(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月〜1871年2月)

題:(増補版)298E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年12月〜1871年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1871年1月3日(明治3年11月13日)徴兵規則領布
  領布:りょうふ、有料で提供するの意、
  因みに、配布は無料で配るという意味で使われること
 が多いのに対してこの言葉がある。
  また、頒布(はんぷ)は、品物や資料などを広く配る
 という意。
  府藩県一万石毎に士族平民を問わず5名宛徴募の制。
  山縣有朋の構想のもと、徴兵規則(ちょうへいきそく)
 が制定され、
  各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石に
 つき5人を徴兵することを定めた。
  続いて、1871年4月2日(明治4年2月13日)には、
 西郷の構想の一部をも取り込む形で、三藩(薩摩・長州・
 土佐)の軍が親兵として編成され、
  この兵力を背景に、1871年8月29日(明治4年7月14日)
 に、廃藩置県(各藩の武装解除)が断行された。
1871年1月15日(明治3年11月25日)松代藩一揆:松代騒
 動 (午札騒動)
  松代藩(まつしろはん、信濃国、現在の長野県)で、
 7万人の農民蜂起(〜明治3年11月27日)、
  各地で「世直し」の騒乱が続いた。
  碑文から分かることは・・、
  幕末から明治維新にかけて、松代藩は、約100万両とい
 う多額の藩債(借金)があった。
  そして、財政難に陥っており、また、当時、「チャラ金」
 という贋金が大量に流通するようになっていて、財政難
 をさらに窮地に追い込んでいた、そして、流通の混乱を
 招いていた。
  困った松代藩は、1869年(明治2年)、贋金引き換え(と
 いう口実)で、許可をもらい、信濃全域で使用できる済急
 手形(藩札または午札、藩計政局発行の藩札)という商法
 社手形を大量に印刷し、流通させた。
  ところが、新政府は、贋金回収のために藩札の発行を
 許可したのに、まったく成果があがらない状況であるた
 め、政府発行の新紙幣に変わったのを機会として藩札の
 発行を禁止した。
  そして、藩札と新紙幣を交換する方針をとった。
  しかし、その交換率が、新紙幣の2割5分から3割5分と
 いう藩札にとって大変不利な交換率であったため、藩札
 を大量に抱えていた松代藩は、大きな打撃を受けること
 となった。
  打撃を受けたのは藩だけでなく、年貢の相場の高騰に
 よる農民への打撃も大きかった。
  流通貨幣改定による相場の高騰に農民が騒ぎ出し、暴
 動化して行った。
  その中心となったのが小平甚右衛門の動きで、藩の改
 定布告後、悪租法反対の一揆を起こした。
  これが、午札騒動の引き金となった。
  上山田村で起こった一揆は、周辺の村人を巻き込みな
 がら、約3万人もの村人が、松代城下を襲撃し、甚大な被
 害が出た。
  松代大英寺で、藩知事・真田幸民(ゆきもと)と、一
 揆代表者が会見し、結局、藩が折れ、相場を元どおりに
 し、紙幣藩札交換に割引をしないことで折り合いがつき、
 一揆は終息した。
  小平甚右衛門が一揆の首謀者ということで、一人だけ
 斬首の刑に処された。
  その碑である「小平甚右衛門之碑」がある。
1871年1月17日(明治3年11月27日)大蔵省造幣寮
  大坂本局が、銀貨製造を開始し、
  4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
 業式を挙行した。
  そして、最新式の鋳造機を、香港から購入し、贋造が
 難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。
  本位貨幣として、金貨5種(20円、10円、5円、2円、1
 円)、
  銀貨1種(1円)、
  補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、
 銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。
  また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例、およ
 び、造幣規則布告がされて、近代的貨幣制度が開始され
 た。
1871年1月24日(12月4日)群馬県富岡製糸場の設立が布
 告された。
  2014年6月21日に、世界遺産として正式登録されたが、
 本建物群の初期のものは、国宝、および、重要文化財
 なっている。
  開国した日本は、有力な輸出品を求めていた。
  そこへ、生糸という輸出品としてのチャンスが恵まれ
 た。
  明治政府の賢人たちは、「外国資本を入れず」という
 方針をとった。
  そして、国策として進められた。
  最先端機器が導入され、さらに、日本人の知恵が加え
 られた。
  そして、お雇い外国人(外国のノウハウ)も導入した。
  そして、政府は、ここの成果を、日本中に奨励した。
  お雇い外国人と共に、日本という大きな視点で、各地
 を視察し、各地の産業の導入・育成・改善を図って行っ
 た。
  そして、働く方々・女性(工女)には、重要な立場で
 働くのだという意義と名誉を説き、与えた。
1871年1月28日、横浜毎日新聞が創刊された(1870年説あり))。
  横浜で、子安峻ら、日本最初の日刊新聞の『横浜毎日
 新聞』を創刊された。
  子安峻(こやすたかし)、新聞・出版経営者。大村益
 次郎に蘭学を,佐久間象山に砲術を学んだ。
  明治維新後は新政府に仕え,神奈川裁判所に通訳翻訳
 方として勤めるかたわら、
  明治3 (1870) 年の『横浜毎日新聞』の創刊にも一役買
 った。
  明治7年11月日就社より『読売新聞』を創刊。
  明治22年『読売新聞』から離れ,
  明治26年に『いさみ新聞』を創刊した。
1871年1月29日(12月9日)近代日本の官制:三職制
  新たに総裁、議定、参与を置いた。
1871年2月1日(12月12日)最初の日刊紙「横浜毎日新聞
 発刊。
  本木昌造が、横浜に移り、1枚摺りの日本最初の日刊
 新聞「横浜毎日新聞」を創刊した(旧暦12月8日説あり)
  神奈川県の今井関盛良が、長崎の本木昌造に依頼して
 活字と印刷機とを取り寄せ、
  昌造が派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員の陽
 其二を編集長に、横浜本町6丁目に本社を構えた。
  1873年に、東京に長崎の出張活版製造所(のち東京築
 地活版製作所)を開設した。
1871年2月8日(明治3年12月19日)中野騒動→長野県成立
  中野騒動は、旧信濃国北部の幕府領・旗本領を管轄す
 る中野県で発生した世直し一揆
  主張は、年貢削減、特権的豪商の告発、新税廃止など。
  そして、中野騒動は、この前年から発生していた。
  1870年10月11日(明治3年9月17日)に、伊那県から分
 立して中野県が成立した。
  高石和道大参事は、民部省の意向を受け、増税策を次
 々と打ち出したが、
  兼ねてより贋金の流入による経済の混乱や、米価の上
 昇によって困窮する農民の不満は増大していた。
  近隣の松代藩や、須坂藩で発生した一揆勢の要求項目
 の一部が藩当局に聞き入れられると、中野県にも波及す
 ることとなった。
  そして、この日・1871年2月8日(明治3年12月19日)、
 高井郡高井野村(現上高井郡高山村)から発生した一揆
 勢・約2000人が、
  羽場村(現同郡小布施町)に集結して、中野町(現中
 野市)に向かい、
  特権的豪農や、商家を打ち壊して、また、中野県庁を
 焼き討ちし、県吏を殺害した。
  高石大参事は逃亡し、松代藩に匿(かくま)われ謹慎
 となった。
  これを受けて、松代藩ほか各藩兵が、鎮圧に向かい、
 旧暦12月21日になって一揆勢は退散した。
  1871年2月24日(明治4年1月6日)から、明治政府軍(
 佐賀藩兵を主力とする)によって、一揆の参加者の探索
 が進められ、約600名が逮捕された。
  1871年4月16日(明治4年2月27日)には、斬首刑6名、
 絞首刑22名、徒刑十年124名、その他・処罰数百名などが
 刑に処された。
  後任の立木兼善権知事は、中野での県庁再建を断念し、
 長野への移庁を政府に上申し、太政官布告によって、
  1871年9月9日(明治4年7月25日)に、長野県が成立し
 た。
1871年2月9日(明治3年12月20日)新律綱領(しんりつこう
 りょう)を領布した。
  新律綱領頒布(氷川清話)
  新律綱領は、仮刑律にかわり、明治政府により1871年
 2月9日(明治3年12月20日)に制定頒布された刑法典。
  全6巻8図 14律 192ヵ条項から成るが、逐条主義はとっ
 ていない。
1871年2月11日(12月22日)陸海軍の洋式服制定められた。
1871年2月13日(12月24日)士族といえども特定以外の帯刀
 を禁ず。
1871年2月17日(明治3年12月28日)、米沢藩雲井龍雄
 くもいたつお)が処刑された。
  米沢藩雲井龍雄処刑(氷川清話)
  龍雄は正義の人と言える人で、幕末の争乱期に正しい
 行動をした。
  頭の切れる人で、王政復古の大号令が発せられると貢
 士(こうし、藩から推挙された議政官)に挙げられたり
 した。
  これは、龍雄が、藩を越えてその才幹(さいかん、物
 事を成し遂げる知恵や能力)が広く知られていたことを
 示している。
  明治になって、興譲館(こうじょうかん、米沢藩の藩
 校)の助教になったりした。
  また、新政府は、集議院議員に任じた。
  しかし、新政府は、薩長出身の政府要人と、またその
 繋がりがある議員が多くある中で、
  龍雄は、龍雄の経験した幕末期でのことで「薩摩批判」
 をした。
  そして、その一たび議論に及べば、徹底的に議論を闘
 わせた振る舞いが災いして、周囲の忌避に遭った。
  そして、わずかひと月足らずで、議員を追われた。
  この様な龍雄の元に、没落したり、削封された主家か
 ら見離された敗残の人々が、龍雄の許に集まるようにな
 り、
  龍雄は、明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円
 真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、
  特に、「脱藩者や、旧幕臣に、帰順の道を与えよ」と
 4回にもわたり嘆願書を政府に提出した。
  これは、参議・佐々木高行広沢真臣らの許可を得た
 ものであった・・が、
  しかし、龍雄の元に集まった人たちは、実は、新政府
 に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。
  これが、政府転覆の陰謀とみなされた。
  翌年4月、謹慎を命ぜられる。
  米沢藩に幽閉ののち、東京に送られ、深く取り調べも
 行われず、罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮
 刑律」が適用され、
  同年12月26日(1871年2月15日)に判決が下り、龍雄は、
 判決2日後に、小伝馬町の獄にて斬首された。
1871年2月22日(明治4年1月4日)御親兵(ごしんぺい)
  明治の時代になる前から・・、
  明治の政府を動かす人たちは・・、
  欧米列強の各国が・・、
  中国やインドの方々をはじめ、アジアの各国の方々から・・、
  好き勝手に、そして、悪辣に、自国へ利益をもたらす
 行為・行動をする姿を憤りながらも見て来ていた。
  その様な卑劣な行為を、日本が受けないため、そして、
 日本の国民を守るためには、日本の国を富ませ、
  そして、その強い経済力・産業力で、強い兵力を持た
 なければならないと、つくづく思い、肝に銘じていた(
 富国強兵策)
  1870年2月13日(明治3年12月24日)、山縣有朋は、当
 時、鹿児島藩薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛
 に対して、天皇陛下中央政府を守るために、薩摩藩
 長州藩土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提
 案した。
  これは、当時、中央政府に属していなかった西郷を、
 薩摩藩の親兵入京を口実に、政府内に入れることで、政
 府の強化を図る側面もあった。
  木戸孝允は、この御親兵の力を背景に、廃藩置県や、
 それを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政
 策を一気に実施しようとした。
  だが、大久保利通は、木戸や大隈重信が進める急進的
 な政策には批判的で、
  自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と、西郷の入
 閣は、この流れを変える足がかりになると考えた。
  これを受けて、西郷は、この日・1871年2月22日(明治
 4年1月4日)に、鹿児島を出発し、東京に向かった。
  しかし、その際に出された「西郷吉之助意見書」には、
 冗官(じょうかん、むだな官職)の整理や、府藩県三治
 制の維持、鉄道建設などへの批判など、
  木戸・大隈路線への批判、大久保路線の支持とも受け
 取れる言辞もあった。
  だが、途中で、大久保・木戸と合流して、両者の意見
 を聞き、
  更に、東京では、大隈らが、西郷が中央集権化に反対
 して薩摩藩の独立や、クーデターを起こすのを危惧して
 いる(『世外侯事歴 維新財政談』)ことを知った西郷は、
 政争の深刻化を危惧し、
  政治的な問題については、新政府官僚への薩摩藩など
 の倒幕功労者の起用の提言に留め、
  自らは、専ら、新制軍隊の編成に力を注ぐこととして
 一旦鹿児島に戻って準備を開始した。
  2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵
 として発足した。
  そして、政府は、諸藩兵を廃し、天皇陛下の統率する
 国軍の創設のため、(2/22)親兵を設置し、
  引き続き鎮台を設置、団隊を統括した。
  鎮台は、東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)に
 置かれ、元藩兵を召集、常備兵とした。
  御親兵は、1872年に、近衛兵と改称され、
  明治24年(1891年)には、陸軍の近衛師団となった。
  また、別史料では・・
  幕府により行われた西洋式軍隊創設は、明治新政府
 引き継がれ、
  新政府は、富国強兵を国策に掲げ、
  明治4年1871年)2月には、長州藩出身の大村益次郎
 の指揮で、天皇陛下の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩
 の兵からなるフランス式兵制の御親兵10,000人を創設し、
 常備軍として、廃藩置県を行うための軍事的実力を確保
 した。
  明治4年1871年)4月の設立当初は、鎮台制と呼ばれ
 る組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱西南戦争
 ど内乱鎮圧を主たる任務とした。
  そして、徴兵制度の施行に伴い、国民軍としての体裁
 を整えていった。
  その後、陸軍は、鎮台を廃止し、師団制に移行した。
  設立の基礎が、明治維新時の薩長軍であったために、
 永らく藩閥支配が払拭できず、
  陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固
 めた。
  明治5年(1872年)に、陸軍省兵部省から分離し、
  明治11年1878年)には、参謀本部が独立する。
  新政府は、廃藩置県廃刀令で、武士階級を事実上消
 滅させた後、明治6年1873年)に徴兵令を施行する。
  陸軍卿には、奇兵隊出身の山縣有朋海軍卿には勝海
 舟が就任した。
  山県は、普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した
 事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行
 った。
  海軍は、当初からイギリス式の軍制に倣って編成され
 た。
1871年、海外(オーストラリア)へ向かった日本人
  オーストラリアの西海岸のブルームの地は、良質な真
 珠貝が採れる。
  その事が、この頃に分かる。
  日本人の真珠貝採取潜水夫が、1871年のこの頃に、こ
 こに来た。
  初めは、日本に灯台建設に招聘されていたイギリス人
 技師に付いて来た日本人漁民が、試みに潜水をしてみた。
  そうしたら、その働きぶりが素晴らしく、注目され、
 人手不足のオーストラリアの採取業者が、日本へ契約移
 民として誘致をしたく、そして、誘致した。
  やがて、伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光が、移民奨励
 策を打ち出し、横浜にオーストラリア採貝移民取扱いの
 出先会社まで設立された。
  ボタン材料や装飾品としての真珠貝の景気がピークを
 迎えるのは1925年で、
  ブルームの町の人口は5000人、その8割が日本人で、
 4000人に達した。
  町には、採貝業者のみならず、様々な職種の人々が流
 れ込み、
  また、日本からの日本人を迎える下宿屋ができ、
  食堂ができ、雑貨屋、うどん屋風呂屋
  そして、映画館、赤ちょうちん
  はては、売春宿に至るまで軒を並べ、
  乗り合いの蒸気機関車が走り、オーストラリア南部の
 都市繁華街以上の人混みとなり、まさにリトル・ジャパ
 ンが出現した。
  この頃の採貝船の数は、400隻を越えた。
  輸出先は、イギリスだった。
  しかし、プラスチック装飾品の発達普及で、高価な真
 珠貝の需要は、次第に減り、
  そして、第二次世界大戦による日本人の収監(卑劣な
 事に、アメリカと同じように日本人の自由を拘束した)、
  そして、終戦後の日本への送還で、主役を失った真珠
 貝採取産業は、ほとんど消滅した。
  また、この非人道的なオーストラリア政府による日本
 人収監行為は、今だに、オーストラリア政府の謝罪はな
 い。
  今、ブルームの町には、古びた雑貨屋はあるが、廃屋
 のある町となって往時の反映の面影はない。
  しかし、この日本人と交流したアボリジニーの方々に、
 有形無形の日本の文化が残って居た。
  日本人から教えてもらったのであろう『日本食』、『
 冷えたなます』『みそ漬け』『うどん』。
  そして、歌、『炭坑節』。
  そして、『祭り』、お盆〈盆踊り〉が『真珠祭り・フ
 ェスティバル』となっている、
  オーストラリアのウェスタン・オーストラリア州の最
 大の祭りとして人気の祭りとなっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive