明治村にある。
  1873年明治6年)、イギリス人技術者を雇い入れて、
 品川興業社硝子製造所が開設された。
  1876年(明治9年)、工部省は、この製造所を買い上げ
 て官営とし、その後この建物等が建てられた。
  壁体は、レンガ造イギリス積、屋根は瓦を葺き。
  開口部はアーチ式のものが主体。
  工部省は、日本に近代工業を根付かせ、その発展を図
 るために1870年(明治3年)設置され、目的は極めて広く、
 鉄道、土木、燈台、造船、電信、製鉄などの実技面から、
 工学技術教育に至るまで網羅された。
  早急な育成のため、設備、技術者など必要なもの一切
 を導入する方針がとられ、各地に多業種の工場が建設さ
 れ、多数のお雇い外人が来日し、指導に当たった。
  この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン
 スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設
 備をもって、食器など日用ガラス器の製作をした。
・札幌ビール製造所創立
  政府の開拓使が、北海道札幌市に札幌麦酒醸造所を設
 立し、「冷製札幌ビール」を製造した。
  この商品に由来して、現:サッポロビールがある。
・熱海で湯治客に牛乳を売り出した。
1876年、住:
東京府にガス局が新設された。
  日本で、ガス事業の立ち上げに関わってくる人物は、
 高島嘉右衛門、フランス人のアンリ・プレグラン、渋沢
 栄一の3人。
  イギリスから遅れること60年、1872年(明治5年)に、
 横浜に工場を作り、ガス灯を立て、照明として始まった。
  高島嘉右衛門は学校を作ったり、鉄道建設に力を尽く
 したりしている実業家。
  また、新橋や横浜の駅舎を作ったり、横浜の町に洋風
 建物を作ったりした。
  この時に協力したのが清水建設の創業者の清水喜助。
  アンリ・プレグランは日本に来る前、上海でガス事業
 を興す事もしていた。
  その実績から日本に招かれ、横浜と東京にガス事業を
 興した。
  ガス灯を灯す時も、日本に資材がないので、プレグラ
 ンはイギリスやフランスへ資材の買い付けに行ったりし
 て苦労した。
  この時に、高島が東京府に話を持ち掛け、共にやる事
 になり、東京の資材も一緒に買って来た。
  この時に東京府に江戸時代から江戸の町民が積み立て
 ていた七分積金という資金が残っており、その資金が使
 われたという。
  この様ないきさつから、東京に1874年(明治7年)に、
 ガス事業を興して始まった。
  1876年(明治9年)に七分積金を出した東京会議所がな
 くなり、この事業が東京府に引き渡され、東京府ガス局
 という公営事業となった。
  ガス事業は、その後発展し、民間会社でもやって行け
 る状況となり、1885年(明治18年)に、民間会社に払い
 下げられた。
・和製の手押し水汲ポンプ販売の新聞広告が出る。
1876年、その他:
野口英世が生まれた。
・日曜日を休み、土曜日午後を休暇とする
・大阪で火葬場を新設開場する
・京都〜大阪間鉄道開通
  明治期のアジアは、日本やタイ王国などの一部を除い
 て欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。
  明治政府は、植民地化の回避のために富国強兵策を推
 し進め、近代国家の建設を掲げた。
  西洋を範とした近代化を目に見える形とするため、
  大隈重信伊藤博文らは、鉄道の建設を主眼とした。
  ( 明治政府による、鉄道建設の決定は、1870年(明
 治3年)だった)
  これまで日本は、海上交通(海運)が栄えていたもの
 の、貨物・人員の輸送量が増えて、陸上交通においても
 効率化を図る必要があった。
  初め、東京〜京都・大阪・神戸の間の、日本を支える
 三府を結ぶ路線と、
  日本海側の貿易都市である敦賀へ、米原から分岐して
 至る路線を敷設しようとした。
  しかし、この頃、版籍奉還から廃藩置県に至る政治に
 伴い、政府は、約2400万両(現在の価値でおよそ5600億
 円)もの各藩負債を肩代わりしていた。
  そのため、建設予算が下りなかった。
  民間からの資本を入れてでも、建設をおこなうべきと
 いう声もあった。
  そこで、モデル的に鉄道を見せる必要もあって、首都
 である東京と横浜間の29kmの敷設が、1869年(明治2年
 に決定し、
  品川駅〜横浜駅(現・桜木町駅)までの仮開業を1872
 年6月12日にした。
  そして、追って10月15日に新橋駅(後の汐留駅)〜横
 浜駅(現・桜木町駅)が正式開業した。
  開業式は、9月12日に、新橋と横浜の両駅で行われた。
  すでに、仮営業中のこの鉄道を利用されていた明治天
 皇陛下は、式にあたって「我国ノ富盛ヲ期シ百官万民ノ
 為メニ之ヲ祝ス」と、富国への鉄道への大きな期待を述
 べられた。
  当時、人々は、この鉄道を「陸蒸気(おかじょうき)」
 と呼んだ。
  当時の運賃は、かなり高かったが、新橋〜横浜間で、
 下等が当時の汽船、中等が人力車運賃を少し上回る金額
 だった。
  しかし、新橋〜横浜間の片道所要時間が53分と、
 それまでの、徒歩で約10時間、人力車で6〜7時間、汽船
 で3-4時間に比べ、画期的な速さであった。
  このことから乗車率は非常に高かった。
  また、この時間の短縮だけでなく、翌年から貨物の輸
 送もされて物流を大きく改善し、良さが見直された。
  しかし、財政資金難から次の鉄道建設ができなかった。
  東京〜京都間を結ぶ幹線鉄道の建設は、統一国家の象
 徴として、早い時期から、当初から構想されていた。
  その経路検討に於いて、水陸交通に恵まれた東海道
 りも、開発の遅れている中仙道をという意見があった。
  また、外敵に対する防衛上の理由から、軍の意向もあ
 って、中山道ルートが先行した。
  しかし、中部山岳地帯への敷設は、予想以上のが難工
 事が予測できたため、東海道ルートに変更された。
  1874年(明治7年)5月11日、日本で2番目の鉄道として、
 大阪駅神戸駅間が開業した。
  開業当初の途中駅は、西ノ宮駅と三ノ宮駅だけだった。
  当時の三ノ宮駅は、居留地が近かったため設けられた。
  この翌月に、住吉と神埼(現尼崎)が開業した。
  神戸〜旧三ノ宮間は、当初から複線(日本初の複線)
 であり、他の区間は単線で、すべて地上に敷設された。
  天井川の石屋川、住吉川、芦屋川は、川底トンネルを
 掘った。
  石屋川の川底トンネルは、日本で最初の鉄道トンネル
 である。
  この時の神戸駅舎は、英国風レンガ造り平屋建て。
  この建設には、イギリスで募集した外債の一部をあて
 たが足りず、政府資金で補った。
  そして、大阪から京都への線路延伸に3年を要した。
  資金部族の中、1874年(明治7年)6月1日に、神崎駅
 (現在の尼崎駅)、住吉駅が開業した。
東京府立病院内に、産婆教授所設立事業が開始された。
・国道・県道・里道の制が施行された。
  太政官布告第60号により、道路は、国道・県道・里道
 の3種類に分けられ、
  江戸時代以来の主要な街道は、国道に指定されて番号
 が付けられた。
・秀英舎・三井物産三井銀行などが設立された。
・[独]オットーが内燃機関を発明した。
1876年1月9日(12月13日)日本陸戦隊が、朝鮮軍民と釜山
 で衝突した。
1876年1月12日、医術開業試験法(いじゅつかいぎょうしけ
 んほう)が制定された。
  医師の開業試験で、1916年まで行われた。
  医術開業試験は、西洋医学の知識を問う問題が出題さ
 れた。
  それまでは、医師といえば、医師は漢方医が主流であ
 った。
  しかし、この医術開業試験の導入により、新規に開業
 する医師は、西洋医学の知識が必須となった。
  これは、近代日本での医師の西洋化において画期的な
 ことだった。
1876年1月13日、この日に記録されたマイナス9.2度が東京
 の最低気温。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive