(増補版)227D2/3:気になった事柄を集めた年表(1837年〜1838年)

題:(増補版)227D2/3:気になった事柄を集めた年表(1837年〜1838年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1838年天保9年)2月、大隈重信(おおくましげのぶ、明
 治の政治家)が生まれた(1838年〜1922年)
  肥前国佐賀藩藩士の生まれ。初名は八太郎。
  1869年(明治2年)31歳、大蔵大輔として財政面に尽力。
  1877年(明治10年)39歳、この年に起きた西南戦争で、
 軍事輸送にあたった三菱と密接な関係を持つ。
  1881年明治14年)43歳、政変で下野し、
  1882年(明治15年)44歳、立憲改進党を創立し、総理
 となり、自由民権運動の一翼を担った。
  また、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)を創
 立し(早稲田大学創立者早稲田大学総長)
  1888年明治21年)50歳、第1次伊藤内閣、ついで黒田
 内閣の外相となり、条約改正にあたるが、反対派に爆弾
 を投げつけられ右足を失う。
  1898年(明治31年)60歳、伊藤内閣・松方内閣の外相
 となった後、板垣退助と共に憲政党を結成し、日本初の
 政党内閣を組織する。
  1914年(大正3年)76歳、再び首相となり、第一次世界
 大戦への参戦を決定。
  1915年(大正4年)77歳、対華21ヶ条要求を提出した。
  1922年(大正11年)歿した、84歳
1838年2月、薩摩藩が、萩野流砲術師範役の鳥井平八と平七
 兄弟を長崎に派遣し、高島秋帆に入門させた。
1838年3月、江戸城の西の丸が炎上し、焼失した。
1838年閏4月、この年から5年間の倹約令が下った。
  この初年度以外は、まったく効果が表れず、財政難は
 一層、深刻になった。
1838年、春、京都で「豊年踊り」が大流行した。
  庶民の豊年への希望・期待が流行となったのだろう。
1838年5月、一橋慶昌(ひとつばしよしまさ、初之丞君〉卒。
  (氷川清話)
  12代将軍・徳川家慶の5男、14歳で没、
1838年勝海舟、この頃、男谷下総守の門に撃剣を始めた
 のは13・4歳の頃なり。
  また柔術の同門・島田虎之助(見山と号す中津藩士
 が、当時、浅草新堀に剣術道場を開き生徒を教える、
  麟太郎、其塾に薪水の労をとり修行す。
  その時、見山が言うには「剣道は形を学ぶのみで真に
 この術を修めるには心肝の錬磨である」と。
  それから、寒中に木剣を持って王子現社内に行き、社
 前の礎石に座り、時々、木剣をふって全身に精気充ち、
  また、静座す。
  こうして、天明に至り、帰塾し、日課についたという。
  また、見山の忠告で、西洋兵法を学ぶ。
  或時、城中で、和蘭献納の大砲を見て、砲身に横文字
 あり、これが文字なら読めないわけはないと、大砲を使
 用するため、蘭書を学ぶ必要を感ずるという(氷川清話)
1838年5月、長崎の諫早(いさはや)の眼鏡橋が起工された。
  それまで、本明川には橋はひとつもなかった。
  利用頻度も高く、毎年の洪水にも崩壊することなかっ
 た。
  永久に流されない橋を作ろうとの願いから作られた。
  1839年天保10年)8月に完成した。
1838年6月、大判改鋳。
  この年に天保大判が鋳造された。
1838年7月27日、勝海舟家督す、父惟寅隠居し夢酔と号す。
 (氷川清話)
1838年10月、渡辺崋山(わたなべかざん)が「慎機論(し
 んきろん)」を、高野長英(たかのちょうえい)が「夢
 物語(ゆめものがたり)」を著した。
  幕府の批判をした。
1838年緒方洪庵(おがたこうあん、蘭学者、蘭医、教育
 者)が、大阪・瓦(かわら)町に、適々斎塾(てきてき
 さいじゅく)を開いて、蘭学を教えた(元来は医家の塾)。
  「蘭書解説の研究所だ」と本人は言う。
  だから、医師に限らず、蘭学を志す者、技術・知識の
 学を求める者が集まった・・と。
  1843年に、船場過書(せんばかしょ)町に移転、大い
 に発展して、全国から多数の門人が参集した。
  その数は3000人を超えたという。
  大村益次郎・橋本佐内・大鳥圭介福沢諭吉などの人
 材を輩出した。
1838年、蘭書翻訳は暦天文究理書のほか、みだりに流布す
 べからざる布告。(氷川清話)
 (1839年天保10年の説あり)、幕府は公儀関係者以外
 の翻訳書流布を制限しようとしたが、事実上、無視され
 た・・と。
1838年奥羽地方が飢饉になる。
  最も被害の激しかったのは奥羽地方とあり、また、盛
 岡藩(南部藩)が凶作とあり、「霖雨・早冷・霜害、収
 穫皆無の所多し」とある。
1838年都都逸(どどいつ)が流行。
  俗曲の演奏家都都逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)
 が、この年に、牛込藁店(わらだな)の寄席で、「どど
 いつどどいつ」の囃子詞(はやしことば)をもつ「都都
 逸節」を流行させた。
1838年、大原幽学(おおはらゆうがく、農民指導者、農政
 学者)が、先祖株組合(せんぞかぶくみあい)を結成し
 た(1797年〜1858年)
  これは、「子孫永永相続」という共有財産をつくって、
 農民の相互扶助を基とした。
  下総香取郡長部(ながべ)村に定着し、組合を4ヵ村
 に結成した。
  農業協同組合を世界で初めて創設し、先駆と言われて
 いる。
  幽学は、若いとき苦労し、仏教・儒教神道を一体と
 とする独自の実践哲学を開いたという。
  そして、各地を訪れ、門人を増やし、1835年に、干拓
 地であった長部村に招かれ、農村振興に努力した。
  農業技術の指導や、耕地整理のほかに、質素倹約や道
 徳面、そして、子供の教育論などを指導・奨励した。
  教導所も設け、組織的にも行動した。
  長部村の領主・清水氏は、長部村の復興を称賛し、領
 内の他の村々にも模範とせよと触れている。
  しかし、反感を持つ勢力も出て、1852年に至り、勘定
 奉行に怪しまれ、取り調べられたのを切っ掛けに、解散
 を言い渡され、不成功に終わる。
  幽学の最後は切腹となっている。
1838年、アフガン戦争が起きた(〜1919年)
  イギリスとアフガニスタンとの戦争。
  3回に渡って、戦われている。
  1919年に、ラワルピンディ条約で、アフガニスタンは、
 やっと独立ができた。
  イギリスは、ロシアに奪われる前に、奪ってしまおう
 と、1838年に、軍事行動を起こした。
  1878年に始められた第二次アフガン戦争によって、イ
 ギリスは、アフガニスタン保護国とした。
  第三次アフガン戦争は、1919年の第一次世界大戦の直
 後に行われた戦争で、アフガニスタンは独立できた。
1838年チャーチスト運動(労働者の普通選挙要求運動)
  イギリスの労働者は不満を抱えていた。その不満が、
 普通選挙の選挙権を得たいだった。
  しかし、その活動は、弾圧に会い、また、内部の対立
 もあり、1848年以後は衰え、1850年代に消滅した。
  特に、飢餓と貧困にいた貧しい労働者の方々が、政治
 的な民主主義を求めて、署名し、請願し、ストライキ
 動などを行なった、しかし、弾圧で、目的は達成できな
 かった。
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