(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月〜1871年5月)

題:(増補版)299E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年2月〜1871年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1871年2月27日(明治4年1月9日)1月、賊広沢真臣を殺す(
 氷川清話)
  横井小楠大村益次郎に続いて広沢真臣(ひろさわさ
 ねおみ)も暗殺される。39歳、
  広沢真臣は、長州藩士で、藩の財政改革(安政の改革)
 に参画し、また、倒幕運動(尊王攘夷派)に尽力した。
  幕長戦争(長州征討)の際には、長州藩を代表して広島
 に出張し、厳島で幕府方の勝海舟と休戦協定を結んだ。
  明治になり、維新政府に参画し、海陸軍務掛、内国事
 務係、同判事などを歴任し、政府最高位の参議となった。
  何故、暗殺されたのか?
  理由不明の中に、必死の捜査が行われた。しかし、迷
 宮入りとなった。
  (因みに、この2年前に襲撃されて死亡した同じく長州
 藩出身の大村益次郎の場合は、薩摩や長州の不平分子の
 関与だという)。
  1879年(明治12年)に、広沢家は、維新の功を賞せら
 れ、華族に列せられた。
  広沢家の様に、士族から華族になる例は稀だった。
1871年3月6日(1月16日)西郷隆盛木戸孝允大久保利通
 らが、治政改革のため土佐の山内容堂訪問した。
  何で、西郷らは、44歳の土佐藩主の容堂でなければな
 らなかったのか?
  徳川末期には、徳川慶喜を支えた容堂だった。
  辞官納地が徳川慶喜が押し付けられたとき、薩摩・土
 佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、
 何故?徳川宗家に対してだけなのか?と擁護した。
  これは、正論であった。
  種々、容堂は、徳川側に立った。
  その時、最後は、容堂は酒に酔っていると無視された。
  鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、土佐藩兵に対し、『
 この戦いに加わるな』と厳命した容堂だった。
  (土佐藩兵は、藩主の命を無視して官軍に参加した)
  明治となれば、反主流派である。
  維新になって、内国事務総裁という役職に就任したが、
 容堂は、すぐに、2年足らずの1869年に辞職した。
  そして、隠居になって、酒楼通いの、この様な容堂に、
 西郷らのそうそうたる人たちが訪問した(容堂は、この
 翌年・1872年、脳溢血に倒れ、46歳で没する・・が?)。
  因みに、西郷隆盛は、この4年前の1867年3月22日に、
 薩摩藩主の命によって、容堂に面会している。
  そして、その時、時局の重大性を話し合い、容堂の上
 洛をしきりに頼んでいる(意気投合している)。
  この時、西郷らの頭にあったのは「政府改革案」だっ
 た。
  この後、世は、廃藩置県へと流れて行く。
  すべての大名(旧藩主)の失職である、そして、東京
 へ移住せよと命じられるのである。
  代わって中央政府が権利を持つという改革(クーデタ
 −)である。
  各藩主の反抗に対する相談だったのか?
  いきなりの廃藩置県の断行もできないという事で・・、
1871年3月14日(1月24日)郵便に関する布告がなされた。
  東京・京都・大阪間に郵便開設のため同規則を領布
 (りょうふ、有料で提供する)し、4月20日(3月1日)
 より実施するとした。
  そして、この日の3月14日(1月24日)に、「書状ヲ出
 ス人ノ心得」、及び、「郵便賃銭切手高並代銭表」、
 「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公
 布された。
1871年3月22日(2月2日)西郷隆盛山内容堂板垣退助
 山県有朋ら上京す。
  行動したのは、万一の反乱に対処するための軍組織を
 しっかり作ることだった。
  東京に着いた一行は、1871年3月28日(2月8日)に会談
 し、御親兵の創設を決めた。
  そして、明治維新政府の大変革が本格化して行く。
1871年3月24日(2月4日)二卿事件(にきょうじけん、政府
 転覆未遂事件)の首謀者が東京に入る。
  案の定と言っていいのか?・・この様な事件が起きる。
  攘夷派の公卿、愛宕通旭と、外山光輔が、明治政府の
 転覆を謀ったクーデター未遂事件。
  尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩藩と長州
 藩。
  その両藩を中心とした明治政府が、成立したことによ
 って、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は、
 明治政府が、戊辰戦争が終わると、直ちに、「開国和親」
 を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を
 抱いた。
  これは、倒幕に参加していた薩摩藩長州藩土佐藩
 肥前藩薩長土肥の志士や、公家の一部にも及んでいた。
  彼らは、明治政府を倒して、新しい政府を作り直して
 攘夷を行って、外国と戦うべきであると唱えていた。
  その先駆けとなったのが、1870年1月2日(明治2年12月
 1日)に、長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵
 隊などによる「脱隊騒動」であった。
  この反乱は、木戸孝允らによって間もなく鎮圧された
  ものの、
  大楽は、九州に逃亡し、攘夷派が藩政を掌握していた
 久留米藩や、熊本藩河上彦斎らの支援を受けて再起を
 伺っていた。
  一方、大楽の救援に駆けつけていた土佐藩の堀内誠之
 進は、京都に逃れて、同地の攘夷派志士の糾合を画策し
 ていた。
  そして・・、
  かつて、廷臣二十二卿列参事件(1866年10月8日に発生
 した公家による事件・騒動)にも加わったことのある愛
 宕通旭(おたぎみちてる、幕末の公卿→官僚)は、
  この頃、明治政府の参与を免ぜられて京都に引き籠っ
 ていた。
  愛宕は、新政府の実権を握った薩・長の下級武士らに
 よって、「天皇の藩屏(防備の囲い)」であった公卿が、
 政治の中枢から切り離されていくことに、苛立ちを感じ
 ていた。
  家臣の比喜多源二・安木劉太郎らは、これに同情し、
 新政府を倒して、明治天皇陛下を京都へ連れ帰り、攘夷
 を断行するべきであると進言した。
  弾正台(だんじょうだい、警察機関)で、横井小楠
 殺事件の捜査を担当しながら、
  逆に、横井を糾弾しようとしたことで知られる古賀十
 郎と、その友人である秋田藩の中村恕助は、
 比喜多によって、仲間に招き入れられると、天皇陛下
 主だった公卿が東京にいる以上、まず、東京で事を起こ
 さなければ意味がないと説いた。
  これに同意した愛宕は、1871年3月18日(明治4年1月28
 日)に、比喜多・安木らを連れて京都を発ち、
  この日・1871年3月24日(2月4日)に、東京に入った。
  愛宕主従は、古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩
 や、土佐の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志
 に呼びかけて日光を占領し、東京に火を放って天皇陛下
 を京都に連れ出す作戦を練った。
  この様に、新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、
 洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁してい
 て、
  成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。
  そして、静岡藩を初めとする旧組織の親藩・譜代の諸
 藩の動静には過敏にならざるを得なかった。
  小規模な蜂起反乱が勃発した。
  そして、事態は、新政府は、横井小楠大村益次郎
 早々に失い、
  そしてまた、雲井龍雄処刑の責任者・広沢真臣が、1871
 年(明治4年)に暗殺されるなど、不安定な中に、政府は
 あった。
1871年3月28日(2月8日)浅草の大火に・・消防ポンプ
  東京(浅草)の火事に、初めて消防ポンプが使用され
 た。
  『続武江年表』には・・、
  明治四年二月八日戌下刻(午後9時頃)浅草本願寺後
 田島町火事、田原町迄焼る。消防器械ポンプ始て用い、
 便利を知る。
1871年4月2日(2月13日)帝都に、親兵(しんぺい)設置。
  明治政府の最初の直属軍隊。
  「御親兵」と呼ばれた。
  明治新政府は、1868年3月13日(明治1年2月)に、はじ
 めて政府直属軍としての親兵を設置した。
  この設置は、必ずしも安定してなかった国内事情に由
 った。
  富国強兵策の対外的な面だけではなかった。
  内国的な面もあった。
  1868年閏4月に、各藩の献兵による京都警衛隊の制が
 定められたが、この制は翌年の1869年2月に廃止され、
  十津川郷士などの約400人の親兵を有したにすぎなか
 った。
  東京遷都後の皇居警衛には、長州藩兵があたっていた
 が、
  1870年12月に、山県有朋は、鹿児島にいた西郷隆盛
 薩・長・土3藩の献兵による親兵創設を説き、
  翌年・1871年2月に、薩摩藩歩兵4大隊・砲隊4隊、長州
 藩歩兵3大隊、土佐藩歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲隊2隊の献
 兵による親兵設置が令せられた。
1871年4月4日(2月15日)大蔵省造幣寮の創業
  今まで、藩札のほかに、民間紙幣の私札が、近世初期
 から各地において発行されていた。
  1871年4月4日(2月15日)に、政府は、造幣寮(現在の
 大蔵省造幣局)の開業に踏み切り、
  そして、新貨の鋳造にのり出した。
  1871年6月27日(5月10日)には、新貨条例を制定し、
 公布し、
  「円」という貨幣単位を採用した。
  (金貨を本位貨幣、銀貨を補助貨幣とする新貨制度を
 実施し、
  これまでの両にかわって、円が通貨となり円、銭、厘
 の十進一位の単位が決定した)
  そして、これによって、江戸時代の両・匁・文の体制か
 ら切り替えた。
  新しい金貨・銀貨・銅貨は、円形の貨幣となり、江戸時
 代の楕円形の大判・小判、なまこ形の丁銀、不定形の小粒
 であった豆板銀などが、円形に統一された形状をもつこ
 とになった
1871年4月11日(2月22日)兵の配属・配置
  鹿児島藩:歩兵四大隊、砲兵四隊、
  山口藩:歩兵三大隊、
  高知藩:歩兵二大隊、騎兵二小隊、砲兵二隊を、
 御親兵として招徴し、兵部省の隷下に置いた。
1871年4月20日(3月1日)郵便制度がスタート
  官営郵便事業の開始(前島密
  日本で、最初の郵便切手の発行(この時に発売された
 切手は、銭48文、銭100文、銭200文、銭500文、半銭、壱
 銭、弐銭、五銭など)
  郵便ポストもこの時に始まった。
  この日の4月20日(3月1日)に、東京〜京都〜大阪間
 に、現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、
  東京・京都・大阪に、最初の郵便役所が創設された。
  布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じ
 た。
1871年4月24日(3月5日)江藤新平が、対外策を岩倉具視
 呈す。
  江藤新平は、1870年2月(明治3年1月)には、佐賀に帰
 郷して準家老に就任し、藩政改革を行うが、
  後に、中央に呼び戻され、1871年1月(明治3年11月)
 に太政官中弁となる。
  1871年2月(明治3年12月)、虎ノ門佐賀藩の卒族に
 襲撃されて負傷する。
  1871年4月(明治4年2月)には、制度取調専務として国
 家機構の整備に従事し、
  そして、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を
 提出する。
  近代的な集権国家と、四民平等を説き、国法会議や民
 法会議を主催して、箕作麟祥らとともに民法典編纂に取
 り組んだ。
  江藤は、「フランス民法と書いてあるのを日本民法
 書き直せばよい」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」とい
 うほどフランスの法制度を高く評価ていた。
1871年4月30日(3月11日)神武天皇祭(じんむてんのうさ
 い)の始まり(後に、4月3日に改める)
  初代の天皇陛下である神武天皇崩御日にあたる4月3
 日に毎年行なわれ、神武天皇天皇霊を祭る。
  崩御日は、『日本書紀』によれば紀元前586年(神武
 天皇76年)3月11日であるが、これを太陽暦に換算し、
 4月3日とした。
  宮中の皇霊殿と、神武天皇陵に治定される奈良県橿原
 市の畝傍山東北陵で儀式が行われる。
  神武天皇祭は、幕末の孝明天皇の時代、1860年(万延
 元年)3月11日に、神武天皇の御陵祭として始まり、
  1871年明治4年)9月に定められた「四時祭典定則」
 で規則化された。
1871年5月22日(4月4日)壬申(じんしん)戸籍(旧暦4月
 5日説あり)
  戸籍法が制定された(太政官布告によって制定)。
  国民を華族・士族・卒・神官・僧侶・平民に区分した。
  (1945年に、身分制度が廃止された)
  戸主中心の戸籍で、やがて、旧民法が出来ると「家」
 制度の根幹を成した。
  1872年(明治5年)2月1日に、施行した。
  この戸籍法は、不備が多く、多くの機能(印鑑証明、
 地権等)を持たせたことにより、複雑となった。
  また、必要限度の要件さえ整っていれば、記載様式も
 特に設けられなかったことから、
  地方によって書式の詳細に格差が生まれた。
  また、以後、6年に一度改編するという規定も、大区
 小区制施行と併せて行われた1回程度で、多くの問題点が
 あった。
1871年5月22日(4月4日)旧藩札発行の禁令。
1871年5月25日(4月7日)専売特許条例が制定された。
  我が国で初めての特許法と言える『専売略規則』が公
 布された。
  しかし、技術の未発達により、特許を得られる発明品
 が少なかったことや、審査員の不足などがあり、
  翌年・1872年に、施行が中止された。
  しかし、人力車やガラ紡のように、特許制度が整備さ
 れていないことで様々な問題が生じると、再び、制度の
 必要性が確認され、復活が求められるようになった。
  これを受けて、新たに、1884年明治17年)に、「商
 標条例」が、1885年(明治18年)に、「専売特許条例」
 (明治21年に特許条例に改正)が、
  1888年明治21年)に「意匠条例」が公布され、本格
 的な特許制度が開始された。
1871年5月27日(明治4年4月9日)長崎製鉄所を長崎造船所
 と改称した。
  1872年(明治5年)に、長崎製作所と改称する。
1871年5月30日(4月12日)皇城(皇居)に電信開設す。
1871年5月、売春業者の新規開業禁止。
1871年5月、兵部省に軍楽隊が設置された。
  軍楽隊の初めの、薩摩藩の軍楽伝習隊に、ダブルリー
 ド系の楽器が入っていないのは、楽器が高価であったり、
 習得するのが困難な楽器だったらしいが・・、
  この当時、アメリカやフランス、ロシアの軍楽隊には、
 サキソフォーンが既に採用されていた。
  しかし、イギリスやドイツ、イタリアにおいては、ま
 だ採用されていなかった。
  この事と、規模こそ違うものの、編成上のバランスな
 どを考えると、
  やはり、フェントンは、薩摩藩軍楽伝習隊に、イギリ
 スの軍楽隊のスタイルをそのまま移そうとした。
  1870年6月に、薩摩藩軍楽伝習隊に、楽器が到着した。
  しかし、彼等に、帰藩命令が出されたのが、1870年9月
 だった。
  つまり、彼等は、楽器を手にしてわずか三ヶ月で、伝
 習が打ち切られた。
  この様な、短期間では、楽器から一通り音を出せるよ
 うになるだけでも難しいが、
  彼等は、「イギリス国家」などの楽曲を数曲、演奏で
 きるほどに上達していた。
  また、フェントン作曲の初代『君が代』、および、現
 行『君が代(国歌)』を初演した。
  さらに、彼等は、郷里の薩摩に戻って、そこの土地で、
 指導者としても活動した。
  1871年明治4年)に、150人を超える人数の軍楽隊と
 なって再上京し、明治政府兵部省の軍楽隊の基礎となっ
 た。
 なお、フェントンは、1876年(明治9年)に、雅楽局式
 部寮に赴任した。
  そして、初期の軍楽隊は・・、
  1871年5月に、明治政府は、兵部省に、前記の薩摩藩
 楽隊を基礎とした軍楽隊を設置した。
  1871年7月に、兵部省は、陸軍部と海軍部に分かれ、
  1871年9月には、軍楽隊も、陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊に
 分かれた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive