臨時ブログ:アメリカは、黒人の方々を棄民した。

臨時ブログ:アメリカは、黒人の方々を棄民した。
  また、アメリカは、黒人の方々を奴隷として捕縛した。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1847年7月26日、アフリカ最初の独立国・リベリアが独立
 した。
  アフリカのリベリア共和国が独立した。
  この年、ヨーロッパの植民地支配を受けていたアフリ
 カの国々のうち、
  いち早くリベリア共和国が独立した。
  アフリカで、次に独立するガーナは、110年後の1957年
 で、イギリスから独立した。
  この1957年のガーナの独立が、アフリカの国の初めて
 の独立などとされているが、最初に、リベリア共和国
 独立があった。
  そして、その経緯(いきさつ)は・・、
  リベリアの独立のきっかけは、アメリカで起こった奴
 隷解放に関係していた。
  ジョージ・ワシントンの甥を会長とする「アメリカ植
 民協会」が、アフリカの土地の一部を購入し、そこに解
 放奴隷をアメリカから連れて行き町を作ろうとした。
 そして、作った。
  その後、同協会が、リベリア援助を続けられず、縮小
 する方針を打ち出したため、
  1847年に、独立という形にした。
  独立を宣言し、共和国憲法を採択した。
  アフリカ最初の共和国として誕生した。
  ・・と、美しく・・歴史には書かれているが・・?
  アメリカ大統領のリンカーンも、この件に関係した。
  実は、アメリカに居る黒人の方々の棄民だった。
  ブログの『子供たちの「リンカーンの伝記』は間違っ
 ています」にも書きましたが・・、
  リンカーン大統領は、「黒人奴隷を解放した」と言わ
 れていますが、間違いです。
  彼には、黒人奴隷を解放したいという意思や希望は、
 まったく有りませんでした。
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 から持った」という受け身的な奴隷解放の行動でした。
  逆に、奴隷解放どころか、その逆の言葉も多くリンカ
 ーンにはあります。
  その様な、リンカーンに都合の悪い言葉は隠され・・、
  美しく「奴隷解放の父」が作られています。
  奴隷解放の流れをつくったのは・・その様な方向へ仕
 向けたのは・・、
  黒人の黒人奴隷解放戦士『フレデリック・ダグラス』
 でした。
  本当に、この真の奴隷解放者は隠されています。
  黒人ゆえだからでしょうか?
  この様な事まで、白人は奪うのでしょうか?
  また、黒人の方々の・・その組織の働きかけがあった
 から、奴隷解放の方向に流れて行ったのです。
  そして、その流れの中に、リンカーンが居ただけなの
 です。
  これが、真実なのです。
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  正しい内容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には「黒人は人ではない」として来た歴史
 が、古くからズーッとあります。
  この様な流れや、見方に影響された人々が、したこと
 は、黒人の奴隷解放に一旦ちょっぴり至っても、
  直ぐに、自分たちの利にとらわれて、元に戻ってしま
 うという状態だった。
  悲しいかな、黒人の方たちは・・、
  「人間ではない、奴隷という原罪」がある・・と、理
 由づけられた見方・考え方をされていました。
  特に、アメリカ南部は、現在も「バイブル・ベルト」
 と言われている様に「キリスト教徒が多い地帯」。
  ここの地に、黒人奴隷の悲しい歴史が刻まれました。
  奴隷制は、疑問なく容認する考え方の地でありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制
  アメリカ南部の人達は、当然のごとく、奴隷制を容認
 し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
  そして、この南部の奴隷制寡頭勢力は、(かとうせい、
 寡頭制:少数者が権力を握って行う独裁的な形態)、
  自分たちの利が脅(おびや)かされるに及んで、剣を
 引き抜き、南北戦争を起こした。
  自分の意に合わない者は、相手は、殺すという教義・・
 「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義のままに、
  「考え方の違うものは滅ぼせ」の教義どおりの行動と
 なってしまった。
  その様なアメリカの中でも・・共和党は、アメリカ全
 土の奴隷制反対勢力が応援し、育て、そして、強固にし
 た党だった。
  (ちなみに、民主党は、奴隷制を容認した党でした)。
  くすぶりの中にあったアメリカで、この年に、南北戦
 争(1861年4月12日〜1865年5月9日)が起き、
  リンカーンは、この年に大統領に就任した(任期:1861
 年3月4日〜1865年4月15日)
  後代の歴史家が「南北戦争奴隷解放戦争」と位置付
 けしていますが・・、
  リンカーンの大統領就任演説は、何と・・
  「奴隷財産を擁護する論理展開をするという演説」で
 した。
  リンカーン大統領は、「奴隷財産は守ります」という
 就任演説でした。
  何と愚かな演説でしょう。
  奴隷制について・・、
  「反対するか賛成するかわからない州が存在したから」
 と言い訳する人たち、リンカーンを擁護する人たちもい
 ますが・・?、
  リンカーンのその後の行動からみても・・??
  彼は、「奴隷解放の大統領とは言えません」。
  南北戦争の戦況は、リンカーン奴隷解放への意思が
 なく、不決断もあって、
  また、軍の首脳部の腐敗もあって北部軍は、「敗北が
 続いた」。
  北部のシンボルである『首都=ワシントンが、陥落す
 る』危険にさらされる緊急事態にまでもなった。
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士の『
 フレデリック・ダグラス』でした。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認していません』でした。
  フレデリックは、ここで働いて、この戦争で働きを見
 せて、黒人の解放を勝ち取りたいとしていました。
  「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍務につかせよ」
 ・・と、訴えました。
  「奴隷に対する自由が、今こそ国会議事堂から全戦場
 の砲焔の空高く宣言されなければならない」・・と、叫
 びました。
  「黒人を軍務につかせよ、そして、黒人解放軍を組織
 せよ・・と、
  彼らは、南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚
 げるであろう」・・と、世論に訴えました。
  リンカーン大統領は、愚かにも、首都ワシントンが陥
 落の事態になっても、
  「黒人奴隷は漸進的に解放したい、一気に解放という
 事はしたくない」の言うのでした。
  また、リンカーンは、卑劣な事に・・
  「解放された黒人は、アフリカかどこかに植民させた
 い」と考えていた・・これが、リベリアです。
  黒人の方たちを捨てるということです。
  「棄民」の考えです。
  当然、黒人の方たちからは、強い反対の声が沸き起こ
 りました。
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  そして、次の話・・後編・・、
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1847年7月26日、アフリカ最初の国・リベリアが独立した。
  この国は、アメリカ大統領が思っていた『黒人の方々
 の棄民の国』だった。
  アメリカ合衆国の人種差別行為の行なわれた国だった。
  アメリカの北部から、リンカーン大統領を輩出した。
  南北戦争当時の北部出身の大統領のリンカーンだった。
  アメリカの北部軍が、この戦争に勝って・・、
  そして、今のアメリカ合衆国の政権は、この延長線の
 上にあり、
  リンカーンが始まりで、そして、その流れが続いてい
 ると言える。
  だからこそ、それ以後の北部系のアメリカ政権が、そ
 の始祖のリンカーン大統領を大切にするのは、そこに理
 由がある。
  リンカーンに記念堂があるのは、そこが理由だ。
  これに対し南部の人たちが、苦虫をかみ殺して居るの
 はこれが理由。
  南部にはリー将軍の記念日がある、誕生日を記念日に
 している。。
  だから、リンカーンと言えば「奴隷解放」と来るが、
 これが、クエスチョン(疑問)なのだ。
  これは、作られた話で、プロパガンダ(嘘宣伝)なの
 だ。
  アメリカの南部人に言わせれば、「北部でも、実際は、
 卑劣な黒人差別が行われていた」・・と言う。
  「北部人が、人種差別、人種偏見を非難するのは、政
 治上の駆け引きに過ぎない」・・と言う。
  アメリカの白人が、黒人の方々に対して、ある差異を
 感じているのは、北部も、南部も変わりがない。
  そして、アフリカの、リベリアという国の話し・・、
  この国は、1847年に独立した。
  アフリカで独立した一番最初の国。
  この国の独立の次にアフリカで独立する国は、長い期
 間、とぎれて、このリベリアの次ぎに独立する国は、ズ
 ーット後になる。
  だから、この国が最初のアフリカの独立国ではないと
 史実が消される本もある。
  アメリカへの「ごますり」で、史実を正しく書かない
 本さえあるから注意したい。
  では、何故、この国が、こんなに飛びぬけて早くアフ
 リカで独立できたかと言うと、既に述べた様に、リンカ
 ーンが関係している、
  そして、アメリカ合衆国が関係している。
  この国は、アメリカが土地を買って、アメリカにいる
 黒人の方々をここに住まわせようとした。
  つまり、「棄民」だ。
  リンカーンは、黒人奴隷の時代が終わりに近づいてい
 るので、連れて来たアフリカに返そうとした。
  黒人の方々の意思が優先された話ではない。
  リンカーン大統領は、『奴隷解放の大統領ではない』。
  「奴隷解放の父」と言う話はプロパガンダ(嘘話)。
  リベリアの歴史は・・、
  1816年 、アメリカ合衆国で設立されたアメリカ植民協
    会が、黒人解放奴隷のアフリカへの「帰還」を計
    画。
   (アメリカ合衆国の国内に居てもらいたくないとい
    う意思から、この行動が起こされた)。
  1820年1月、アメリカ植民協会、黒人のための「祖国
    再建運動」としてリベリア建国運動を開始。
     解放奴隷の88人を乗せた「エリザベス号」が、
    ニューヨーク港を出港し、西アフリカのシエラレ
    オネに向かう。
     「自由の女神像」も泣いていたであろう。
    利用されるだけ利用された黒人の方々が、アメリ
    カ社会で『自由な生活』を得ることが出来なくて、
    体(てい)のいい「棄民」をされた。
  1822年、初のグループがリベリアに上陸。
    再移住区を建設する。
  1824年、メスラド岬植民地が、リベリア植民地に改名
    される。
     同時に、アメリカが拿捕(だほ、捕らえること)
    したコンゴ系奴隷がニュージョージアに入植した。
     アメリカ自身が奴隷狩りをした。
     当初は「クリストポリス(キリストの都市)」
    と呼ばれていた首都の名前を、アメリカ合衆国
    第5代大統領のジェームズ・モンローからとった
    モンロビア(現在、リベリア共和国の首都)に
    改名。
  1832年、ニューヨークで設立されたペンシルベニア州
    植民地社会がエディナ植民地 (Edina) と、
     12月には、ポートクレソン植民地 (Port Cresson)
    として入植した。
  1833年、再移住区をLiberty(自由)からとった「リベ
    リア連邦」と命名した。
  1834年メリーランド州の植民地社会によりメリーラ
    ンド・アフリカ植民地 (Maryland-in-Africa) と
    して入植。
  1835年、ルイジアナ州の植民地社会がミシシッピ・ア
    フリカ植民地(Mississippi-in-Africa)として
    入植。
     6月、先住民部族バッサ族の攻撃により、ポート
     クレソンの植民地が破壊され、
     7月に、新たにバッサケーブ植民地 (Bassa Cove)
    を設立。
  1837年に、バッサケーブ植民地がエディナ植民地を統
    合する。
  1839年4月1日、ニュージョージア植民地とバッサケー
    ブ植民地がリベリア連邦に統合。
  1842年、ミシシッピ・アフリカ植民地もリベリア連邦
    に統合。
  1847年7月26日、アメリカ合衆国憲法を基本にした憲法
    を制定して独立を宣言した。
     初代リベリア大統領に、ジョセフ・ジェンキン
    ス・ロバーツ(任期1848年 - 1856年)が就任。
  1854年5月29日、メリーランド・アフリカ植民地がメリ
    ーランド共和国として独立を宣言するが、
  1857年3月18日、リベリア共和国に併合。
  1870年に、エドワード・J・ロイが大統領に就任するが
  1871年に、暗殺され、
  1872年〜1876年の間は、初代のロバーツが第6代大統領
    を務める。
  1878年に、アンソニー・W・ガーディナーが大統領に
    就任。
  1896年には、ウィリアム・D・コールマンが1900年
    まで大統領に就任した。
  1903年には、アーサー・バークレーが大統領に選ばれ、
  1904年も、大統領に再選される。
  1915年、アメリコ・ライベリアンのリベリア政府に対
    して、先住民のクル族とグレボ族の反乱を起こす。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive