(増補版)386E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月〜1883年9月)

題:(増補版)386E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月〜1883年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1883年8月1日、小野梓(おのあずさ、政治学者、、政治思
 想家、政治家)が、出版社の東洋館(後の冨山房)を開
 業した。
  小野梓は、土佐に生まれ、戊辰戦争会津攻めに参加
 し、
  1869年(17歳)に、昌平黌に学ぶ。
  1870年(18歳)に、上海旅行でアジアの近代化の必要
 を痛感し、
  1871年(19歳)に、アメリカへ私費留学し、法律学
 学ぶ、
  1873年(21歳)に、大蔵省の官費留学生としてイギリ
 スへ行く(法律学)。
  1875年(23歳)に、同志とともに文化啓蒙(けいもう)
 団体「共存同衆」を結成し、
  「共存雑誌」を創刊。
  同誌で活発な言論活動を展開した。
  1876年(24歳)以降、司法省少丞に任ぜられ、以後、
 司法省、太政官少書記官を歴任、
  1880年(28歳)に、会計検査院の検査官に就任して、
 大隈重信の知遇を得て、関係を深めた。
  1881年10月(29歳)の時の、14年の政変で、大隈が失
 脚すると、自らも依願免官する。
  1882年4月(30歳)、自由主義を唱え、東京大学の学生
 を中心とする鷗渡会を率いて、立憲改進党に加わり、
  大隈重信を助けて立憲改進党を結成し、指導者として
 活躍した。
  また、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に参
 画した。
  1883年(31歳)に、私擬憲法「国憲私案」を起草し、
 イギリス流の立憲君主制実現をめざす。
  主な著書に、自己の国会論や主権論を論じた『国憲汎
 論』や『東洋論策』などがある。
  肺結核により早世(1852年〜1886年、35歳)
1883年8月3日、伊藤博文らが帰国した。
  博文らは、1883年3月に、ドイツを離れ、イギリスのロ
 ンドンへ行き、ここに、約2月滞在し、
  ロシア皇帝の即位に、日本を代表して出席したのち、
  1883年7月に、ヨーロッパを出発し、この時、日本に到
 着した。
1883年8月4日、陸軍治罪法(りくぐんちざいほう)
  軍法会議について定めた陸軍治罪法が公布された。
  主な内容は、陸軍軍人に対する刑事裁判手続特別法
1883年8月6日、関東と関西を結ぶ鉄道計画について、陸軍
 の意見が採り入れられ、中山道ルートの高崎〜大垣間の
 建設が決定した。
  「中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅〜大
 垣駅間の建設が始まったが、
  山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。
  中山道幹線(なかせんどうかんせん)、または、中山
 道線(なかせんどうせん)は、日本の官設鉄道(国鉄
 が、東京と京都を結ぶ目的で、中山道に沿って計画した
 鉄道路線で、
  実際に着工されたものの、
  工期と工費が、当初の見込みを大幅に上回ることが建
 設中に判明したため、
  東京と京都を結ぶ幹線鉄道としては、東海道本線の建
 設を行う方針に変更された。
  1869年(明治2年)11月に、明治政府が、鉄道建設を廟
 議決定した際には、
  基本方針として、東京と京都(東西両京)を結ぶ路線
 を幹線とし、
  東京と横浜を結ぶ路線など、
  それ以外の路線を支線として建設する方針であった。
  この時点では、幹線の経路として、東海道中山道
 どちらを採用するかは未決定であった。
  政府の命を受けて、1870年(明治3年)6月に、東海道
 の鉄道建設事情を調査した際の復命書「東海道筋鉄道巡
 覧書」では、
  東海道は、陸運・海運ともに交通の便利な場所が多く、
 貨物輸送については、高価な物品、あるいは、至急の輸
 送を要するもの以外は、鉄道以外の運賃の安い交通手段
 が選ばれるであろうとし、
  東海道よりは、交通手段の不便な中山道に鉄道を建設
 する方を優先するべきだとした。
  この時の調査経路は、東京から愛知県までは東海道
 沿い、
  そこから岐阜県へ入って、中山道に沿って京都へ向か
 うもので、
  その基本的な経路は、後に東海道本線に生かされるこ
 とになった。
  実際に、東西両京の幹線をどちらに建設するかは決定
 されないまま、東京〜横浜間の鉄道が建設されることに
 なった。
  続いて、京都〜大阪〜神戸間にも鉄道が敷設され、東
 西両側での鉄道の運行が始まった。
  こうしていよいよ、東西を連絡する鉄道に取り組むこ
 とになった。
  資金難で、鉄道建設に困難をきたしていた政府も、日
 本鉄道の着工に影響を受けて、急速に幹線の整備に向け
 て動き出すことになり、
  1883年(明治16年)8月6日に、ついに、中山道幹線の
 着工を内定し、
  工部省に対して測量を進め、建設の方法を定めて提出
 するように命じた。
  資金的にも、この年・1883年12月21日に、太政官布告
 第47号により「中山道鉄道公債証書条例」が布告され、
  2000万円の公債を募集して、工事費に充てることにな
 った。
1883年8月16日、和歌山県名草郡で、日照りによる分水騒動
 が起こる。
  干ばつのため、和歌山県の各地で水騒動続発した。
1883年8月18日、文部省が、教員講習所や督業訓導の設置を
 府県に指示した(文部省達第16号)
  小学校教員の資質向上のため、教員講習所の設置、督
 業訓導の配置方を府県に指示した。
1883年8月26日、大坂紡績が、生産向上に励み、日本を支え
 る産業へ。
  日本最初の大規模紡績会社で、東洋紡績の前身。
  綿製品輸入防遏(ぼうあつ、防ぎとめること)を企図
 する渋沢栄一の主唱により、
  華族を中心ににして、1882年5月に創立された。
  資本金25万円。
  翌年・1883年に、イギリスから帰った山辺丈夫を工務
 支配人として、蒸気機関による1万500錘、労働者300人と
 いう当時最大の規模で開業した。
  電灯を設備して、昼夜二交替制で生産し、好成績をお
 さめた。
  1880年代後半の紡績ブームを呼び起こした。
  1880年代半ばまでに、20ヵ所近い小紡績が開業したが、
 大部分は経営不振であった。
  大坂紡績は、その様な状況の中に、風穴を開け、日本
 を支えるの産業へと育って行った。
  機械製綿糸生産は急増し、1890年には、早くも輸入綿
 糸を上回った。
1883年8月、林遠里(はやしえんり、篤農家:農業に熱心で
 研究的な人)が、私塾の勧農社を創設し、優秀な卒業生
 を実業教師として各地に派遣し、農業技術の普及に努め
 た
  筑前福岡藩・武士の家に生まれたが、廃藩置県の後
 に帰農し、農業経営に努める。
  1889年に、農商務省から、ハンブルク商業博覧会出品
 説明委員補助としてドイツに派遣され、欧米の農業を視
 察した。
  欠陥のある点もあったが、先進的農法を全国に伝えた
 功績は大きい。
1883年9月5日、御雇外国人・ノット(イギリス人物理学者)
 が、来日した。
  東京大学(のち帝国大学)理学部の教師となり、引き続
 き、帝大理科大学で教えた。
  その間、電気学、音響学、磁気力学などを講義し、日
 本全土の磁気測量にも従事した。
  在日中、J.ミルンらと地震、火山の調査・研究を行な
 う。1891年に帰国。
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  (今日の言葉)
:
1945年8月8日、ソ連が、日本との条約を破棄して、満州
 域になだれ込んだ。
  (ソ連の「日ソ中立条約」の一方的破棄)。
  この様な行為をしろと言っていたのがアメリカだった。
  しかし、これ以降、アメリカの予想していた思惑と違
 った事態が、早くも起きた。
  アメリカの思惑は、ソ連が、満州に侵入し、日本を攻
 撃し、大東亜戦争第二次世界大戦)が早く終わり、ア
 メリカ軍の損害が少なくなることを期待したのだったが、
  しかし、ソ連が、満州全域に侵入すると、この地域・
 中国北部一帯の地域は、逆に、混乱が増すばかりだった。
  日に日に、収拾が付かなくなる状態だった。
  アメリカの思惑だった「蒋介石の中国軍による中国域
 の掌握」は、まったく進まなかった。
  アメリカは、戦争まで作って世界を繰って、アメリ
 の思惑どおりにしようとしたが、その様には、事は進ま
 なかった。
  (卑劣にも、アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦
 争を作った」と、自分の思惑を吐露し、しゃべっている)。
  ことの成り行きの実態は、ソ連満州の占領域が拡大
 する一方だった。
  しかも、中国北部では、毛沢東の軍が活動を強めて行
 った。
  (日本は、この毛沢東共産党軍と戦ったのではない。
 蒋介石の中国軍と戦ったのだった。
  つまり、毛沢東共産党軍ではなく、日本と戦った蒋
 介石の中国が戦争戦勝者なのである)。
  ソ連の勢力が拡大する一方の時、アメリカの中国の司
 令官であるアルバート・ウェデマイヤーは、重慶に居て、
 蒋介石を支援し、事の成り行きに苦慮していた。
  ソ連スターリンは、「中国の共産党毛沢東)を支
 援しない」と、アメリカと約束していたが、
  完全に、この約束をどこ吹く風と、「約束違反」をし
 ていた。
  毛沢東と結託していた。
  ルーズベルト亡きあと、アメリカの大統領になったト
 ルーマンも、この事に気づいた。
  アメリカも、軍を、中国へ侵入させた。
  「日本軍の武装解除するためだ」と、世界に嘘をつい
 た。
  実際は、その武装解除するはずの日本軍と共に武力
 介入した。
  (日本軍は、アメリカに、中国軍と戦わせられた)
  名目は、蒋介石の中国軍の支援だった。
  アメリカは「ヤルタ密約」までして、ソ連と取決めを
 して、
   戦後の構想を巡らしていた「このアメリカの構想(
 妄想)」は、
  戦後、この様に、早くも夢となってしまったのだった。
  大きな犠牲を払って、余りにも大きな犠牲を払わされ
 て、
  アメリカの愚劣な妄想が演じられた結果が、これだっ
 た。
  その犠牲が払われた直後に、早くも、そのアメリカの
 愚劣な構想は、雲散霧消した、
  雲となり、霧となり、あとかたもなく消え去り、
  ただただアメリカが作り出した愚かな結果だけが残っ
 た。
  アメリカのルーズベルトの『ヤルタ密約の安定圏構想』
 なんて、愚劣な構想だった。
  そんな甘いものではなかった。
  戦争を作って、多大な犠牲者を作っただけだった。
.
  (追記)
  ならば・・、日本は、戦勝国です。
  アメリカと戦った戦勝国です。
  イタリアは、敗戦国です。
  しかし、敗戦直前にムッソリーニを捕らえ、そして、
 処刑したから、
  だから、枢軸国として戦争して来たことを、アメリ
 をはじめ連合国は、「イタリアの戦争責任の追及をする
 こと」をあまりしない。
  甘く・・見過ごしてきた。
  日本だって、中国で、アメリカと共に戦ったのだ。
  連合国のアメリカと戦ったのだ。
  日本は、ナチスの様な極悪の非道な事はしていないし、
 逆に、日本は、ちゃんと!アメリカ人捕虜を国際条約に
 のっとり収監していた。
  だから、逆に、アメリカは、非道な原爆を広島に投下
 し、そのアメリカ人捕虜とともに、無実の日本人や朝鮮
 人とともに、皆殺しにした。
  これこそ『国際条約違反行為』なのだ。
  アメリカの小学生たちに教え、教育せよ!
.
  (追記の追記)
  騙(だま)されたアメリカが悪いのか?
  騙したソ連が悪いのか?
  アメリカのルーズベルトは、ソ連スターリンに、騙
 された。
  スターリンは、ヤルタで、「モンゴル共和国を俺にく
 れ」、「ソ連の勢力圏にしてくれ」と、
  何度も、ルーズベルトに言い、
  その代わり、「毛沢東でなく、蒋介石の中国を支持す
 る」、「その中国の独立を認める」と、
  馬鹿らしいことに、何度も何度も、アメリカのルーズ
 ベルトに誓った。
  そして、さらに、ルーズベルトの死から3か月後の1945
 年7月中旬の時にも、
  アメリカのルーズベルトより上手(うわて)の騙しの
 テクニシャンである「スペシャル騙しテクニシャン・ス
 ターリン」は、
  蒋介石の部下の中国国民政府の外交部長(外相)・宗
 子文に、「蒋介石を支持します」と約束していた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive