(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月〜1870年12月)

題:(増補版)297E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年11月〜1870年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1870年11月15日(明治3年10月22日)東京濱殿の海軍所を、
 築地に移した(明治2年10月説あり)
  海軍所のあった東京濱殿は、浴恩園(よくおんえん)
 のことで、
  浴恩園をまた調べると、現在の東京築地の東京卸売市
 場の場所で、松平定信下屋敷だったと分かった。
  白川の城主でもあった定信は、隠居後、ここに住所を
 移し、文人として随筆・詩歌・絵画などの創作活動の日
 々だったという。
  無類の庭好きで、この約2万坪の風光明媚な地を散歩
 し、自ら庭の手入れも行ったという。
  定信は、この浴恩園を、1792年に造園したという。
  そして、明治となり、この地の一帯は海軍の中心地と
 なった。
  故に、海軍発祥の地が、築地5丁目となっている。
  そして、海軍所は、1866年(慶応2年)に、幕府軍艦操
 練所であったここを、海軍所と改めた。
  1869年11月(明治2年10月)、兵部省は、この一帯を
 海軍用地に買収し、艦船建造とともに、士官養成の地と
 した。
1870年11月17日(10月24日)最初の鉄道トンネル工事。
  日本で最初の「鉄道トンネル」としての碑がある。
  名称は、旧石屋川隧道。
  場所は、大阪〜神戸間。
  その碑には、着工が明治3年10月22日と書かれている。
  完成は、明治4年7月(1871年9月)とある。
  碑文には・・、
  旧石屋川隧道は,、日本で最初の鉄道トンネルとして
  建設されました。
  その当時から石屋川が、天井川を形成 いていたため、
 困難な川底トンネルを掘らなければ なりませんでしたが,、
 イギリス人技術者の設計・監督により、明治4年7月に完成
 しました。
 この隧道は、石屋川の下を横断し、延長が200フィート
 (64m)ありました。
 工事方法は、川の流れを木製の仮水路に変え、川底を掘
 り下げ、レンガを積み重ねてトンネルを作りながら 川を
 元に戻す方法が採られました・・とある。
  因みに、隧道幅は、14フィート(4.1メートル)
1870年11月20日(10月27日)初めて医学校(後の東京大学
 医学部)にて人体を解剖し実習を行う。
1870年12月10日(明治3年閏10月18日)岩崎弥太郎が、九十
 九商会を設立し、そして、土佐開成商社を創始した (日
 本郵船、三菱商事の前身)。
  九十九商会(つくもしょうかい)は、三菱(みつびし)
 創業期の名称で、
  1870年12月(明治3年閏10月)、上京した岩崎弥太郎(
 やたろう)は、土佐藩の財政難を救うため、私商社・土佐
 開成商社を創始した。
  この商社は、名前のみで、同年の1870年12月10日(閏
 10月18日)改めて九十九商会として、通商司から廻漕(か
 いそう)業の仮免許を受け、
  藩船の夕顔、鶴、紅葉賀の三隻を用い、
  東京―大阪、神戸―高知間の海運を開始した。
  翌年の1871年7月、廃藩置県高知県が誕生すると、弥
 太郎は、旧藩船の夕顔、鶴二隻を4万両で払下げを受け、
 私企業とした。
  経営の第一線にいた川田小一郎(かわたこいちろう)、
 石川七財(しちざい)、中川亀之助(かめのすけ)に共通し
 た「川」にちなんで、1872年1月、三川(みつかわ)商会に、
 翌年・1873年3月に、三菱商会と改称した。
1870年12月12日(閏10月20日)工部省(こうぶしょう)が、
 設立された(民部省より分離)
  明治維新政府が、工学の知識をひろめ、各種の工業を
 勧奨し、発展させることを目的に、1870年12月(明治3年)
 設置した官庁。
  富国殖産のために設置された省で、文明開化省とでも
 いうべき性格をもっていた。
  また、伊藤博文が、最も熱心で、みずから工部大輔、
 工部卿に就任した。
  1871年8月の官制で、省中に工学、勧工、鉱山、鉄道、
 土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の10寮と測量司が
 おかれた。
  その後、ひんぱんに寮の改廃や統合が行なわれたが、
  1877年1月に、それらが全廃され、新たに、書記、会計、
 倉庫、検査、鉱山、鉄道、灯台、電信、工作、営繕の10
 局が設置された。
1870年12月25日(11月4日)東京海軍所を海軍兵学寮、大坂
 兵学寮を陸軍兵学寮と改称した。
1870年12月25日、勝海舟、東京滞在を免ぜられる旨御達し
 あり。(氷川清話)
1870年12月28日、仮名垣魯文の著「萬國航海 西洋道中膝
 栗毛・初編」刊行開始。
  十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にならって、弥次郎
 兵衛、北八の3代目の孫ふたりを、イギリスのロンドン
 万国博覧会見物に出立させ、その道中の滑稽を記した。
  この頃、評判だった福澤諭吉の『西洋旅案内』にあて
 こんでいる。
  魯文は洋行体験がないが、英文の読書は出来たので、
 知識はそこから得ている。
1870年、農民一揆頻発(高松、浜田、仙台、松代、宇和島
 新潟、柏崎、名護屋、若松、伊那など各藩)(氷川清話)
  物価高騰から年貢減免を求めた。
1870年、半蔵門など5門の渡り櫓を撤去した。
  以降、明治6年ころまでに、城郭外周の諸門が撤去さ
 れた。
1870年、本陣、脇本陣を廃止した。
  参勤交代が行われなくなり本陣は有名無実となり、明
 治政府の通達によって廃止された。
1870年、この年、コウモリ傘が流行し、また、手編みのメ
 リヤス下着も流行った。
  因みに、1868年の『新聞街談』には、洋傘(コウモリ
 傘)をさしていた武士が、「異国傘をさした異人がとお
 る」とはやされて喧嘩になり、結果、首をはねられてさ
 らし首になった事件が掲載されている。
  また、福沢諭吉も『福翁自伝』に、「蝙蝠傘などさし
 て江戸の街を歩いたら、いくつ命があっても攘夷論者に
 狙われる」と、仲間内で話したエピソードを載せている。
 (「洋傘タイムズ」)
1870年、この年に、背広着用・靴の製造・こうもり傘の使
 用をし始める。 英、ジェントルマンスタイル。
1870年7月18日、不可謬説の宣言
  パストル・エテルヌス(教皇勅書):
  教皇が、全司教の第1位にあること、至上の権威を持つ
 とされ、最高権をもつという教皇の首位権・・、
  この時に、ローマ法王教皇)ピウス9世が、ローマ法
 王(教皇)不可謬説を宣言した(あるのなら、別にこん
 な時に、宣言なんかしなくてもいいのだが・・?)。
  これは、ローマ法王の言う事や決定は、誤りは決して
 ありませんという説(ガリレオの天動説など、あちこち
 で、誤りでしたと謝罪しているけれども・・?)。
  キリスト教は、この様な説によって、間違いを正しい
 として、有色人種の殺戮の歴史、戦争の歴史を作って来
 た。
  キリスト教のこの様な思考形態がいけないのだ、そし
 て、その思考形態をキリスト教徒たちへ与え、悪い連鎖
 が続く人類の歴史を作って来た。
  これは、他からの批判は、まったく受け付けないとい
 う、自己洗浄力のまったく欠落した説であり、
  ただただ、信じるだけ、そして、信じろという盲信の
 民を強要(きょうよう、無理に要求すること)した。
  私の言う事は正しいのだ・・だけの説、また、幅も、
 深みもまったくない説・・結局、酷(ひど)いことを起
 こす結果となっている。
1870年7月19日、普仏戦争:フランスがプロイセン王国に宣
 戦布告(プロイセン・フランス戦争
1870年9月1日、普仏戦争: セダンの戦い
1870年9月4日、ナポレオン3世を廃位して、フランス第三
 共和政が成立した。
1870年9月19日、普仏戦争: パリの包囲が始まる(〜1871年
1870年9月20日イタリア王国軍が、ローマに進軍し、教皇
 国家滅亡、教皇領が完全に消滅した。(イタリアの領土
 が現在とほぼ同様に)
1870年、イタリアの統一が完成した。
1870年10月6日、ローマがイタリア王国の首都となった。
1870年10月20日、第1バチカン公会議が無期限延期となる。
1870年11月16日、アマデオ1世がスペイン王となる。
1870年11月29日、英国で義務教育導入。
1870年12月26日、フレジュス鉄道トンネル開通(最初のア
 ルプス貫通トンネル)
1870年12月28日、元スペイン首相フアン・プリム暗殺(12
 月30日死亡)
1870年、レーニンが生まれた(1870年〜1924年
  イギリスのディズレーリの政策にはじまり、フランス・
 ドイツが追随して、第一次大戦が起こった。
  レーニンは、帝国主義を「資本主義の最高段階」とし
 た。
1870年代、アメリカ合衆国、先住民の方々の殺戮が盛ん。
  この年代の北米大陸は、先住民の方々が殺戮される年
 代となっている。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリ
 軍、
  殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・イ
 ンディアンの方々・・、
  インディアンの方々は忍従を重ねてきた・・、
  しかし、体制が整った、最新鋭武器を持ったアメリ
 軍は、インディアン方々を、特に、この年代から、殺戮
 行為を激しくして行った。
  本当に恩になっていた、恩あるアメリカ・インディア
 ンの方々を・・、
  ヴァージニアでは、1607年に、約260年前に、アメリ
 に渡って来たイギリスス人とアメリカ・インディアンの
 方々とが、初めて、ジェームスタウンで出会い、
  アメリカの新天地で、極寒の越冬を越えられず、餓死
 する人々が次々と出る中を、
  自民族の若い女性を食べるほどひどい中を・・、
  生きる術(すべ)を教えてもらった恩も、何も感じな
 い様に、アメリカ・インディアンの方々を、アメリカは、
 自分たちの土地が欲しいと、領土が欲しいと、欲しいと
 いう欲と、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅
 しても良い」という自分たちの行為は正義だとの教えに
 洗脳され・・
  その洗脳と、マインド・コントロールされたアメリ
 人は、恩あるインディアンの方々を、自分たちだけに都
 合のよい教義・考え方で、自分たちさえが、自分たちだ
 けが良ければ良いと、殺戮し始めた・・最新式兵器でも
 って・・、。
  1870年代は、殺戮の年代となっていた。
  進んだ兵器を持った、銃による殺戮を行なうアメリ
 軍、殺戮されるアメリカの大平原の諸部族・アメリカ・
 インディアンの方々・・、
  そしてまた、さらに卑劣な事をした・・
  この頃から、アメリカは卑劣な事に、アメリカ・イン
 ディアンの方々の食糧であるバッファローを殺した。
  バッファローは、絶滅するところまで激減した。
  アメリカ人は、何ら自分たちでバッファローを食べた
 りするわけではなく、
  殺したバッファローは、ただ、平原に野積みにした。
  高い高いバッファローの山が築かれた。
  バッファローの群れが平原から消滅する事は、インデ
 ィアンの方々の消滅が、全滅が・・あった。
  インディアンの方々を絶滅する目的だった。
  この様な事から、アメリカ・インディアンの方々は、
 白人・アメリカ人を憎むようになって行った、当然であ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive