(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月〜1870年11月)

題:(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月〜1870年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1870年8月(7月)大阪に、聴訴掛・断獄掛(のちの大阪府
 警察)を設置した。
  この当時、民事裁判を聴訟と言い、刑事裁判を断獄と
 言った。
  また、刑事裁判に関して、フランス法に範をとった治
 罪法が、1870年に公布された(1872施行)。
  治罪法は、刑事訴訟および裁判所の構成などについて
 定めた法律と説明されている。
1870年8月25日、日本政府が、デンマーク大北(グレート・
 ノーザン)電信会社の要求を受け入れた。
  「長崎〜ウラジオ間、および、長崎〜上海間に、海底
 線を敷設して、長崎に陸揚げさせ」、
  また、「長崎〜横浜間に、九州、四国の南端を経由す
 る海底線を敷設させる」
  外務卿・沢宣嘉らは、国内通信まで外国資本に握られ
 かねないと条件をつけた。
  「ただし長崎〜横浜間は、日本政府の電信線(陸線)
 が完成した場合は、海底線敷設を見合わせること」
  1870年10月に、デンマークの軍艦・キヨルト号が、長
 崎に入港した。
 大北電信会社のシュエンシン総代をはじめ技師たちが、
 乗船していた。
 大北電信会社は、前年に、ロシア領から大阪、横浜、長
 崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得してい
 た。
  1871年4月14日に、大北電信会社長崎支局を、下り松に
 あるベルビューホテルの一室に開設した。
1870年8月、長崎伝信局が開設された。
  長崎〜横浜の電信線(陸線)の架設工事に着手した。
  伝信局は、のちの電信局。
  電信線のない当時、電報は、早飛脚で、長崎〜横浜を
 7〜9日間を要した。
  1871年7月29日、長崎伝信局が、長崎〜東京(1368キロ
 メートル)に電信線架設した。
  沿道の各県に4キロメートルあたり、70本の電信柱の
 設置を割りあてた。
  1873年2月17日に、長崎〜東京の架設電信回線が完成し
 た。
  あわせて、九州初の長崎電信局が開設した。
1870年9月8日(8月13日)相模(現:神奈川県)城ヶ島の燈
 台が、竣工し点火された。
1870年9月9日(8月14日)工部大学の前身たる工学寮(こう
 がくりょう)、及び、測量司を設置した(1871年説あり)。
  明治新政府は、産業育成に力を入れて、工部省を置い
 た。
  日本の近代工学の理念の移植と定着を図った。
  これから建国していく日本が欲している高級技術者の
 養成機関でもあった。
  工学寮は、工部省に設けられた工業教育機関で、1873
 年、イギリス人教師9名の来日を待って開校した。
  大学と小学に分かれ、大学は土木・機械・電信・造家・
 採鉱・実用化学の6科があった。
  修業年限は、予備・専門・実地教育の各2年の6ヵ年。
  全寮制で、卒業後7年間の工部省奉職を義務とした。
  また、国を創るのに正確な地図が必須だった。
  この広範囲の地図測量を担当したのも、1870年に、民
 部省から独立した工部省が担当した。
  1871年になって、工部省に測量司が設けられた。
  そしてまず、東京府をはじめ、都市の測量から、お雇
 いイギリス人の6名の指導で実施した。
  俸給(月)は、師長400円、助師350円を金貨にて支払
 い、支払日には銀行が出張して来て支払った(そのくら
 い高給だった)。
  そして、生徒も募集され、学校は赤阪溜池に、5棟、
 新築された。
  お雇い外国人の下で仕事をスムースに進めるため、通
 訳と監督役の督役掛を付け、外人の命を伝達して人夫を
 使役し、昼食の世話もさせた。
  2年後には、さらに6名の指導外人を追加した。
  作業は、すべてが順調であったという訳ではなく、意
 見がぶつかった。
  京都の場合、お雇い外人の技量が不足していて、作業
 が遅々として進まなかったことに由った。
  数年後には、優秀な日本人教授が育ち、指導する様に
 なった。
  測量は、伊能忠敬の素晴らしい先人が居た日本で、こ
 の忠敬の曽孫の伊能源六とも関係を持った。
1870年9月9日(8月14日)天文暦道局を星学局と改称した。
  江戸時代に天文方(てんもんかた)という天体運行や
 暦の研究機関があったが、
  この年・1870年に、天文暦道の権限は、文部省の天文
 暦道局に移された。
  さらに、この年の1870年、天文暦道局は東京に移され、
 星学局と改称された。
  星学局には、旧天文方の渋川敬典(しぶかわよしのり、
 江戸幕府の最後の天文方)も任用された。
  敬典は、東京天文台職員にもなった(1838年〜1904年)
1870年9月15日(8月20日)大坂〜神戸間に電信が開通した。
1870年9月16日、グラバーが、日本の政情不安定で、武器弾
 薬の需要を見込み、大量買付け・・、しかし、
  1870年9月16日に、イギリスの本国政府が、グラバー商
 会に対し、破産を宣告をした。
  日本の騒乱を大きくなると想定したが、予想外の早期
 安定で、武器弾薬が売却できず、負債が数10万弗となっ
 た。
  日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになっ
 た。
  1871年8月に、グラバーは、商会を廃社にした。
  倒産後は、三菱が顧問として、面倒を見た。
  新しい事務所を、神戸につくった。
1870年9月17日(8月22日)東京府下に中学校を開設す。
  華族以下、一般の入学を許す。
  洋書教科書を使用。
1870年10月2日(9月8日)「君が代」が初めて演奏された。
  この日、明治天皇陛下が、東京の越中島で、薩摩・長
 州・土佐・肥前という明治政府を支える4藩の兵を閲兵さ
 れた。
  この日は、あいにく雨で、天皇陛下のお立ち台の近く
 までが水浸しという状態で、式は途中から中止となった
 が、
  この日、天皇陛下をお迎えするのに「君が代」が演奏
 された。
1870年10月13日(9月19日)苗字許可令(庶民苗字差許)
  平民の氏姓を許す(氷川清話)
  平民に苗字使用を許可(四民平等)
  平民苗字許可令が布告。
  一般の「平民」も苗字を持つことが認められる。
  国民(平民)は、政府を信用せず、付けることで余計
 課税されるのではないかと警戒し、あえて苗字を名乗ろ
 うとはせず・・
  そこで、5年後に・・、
  1875年2月13日、太政官布告、「平民苗字必称義務令」
 が布告される。
  国民は、みな公的に苗字を持つことが義務づけられた。
1870年10月19日(9月25日)囚人に、刺青することを廃止
1870年10月19日(9月25日)生糸、輸出品として技術改良
  ヨーロッパ式機械製糸法がはじまる。
  日本は、開国直後、生糸・蚕種・茶などの輸出が、急
 速に伸びた。
  この生糸の輸出拡大の背景に、ヨーロッパにおける生
 糸の生産地であるフランス・イタリアで、微粒子病とい
 う蚕の病気が大流行した。
  しかし、急激な需要の増大は、粗製濫造を招いた。
  そして、日本の生糸の国際的評価は低落した。
  日本製の生糸の価格も下落した。
  この様な頃、外国商人から器械製糸場建設の要望が、
 日本政府に出されていて、資金提供まで申し出されてい
 た。
  この様な背景から、国策として器械製糸工場を建設す
 べきという意見が持ち上がった(インドなどで、欧米な
 どの外国資本が横暴だったことを学んでいる)。
  そして、この年、1870年2月に、外国資本を入れずに、
 器械製糸の官営模範工場建設が決定した。
  富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が、群馬県富岡
 に日本初の本格的機械製糸の工場として、1871年3月に、
 着工し、1872年7月に、竣工し、開業した。
1870年10月26日(10月2日)兵制統一布告
  陸海軍の制式が決まる
  陸軍はフランス式、海軍をイギリス式と決定。
  兵制統一、海軍は英式、陸軍は仏式(氷川清話)
  1870年11月5日(10月12日)説もある。
1870年10月27日(10月3日)皇族旗、将旗などの旗章が制定
 される。
1870年10月(9月)官吏の出勤時刻を午前9時と決める
1870年11月11日(10月18日)外国人に東京府下の遊覧を許
 した。
1870年、この年に、牛乳屋が開業した。
  長崎大学医学部の創設者の松本良順(1832年〜1907年)
 は、種々の業績を遺しているが、
  番外編となるが、牛乳の滋養効能の良いことから、牛
 乳を飲むことを広く薦めた。
  その啓蒙の仕方も半端ではなかった。
  当時の人気のあった名優の紀伊国屋澤村田之助や、芸
 妓を呼び集めたりして、牛乳を飲ませて話題となった。
  そして、この年の1870年に、良順は、義理の叔父で、
 旧旗本の阪川當晴と、赤坂に「阪川牛乳店」を開いた。
  時代が変わって、元武士が、職が無くて溢れていたこ
 の時、その救済策として、良順は、牛乳屋になることの
 手本を見せた。
  因みに、良順は、海水浴も奨励した。
  大磯の照ヶ崎には、良順によって開かれた日本最初の
 海水浴場がある。記念碑が設置されている。
.
  そして、今日の言葉・・、
  「ピサの斜塔」は、地盤の弱い所に立っているので、
 少しづつ傾きが大きくなっていて、
  対策を講じているが、傾き増大が止まらないので、日
 本の技術に頼ろうと、日本に依頼して来た。
  まだまだ、使って行きたいという意思の表れで、
  日本の技術はその依頼に応えた。
  このピサの斜塔の完成は、1372年。
  644年も使っている。
  ピタゴラスが振り子の実験をしたのが有名。
  こんな昔から使っている。
  「もの」は、大切に使えば、使えるのです。
  それを、NHKは、間違った放送をし続けている。
  耐用年数の洗脳です、マインド・コントロールです。
  NHKの根幹に、渋谷の放送センターを建て替えたい
 があるだけです。
  自分に利があるからと、たった、この事だけで、「大
 嘘を放送し続けているのです」。
  放送センターの耐震が心配なら、耐震診断を受けて、
 耐震補強をしなさい。
  そして、放送センターは大切に使いなさい。
  そして、放送センターを建て替えるからと貯め込んだ
 国民・視聴者の受信料は「返還しなさい」。
  そしてまた、NHKは、自分に都合の良いニュースは
 放送しないこと。
  「○○ビルは、耐用年数が来たから、建て替える様に
 なりました」などと・・、
  都合の良いニュースだけを放送しないこと。
  例えば、渋谷の・・NHKの御近所の話を仕入れて来
 たのか?
  「渋谷の『子供の城』が耐用年数が来たので建て替え
 に決まりました」などと・・、
  自分に都合の良い話を、自前の放送媒体で、全国へ放
 送するのは止めなさい。
  都合の良い、こんな類いの放送ばかりしている。
 マインド・コントロールのニュースばかりしている。
  因みに、法隆寺は1000年以上です。
  しっかりメンテナンスをして、大切に社会資本は使い
 ましょうという放送をしなさい。
  そして、税金を大切に使いましょうと放送しなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive