(増補版)283E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月〜1868年7月)

題:(増補版)283E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月〜1868年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年5月(閏4月)一橋・田安両家を藩に列す(氷川清話)
  江戸時代の徳川氏の一族の内、田安家と一橋家は御三
 卿だった。
  (あと、清水家がある)。
  清水家の最後の当主となったのは、将軍・徳川慶喜
 弟の徳川昭武(とくがわあきたけ)だった。
  しかし、昭武は、パリ万博から帰国後、水戸家の家督
 を継いだ。
  そのため、清水家は、当主不在となった。
  この時に、この事もあって清水藩は立藩していない。
  しかし、1870年2月に、昭武の甥・徳川篤守(とくがわ
 あつもり)が、新たに清水家の第7代当主となって、
  家禄2500石を賜り、華族に列した。
1868年5月(閏4月)徳川家臣の官位を止む(氷川清話)
  徳川家臣の官位剥奪・・、
1868年5月(閏4月)還幸(氷川清話)
1868年5月(閏4月)徳川家裁許五箇条の勅(氷川清話)
1868年5月(5月末)勝海舟、狙撃される
  慶応4年4月の末(1868年5月)に、官兵3、4人が小銃
 を持って俺を狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚き・・云々
1868年6月10日〜8月31日(閏4月20日〜7月14日)白川口の
 戦い
  戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた戦い。
  仙台藩米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津
 藩・庄内藩と提携した。
  そして、新政府と敵対する軍事同盟成立に際し、政府
 軍側の白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取っ
 た。
  しかし、この城は取り返される。
  新政府軍は、約700名程度でもって、列藩同盟側約2500
 名の駐屯していた白河城を奪還した。
  同盟軍は、白河を経由して、関東への進軍を意図して
 いて、再度の奪還を期し、約4500名まで増援を行い7回に
 わたって攻撃をした。
  しかし、新政府軍は、劣勢な兵数で白河城を守りきっ
 た。
  以上の、最初の戦いである旧暦・閏4月20日の白河への
 攻撃の開始で、会津戦争が始まった。
  白河藩は、当時、国替えにより藩主不在となり、幕府
 直轄領であった。
  旧幕府軍は、会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶
 応4年閏4月20日 (1868年6月10日)に、白河城を占領し
 た。
  これに対し、新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治
 指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に、白河への
 攻撃を開始し、
  旧暦5月1日(6月20日)に、白河城を落城させた。
  旧幕府軍は、7月までの約3か月間、白河奪回を試みて
 戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
  この白川口の戦闘で美しい話が残っている。
  土佐藩士・板垣退助が指揮する官軍が、会津の一隊が
 拠る雷神山に猛攻を加えた。
  会津は、官軍より武器も人数もはるかに劣っていた。
  雷神山の会津勢も、もはやこれまでと思ったとき、「
 全軍、切り込み」が命じられた。
  その時、真っ先に山を掛け下った老将と少年があった。
  後年の森要蔵とその息子だった。
  親子は、官軍の真っただ中に切り込むと、まるで舞踊
 の様に美しい剣技を見せた。
  そして、父が危うくなると、少年が駆け寄り、少年が
 危うくなると、父が救った。
  その姿に、官軍の指揮官の板垣退助が、しばらく射撃
 を止めさせたぐらいだった。
  やがて、子が倒れ、父がその上に折り重なって倒れた。
  そして、戦鼓(戦場で、合図などの用いる太鼓)が鳴
 った。
  その合図で、官軍は、怒涛の様に押し寄せ、その二人
 を越えて行った。
  雷神山は占領された。
  この話は、この二人を遠望していた、この様子を見て
 いた白虎隊、生き残りの山川健次郎男爵が、明治の時代
 に入って披露し、語り伝えられている。
  氏は、語るたびに涙で声が詰まり、時には号泣したと
 いう。
  因みに、森要蔵(もりようぞう)は、熊本藩士・森喜
 右衛門の六男で、
  熊本藩江戸屋敷に生まれ、北辰一刀流開祖・千葉周作
 の道場・玄武館に入門し、「玄武館四天王」と言われた。
  江戸・麻生に道場を開き、多くの門弟を抱え、名声を
 轟かせた。
  要蔵の稽古は厳しく、指導する姿は、「雷をまとった
 龍の如し」と言われた。
  上総飯野藩に登用された時、「過ぎたるもの」とまで
 言われた。
  その縁戚で、会津藩戊辰戦争の時に味方した。
  この時、次男の虎雄、高弟の勝俣乙吉郎と共に、会津
 で戦った。
  「官軍と激突、奮戦したが、銃撃を浴び共に戦死」と
 説明され、享年59歳、虎雄は16歳であった。
  官軍は、「祖父と孫だ」と思っていたという。
  二人は共に大龍寺に葬られている。
1868年6月18日(閏4月28日)勝海舟、西郷参謀に一書をよ
 せ時事五カ条を陳述す(氷川清話)
1868年6月19日(閏4月29日)70万石が徳川家へ
  徳川家相続を田安亀之助(たやすかめのすけ、徳川家
 達)に仰せつけられる(氷川清話)
  1868年、徳川慶喜の跡をついで徳川宗家16代となり、
 駿河府中藩主、70万石となった。
1868年6月19日、長崎造船局
  明治政府に収められ、長崎府判事の総轄のもと、経営
 官営長崎製鉄所となり、工部省所管長崎造船局と改称さ
 れた。
1868年6月20日(5月1日)江戸の警察権
  江戸市中の警察権が、官軍に収められた。
  旧暦5月に入ると、江戸市中は物上騒然となった。
  大村益次郎(おおむらますじろう)が、戊辰戦争で彰
 義隊攻撃の指揮者を務めた。
  大村益次郎は、江戸に入って、大久保一翁、勝安房
 に、彰義隊の江戸市中取締り役を解くように命じた。
  これで、彰義隊の存在の大義名分はほとんどなくなっ
 た。
1868年6月21日(5月2日)大阪府庁が設置された(醍醐忠順
 を知事に任命)
1868年6月21日(5月2日)北越戦争(ほくえつせんそう)
  新政府が、長岡藩(現:新潟県長岡市)の中立要請を
 拒否した。
  北越戦争が始まる。
  鳥羽・伏見の戦いの後、官軍は、東海道東山道・北
 陸道に分かれ進軍した。
  一方、長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持してい
 た。
  そして、長岡藩主・牧野忠訓や、家老上席の軍事総督・
 河井継之助は、イギリス人の武器商人のウォーター、フ
 ァブルブラント商会、スネル兄弟などから
  アームストロング砲やガトリング砲など、また、イギ
 リス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃など、
  しっかりと、最新兵器を購入していた。
  万全の武器を備えていた。
  因みに、この当時、ガトリング砲は、日本に3つしかな
 という最新の兵器だった。
  また一方、 会津藩は、使者を長岡藩へ送り、奥羽列藩
 同盟への参加を申し入れていた、しかし、長岡藩は、同
 盟への参加を拒んでいた。
  この様な状況の中で、北陸道を進んできた新政府軍と、
 この日・6月21日、小千谷会談と言われる会談が持たれた。
  長岡藩は、「長岡への侵攻の中止」と、「長岡の独立
 特行」を要望した。
  しかし、新政府側は、長岡藩の嘆願を一蹴し、談判は
 決裂した。
  長岡藩は、2日後の6月23日(5月4日)に、奥羽列藩同
 盟に参加した。
  新発田藩など、他の越後5藩も、これに続いて同盟に加
 わった。
  そして、戦端は開かれた。
  新潟港が重要拠点であった。
  また、新政府軍が占領していた榎峠が戦場となった。
  そして、榎峠を奪われた新政府軍は、榎峠を奪還する
 ため、朝日山へと兵を進めた。
  この様な戦いが繰り広げられて行った。
  戦いは膠着状態に入った。
  最新兵器で武備しただけあって、長岡藩は手ごわかっ
 た。
  寺泊沖海戦も行なわれた。
  7月24日(9月10日)には、同盟軍は、長岡城を奪還し、
 新政府軍は敗走した。
  一度、落城した城が奪還されるのは異例な事だった。
  新政府軍の指揮が混乱し、迷走するほど、長岡藩は、
 打撃を与えていた。
  新政府軍は、山田顕義(やまだあきよし、伊藤内閣の
 司法相など歴任)を指揮官とする長州藩広島藩・柳河
 藩・筑前藩・加賀藩などの軍艦で構成される艦隊を投じ
 た。
  7月25日(9月11日)上陸作戦を敢行した。
  また、黒田清隆(くろだきよたか、枢密院議長)を指
 揮官とする部隊も上陸作戦をし、
  7月29日(9月15日)には新潟港を制圧した。
  新政府軍は、長岡城へ再攻勢をして、この日・7月29日
 に再占領した。
  この経緯の中で、同盟軍だった新發田藩は寝返ってい
 た。
  同盟軍は、会津藩領へと撤退した。
  新政府軍は、出羽国米沢藩領)まで追撃した。
  旧暦8月中旬(1868年6月末)には、越後全域が、新政
 府軍の軍門に降った(ぐんもんにくだる、戦争に負け、
 降参する)。
  さすが、長岡藩の最新兵器であった。
  この戦いは、戊辰戦争の最大の激戦の内の一つとなっ
 ている。
1868年6月25日(5月6日)奥羽越列藩同盟の報が入る
  旧暦5月6日、奥羽17藩の重臣らが白石で会合、いわゆ
 る「奥羽越列藩同盟」を結んだとの報が入る。
  こんな東北の入り口、上野の山で手こずるわけには行
 かぬ、一挙に討伐しようという事になった。
  白昼堂々と、限定戦を挑む、大村益次郎はそう決めた。
  輪王寺宮に退去を懇願し、
  また、付近の住民にも避難の勧告を出した。
1868年6月26日(5月7日)勝海舟、幹事役を申付られる。
  彰義隊の軽挙甚だし、書を法親王に棒呈す(氷川清話)
1868年7月3日(5月14日)戦端を開く前日の5月14日、大村
 は、上野包囲の作戦を立てる。
  勿論、上野にも、15日の総攻撃の報は伝わっていた。
1868年7月4日(5月15日)彰義隊討伐戦が始まる
  大総督府が、諸軍に令して、彰義隊を上野に討つ 。
  海舟は・・
  ちょうど彰義隊の戦争の日だったが、官軍200人ばかり
 で、俺の家を取り囲んで、武器など一切を奪い去ってし
 まった。
  しかし、この時、俺が幸い、他行(たぎょう)してい
 たために、殺される事だけは、まず逃れた(氷川清話)
  大村益次郎を指揮官とする上野の彰義隊討伐戦が開始
 された。
  徳川幕府の庇護の下で造られ、荘厳な伽藍を持つ寛永
 寺の大半は焼失してしまった。
  アームストロング砲の威力があった。  
  勝海舟、官兵、元氷川の家に乱入、刀、槍、雑具を掠
 め去る。不在の為、幸いにも難を免れる(氷川清話)
1868年7月4日(5月15日)雨、夜中も大砲の声聞ゆ
  今朝大小砲聞ゆ。上野にて戦争始まりしと云。
  小塚原に詰居し土佐の人数は大橋の板2・3枚はなし
 大小砲空発す。
  奥羽兵固のよし上野にて始まりしに(奥羽戦に行かせ
 る兵であったが上野戦のため引き戻された)付き其方へ
 引き上げる。
  上野へは会津と仙台の兵昨夕谷中の方より入りし沙汰
 あり。
  夕7時過ぎにも大砲聞こえ坂本の方へ火勢盛りに焼る。
  千住の方風下なり。
  8時頃甲良石丸家内子供(甲良一族と同じ身内の石丸
 家の者たち)残らず来る。(幕臣の日記)
  「千住大橋東橋両国橋皆」いっさい船が通れなくなっ
 た(幕臣の日記)
1868年7月4日(5月15日)上野戦争彰義隊、奮戦す・・、
  朝四ツ半、18番隊、西村賢八郎が山の東側、風坂の近
 くに行くと、隊士・高山林之助が官軍に囲まれていた。
  西村は二名を殺して帰山した。
  伝令役は「砲撃が起こったら速やかに信号の御旗を揚
 ぐべし」と伝えた。
  各屯所では大杯に決死の酒を汲む者もあった。
  朝六ツ半、天野八郎は、同僚二人を連れ、広小路から
 根岸方面を見回ると、本郷とおぼしき方角から砲声が聞
 こえ、急いで山に戻る。
  谷中から池之端に出ると穴稲荷門では神木隊が二百匁
 の戦砲と小銃を持って戦っていた。
  旧暦5月15日、雨は津々と降っている。
  丸毛がズボンに長靴のいでたちで馬で谷中門(上野の
 山は全てで八門あった)へ回ると、5番隊、他の各隊が
 奮戦していた。
  三崎坂の寺々の陰に彰義隊が隠れて官軍を撃ち、谷中
 口は午前中敵を寄せ付けなかった。
  天野八郎は山内に入ると、池田大隅守に神祖の御影を
 記し輪王寺宮へ向かわせ、自ら8番隊を引率して黒門口
 へ向かう。
  何といっても山の入口・黒門が大手、最激戦地である。
  長州出身の大村は、薩摩兵をここへ向け、援軍を乞う
 ても聞かない。
  「貴公は薩人をすべて死なすおつもりか」と詰め寄る
 と、大村は「もとよりそのつもりだ」と応じ、薩摩軍は
 むしろ奮起したという。
  彰義隊側で黒門の指揮をとったのは酒井宰輔、山王台
 では大砲の使い手・近藤武雄がこれを援護する。
  官軍は、松坂屋前に陣を敷き、山入口の西側、料亭・
 松源、雁鍋の二階より大砲を撃った。
  不忍池に面した穴稲荷門では神木隊と浩気隊が奮戦。
  本郷高台に陣取った備前、柳川、佐土原、尾州の軍は、
 池を隔てて大砲を繰り出す。
  一方、池には橋もないので、官軍は小舟をしたて池を
 渡り、穴稲荷門から侵入をはじめる。
  山の東側の下寺は、遊撃などの諸隊が分屯して門を守
 った。
  官軍は、黒門口より右手に回ってこれら下寺(したて
 ら)方面も攻めたが、彰義隊はこれをよく撃退する。
  こうして午前中、彰義隊は善戦したが、昼過ぎ、官軍
 は援軍を差し向け巻き返しをはかる。
  昼どき、いったん本営に帰った天野八郎は、また、山
 王台に引き返し、清水堂脇で純忠隊に会い、「黒門口が
 危ない、いざ」と走り出したが、誰も着いてこなかった
 という。
  この時点で、かなり士気が落ちていた。
  そのうち「黒門が破れたぞ」との声も上がり、山内は
 どよめきたつ。
  隊長らは「ひるむな」と叱咤するが酒井宰輔は戦死、
 近藤武雄や大谷内龍五郎ら奮戦の勇士は多く手傷を負う。
  撤退する彰義隊を官軍は追い、山内に突入して根本中
 堂まで迫った。
  この時、行く手に東照宮の神旗をもって立ちはだかっ
 たのは大監察も勤めた幕臣・大久保紀伊守、その姿に励
 まされ、中堂前で最後の死闘が行われたが、砲弾は紀伊
 守の額に命中した。
  彰義隊は四散し、敗走する。
  本郷台のアームストロング砲は吉祥閣に命中し燃え上
 がる。
  火は次々と諸堂に移り、頭並伴門五郎は火中に身を投
 じた。
  吉祥閣に火の手が上がったのを双眼鏡で見て「これで
 勝ったな」と大村益次郎はつぶやいたという。
  死者の数はまちまちである。
  官軍側の死体は、すみやかに片付けられた。
  その数40という。
  一方、彰義隊士の死体は放置された。
  夕刻、雨の中に焼けた諸堂がくすぶるばかりで人影は
 ない。
  ただ点々と死体が転がっていた。
  大村益次郎は、退却路に根岸芋坂辺をわざと開けてお
 いたという説がある。
  たしかに芋坂を降りた根岸、金杉、尾久、三河島辺り
 は、旧寛永寺領であったこともあり、彰義隊をかくまっ
 た町人の話は多く伝わっている。
  官軍は、谷中あたりの家はしらみつぶしに調べた。
  官軍に捕まる者も多く、うまく逃げおおせた隊士は、
 奥羽に転戦し、春日左衛門をはじめ罪を許されると、慶
 喜のいる静岡に向かった。
  明治政府は、彰義隊についての報道を規制し、明治30
 年代に至って規制も緩み、膨大な「彰義隊戦史」が書か
 れたりした。
  上野から逃げた彰義隊は、谷中、根津、日暮里と広範
 囲で戦ってもいた。
  彰義隊士は言う、「我々は逆臣にあらず、主家に対し
 て義を尽くせるのみ」と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive