(増補版)346E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年7月〜1877年9月)

題:(増補版)346E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年7月〜1877年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1877年7月14日、西南戦争の小林・高原方面において・・、
  6月19日、河野主一郎は、破竹隊を率いて別働第2旅団
 が守る飯野を
  6月21日まで、猛撃して奪取をはかったが、
  官軍は、善戦し、陥(おとしい)れることは出来なか
 った。
  逆に、横川から転進してきた第2旅団が、7月14日、小
 林から高原を攻撃し、高原を占領した。
1877年7月17日、高原奪還を目指す薩軍は・・、
  7月17日、堀与八郎を、全軍指揮長とし・・、
 雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9個中隊を正面・左右翼・
 霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、
  深夜に植松を発ち、
  正面・左右翼軍は、暁霧に乗じて、高原の官軍を奇襲
 し、
  あと一歩のところで奪還するところであったが、
  官軍の増援と、弾薬の不足により兵を引き揚げた。
1877年7月19日、力を振り絞る薩軍は・・、
  7月17日、辺見は、奇兵隊を率いてきた別府九郎と、本
 営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、
  荒磯野の官軍を攻撃するため、兵を本道・左右翼に分
 け、夜明けに高野を出発した。
  辺見らの諸隊は、官軍に対し善戦するが・・、
  河野が、本営に帰還するよう命じられたことによる右
 翼の指揮官の不在と、官軍の援軍の参戦、弾薬の不足に
 より、
  雷撃隊は、高野へ、
  奇兵隊は、庄内へと・・それぞれ退却した。
  7月19日には、都城の危急の知らせにより、高野の雷撃
 隊は庄内へ移動し、守りを固めた。
  また、辺見は、7月23日の岩川攻撃作戦のために、雷撃
 六番隊、干城七番を率いて・・岩川へ向かった。
1877年7月21日、都城への全面攻撃を始める前の、7月21日、
 山縣参軍・川村参軍・大山少将・三浦少将らは、軍議し
 て、各進撃部署を定めた。
1877年7月24日 官軍が、都城を陥る(西南戦争
  この日、薩軍・村田指揮部隊が・・都城で大敗した。
  都城方面の戦いにおいて・・、別働第3旅団は、7月24
 日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃し、
 財部を占領した。
  薩軍が、都城に退却したため、別働第3旅団は、さらに
 これを追撃し・・、都城に侵入した。
  7月24日、要所である庄内方面・財部方面が、官軍に占
 領された結果、
  都城の各方面で・・薩軍は総崩れとなった。
  この日、官軍は、都城を完全に占領した。
  これ以降、薩軍は、官軍へ投降する将兵が相次ぐもの
 の・・、
  活路を宮崎へ見出していこうとした。
  しかし、この守備に適した都城という拠点を・・官軍
 に奪取された時点で・・、
  戦局の逆転は・・ほぼ絶望的となってしまった。
1877年7月26日、『東洋奇事新報』(弘義社)、納本を怠り
 発禁となる。
1877年7月27日、別働第3旅団が、飫肥を攻めて陥落させた。
 この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。
1877年7月30日 西郷隆盛が、官軍に圧せられ、日向の高鍋
 に退いた(同日、杉之本に戦闘あり)
1877年7月31日、この日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団
 は、大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って、宮崎市
 街へ攻め込んで行った。
  薩軍は、増水のため・・官軍による渡河はないと油断
 していたので、抵抗できず・・、
  薩軍が、宮崎から撤退したため、官軍は、宮崎市を占
 領した。
1877年8月1日、この日、海路より新撰旅団が宮崎に到着し
 た。
  この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と
 共に高鍋に向かった。
  翌・8月2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。
1877年8月3日、警察各署が、巡査へ暑気払い薬代として10
 銭ずつ下付した(ボーナスの初め)
1877年8月6日、西南戦争の別働第2旅団は、8月4日、鬼神野
 本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備してい
 た宮崎新募隊の背後を攻撃した。
  薩軍は渡川、鬼神野から退いて、
  8月6日、山蔭の守備を固めた。
  西郷隆盛は、この日、各隊長宛に教書を出し奮起を促
 した。
1877年8月7日、この日、奇兵隊三・六・十四番隊は、別働
 第2旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退した。
  官軍は、そのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。
  薩軍はこれを抑えきれず。
1877年8月8日 高知県士族の林有造が、兵器購入の計画発覚
 して、東京で捕えられた。
1877年8月14日、 官軍は、8月12日、延岡攻撃のための攻撃
 機動を開始した。
  別働第2旅団が、8月14日に延岡に突入し、薩軍は、延
 岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第3・
 4旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。
  この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は、
 自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。
  この時の薩軍(約3,000〜3,500名)は、和田峠を中心
 に左翼から配置していた。
  対する官軍(約50,000名)は、山縣参軍の指揮のもと、
 延岡から北嚮に攻撃主力を部署し、
  西部の可愛岳(えのたけ)山麓には第1旅団と第3旅団
 を配置し、
  また、熊田の北部には、熊本鎮台・別働第1旅団2個中
 隊を配備し、薩軍を包囲して、殲滅しようとした。
1877年8月15日、この日の早朝、西郷は、桐野・村田新八
 池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。
  一方、山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。
  この様に、両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。
  当初、別働第2旅団は、堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦し
 んだ。
  これを好機と見た桐野が、決死精鋭の1隊を率いて馳せ
 下り攻撃したために、別働第2旅団は危機に陥った。
  しかし、第4旅団の左翼が進出して、別働第2旅団を
 救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。
  その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。
  やがて、官軍は、別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しよ
 うと熊本隊に迫った。
  熊本隊は、官軍を迎え撃ったが・・苦戦した。
  辺見と野村忍介が、援兵を送り熊本隊を支援したが、
 官軍は守備を突破した。
  激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍は、やがて長
 尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却
 した。
  この機に官軍は、総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙
 に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進
 めた。
1877年8月16日、この日の前日の8月15日、和田越の決戦に
 敗れた西郷軍は、長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎
 宅に本営を置いた。
  8月16日に、西郷は、解軍の令を出した。
  「我軍の窮迫、此に至る。
  今日の策は、唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。
  此際、諸隊にして、降らんとするものは降り、死せん
 とするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。
  唯其の欲する所に任ぜよ」。
  これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残
 った。
  一度は、決戦と決したが、再起を期すものもあり、選
 択に迫られた首脳は、8月17日午後4時、官軍の長井包囲
 網を脱するため、遂に、可愛岳突破を決意した。
  突破の隊編成として、
  前軍に・・河野主一郎・辺見、
  中軍に・・桐野・村田新八
  後軍に・・中島・貴島をおき、
  池上・別府晋介は、約60名を率いて西郷を護衛した(
 「鎮西戦闘鄙言」では、村田・池上が、中軍の指揮をと
 り、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。
  この時の突囲軍は、精鋭300〜500(『新編西南戦史』
 は約600名)であった。
  17日夜10時に、児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始
 め、
  翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。
  ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手
 薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃
 を開始した。
  不意を衝かれた官軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、
 退却を余儀なくされた。
  このため西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬
 3万発、砲一門を奪うことに成功した。
1877年8月17日、延岡にて薩摩軍が解散した。
  薩摩軍の将・佐々友房が、官軍に降る。
1877年8月18日 官軍が、日向を平定した。
  可愛岳を突破した西郷軍は、8月18日、鹿川分遺隊を粉
 砕し、三田井方面への進撃を決定した。
  その後、西郷軍は、8月19日には、祝子川の包囲第2線
 を破り、
  翌・8月20日に、鹿川村、中川村を落として、三田井へ
 と突き進んだ。
  8月21日、西郷軍は、三田井へ到着するが、
  ここで、桐野は、官軍による包囲が極めて厳重であり、
 地形が非常に険しいことから、薩軍の全軍が突破するこ
 とは困難であると考え、
  熊本城の奪取を提案するも、
  西郷はこれを却下し、
  8月22日深夜、西郷軍は、鹿児島へ向けて南進を開始し
 た。
  これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けて
 いた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、
  西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、
 かつ機動力に長ける西郷軍の前に・・失敗に終わった。
  これは、西郷軍の行動が、始めから一定の目的に従っ
 ていたわけではなく、
  その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向
 けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したの
 は、米良に到着した後のことであったということも一因
 だった。
  8月24日、西郷軍は、七山・松ヶ平を抜け、神門に出た
 が、
  ここで、別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何と
 かこれを免れ、
  8月26日には、村所、
  8月28日には、須木を通過し、小林に入った。
  同日・8月28日、薩軍は、小林平地からの加治木進出を
 図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上
 陸した第2旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。
  迂回を余儀なくされた西郷軍は、9月1日、官軍の守備
 隊を撃破して・・鹿児島に潜入した。
1877年8月18日、立志社の獄(高知ノ獄)発覚
  西南戦争の際に、西郷軍に呼応しようとして、立志社
 の社内が動揺をきたし,40余名が逮捕された(立志社の獄)。
  1877.8〜1877.11に片岡健吉が、西南戦争に際し、西郷
 軍に呼応した疑いで逮捕された(高知の獄)、
  立志社の獄(りっししゃのごく)は、1877年の西南戦
 争に乗じて、立志社の林有造や大江卓が、元老院議官・
 陸奥宗光らと共謀して、高知県にて挙兵を企てたとされ
 る事件で・・、
  1877年8月に、事件が発覚し、
  林をはじめとする首謀者や、片岡健吉ら高知在住の幹
 部が逮捕された。
  翌年・1878年8月に、大審院において有罪判決が下った。
  この事件については、立志社の指導者である板垣退助
 後藤象二郎らは無関係で、
  片岡も、林ら過激な首謀者の巻き添えとなったとする
 見解が、『自由党史』以来の通説であるが、
  これに対して同書は、板垣監修の書であり、仮に板垣
 自身が関与したとしても、その事実を記載をするとは考
 えにくいとする史料批判や、
  林や大江の回想録が、板垣と協議した事実を記してい
 ること、
  後藤象二郎陸奥宗光が、戦争中に板垣あるいは木戸
 孝允を司令官とした旧土佐藩士を中心とした西郷隆盛
 伐の義勇軍を持ちかけて、一旦は、明治政府の方針とさ
 れたこと(4月15日に中止)から、
  これを、挙兵の大義名分作りのための計画とみなして
 板垣や後藤も挙兵計画に関与していたとする反論もある。
  いずれにしても、自由民権派による「第2の西南戦争
 になる事を危惧した明治政府側は、
  板垣・後藤に対する責任追及を避けて、「一部過激派」
 の暴走と規定することで事態の収拾を図ったと言える。
  また、別史料には・・
  内務卿・大久保利通の行動も果断を極め、西郷を断固
 討つの決意を示し、
  即座に政府軍を派遣させる一方、板垣と立志社の動き
 を密偵・河野敏鎌によって探らせ、
  陸奥らの関与を察知した。
  2月15日、西郷軍は鹿児島を出発し、1週間後には熊本
 城を包囲したが、
  3月20日には、政府軍が田原坂で西郷軍を破り、形勢は
 逆転する。
  6月、林有造らは、2人の密使を鹿児島に送り込んで、
 桐野利秋と会見させたが、
  これが露見して、8月には叛乱の首謀者として林、片岡
 が捕まり、
  9月末には、西郷が自刃した。
  政府の立志社への弾圧はきびしく、
  翌年・1878年4月には、竹内綱、大江卓ら23人が、相次
 いで逮捕され、
  立志社の挙兵計画「高知の獄」は失敗に期し、
  林と大江は、10年という長期刑が下った。
  西南戦争から1年有余の1878年明治11年)明治5月14
 日、大久保は、紀尾井坂で、石川県士族の島田一郎らに
 暗殺された。
  内務省の大久保の手文庫が開かれたが、
  中から河野敏鎌の秘密報告書が出てきた。
  その中に、陸奥が、元老院の暗号電報を利用して、大
 江や林と政府転覆の連絡をとっていたことが判明して、
  陸奥は、6月10日に捕まり、5年の刑に処せられた。
  「高知の獄」では、なぜ・・板垣や後藤象二郎は、逮
 捕を免れたのだろうか?
  これが最大の謎??
  板垣が、林に対して1万人の兵力と銃を準備すればとい
 う条件付き決起に賛成したことは事実。
  林、大江らを、政府側はきびしく追及したが、
  板垣との関与については固く否定し、
  陸奥も一切口を閉ざした。
1877年8月21日 第一回内国勧業博覧会
  場所は、東京の上野公園で開催(日本最初の勧業博)
  日本初の西洋式の噴水が作られる。
  第1回内国勧業博覧会の会場中央の美術館前の人工池
  そして、日本初の噴水が、9月8日に落成した。
  出品者:1万6000人、
  入場者:45万人。
  期間:8月21日〜11月30日
1877年8月31日 西郷隆盛の軍が、大隈に奮闘す。
1877年8月、長崎と横浜にコレラが発生した。
1877年9月1日 西郷隆盛が、退いて鹿児島に入り、本営を城
 山に置いた。
  鹿児島の郷土の民が、これに応じ士気振う。
  9月1日、鹿児島入りすると、辺見は、私学校を守って
 いた200名の官軍を排除して、私学校を占領し、突囲軍の
 主力は、城山を中心に布陣した。
  このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、
 住民も協力していたことから、
  西郷軍は、鹿児島市街をほぼ制圧し、
  官軍は、米倉の本営を守るだけとなった。
  しかし、9月3日に、官軍は形勢を逆転した。
  城山周辺の薩軍前方部隊を痛撃し、駆逐した。
  反撃に出た西郷軍は、9月4日、貴島率いる決死隊が、
 米倉を急襲したが、
  急遽、米倉へ駆けつけた三好少将率いる第2旅団に阻ま
 れ、貴島以下決死隊が一掃された。
  こうして官軍は、9月6日、城山包囲態勢を完成させた。
  この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)とな
 っていた。
  編制を小隊(各隊20〜30名)に改めた。
  そして、諸隊を部署した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive