(増補版)220D2/3:気になった事柄を集めた年表(1828年〜1829年)

題:(増補版)220D2/3:気になった事柄を集めた年表(1828年1829年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1829年(文政12年)1月、大奥の生活を風刺した柳亭種彦作・
 歌川国貞画の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげん
 じ)」初編が刊行された。
  国貞の絵と共に非常な人気だった。38編152冊、
  源氏物語の世界を室町時代に移して翻案したとしたが、
 将軍・家斉の大奥を書いたとされて、絶版を命じられた、
 〜1842年まで。故に、39編と40編は未刊となった。
1829年3月21日、文政の大火
  神田佐久間町河岸(現在の千代田区)の材木小屋より
 出火し、西北の強風にあおられ、日本橋・京橋・芝の中
 心部を焼失した。翌朝に鎮火した。
  焼失面積は、幅2.2キロ、長さ4キロ、大名屋敷73、旗
 本屋敷130、町屋3万軒、舟や橋も多数焼失した。焼死者
 2800余名。
  佐久間町火事とか、己丑大火とかと言う。
  佐久間町一帯は材木商とか、薪商が多かった。
1829年5月、松平定信(まつだいらさだのぶ)が没した(72
 歳)、寛政の改革の推進者。
  8代将軍の徳川吉宗の孫。
  陸奥(むつ)白河藩の藩主の時、天明の飢饉で領民が
 困窮していた状況を救うため、上方(京阪地方)から食
 糧を緊急に運び入れて救った。
  また、飢饉によって崩壊に瀕していた藩の財政も立て
 直したりして、名君と言われた。
1829年6月、近藤守重(こんどうもりしげ、重蔵、北地探検
 家)が没した(59歳)
  国後島択捉島を探検した。
  択捉島に、日本領土だと明示する「大日本恵土呂府」
 の木標を建てた。
1829年6月、幕府が、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造した
 (7月から通用開始)
1829年7月、幕府が、真文(しんぶん)二分判を、草文二分判
 (そうぶんにぶばん)に引き替えるよう命じた。
1829年10月、伊藤圭介(いとうけいすけ、植物学者、医師)
 が訳述した「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)」
 が刊行された。
  伊藤圭介は、日本最初の理学博士で、
  1887年に、名古屋藩医となっている。
  生没年は1803年〜1901年で、明治14年に、東京大学
 授になっている。
  泰西本草名疏は、4卷3冊で、シーボルトからもらっ
 たC.P.ツンペリーの「日本植物誌」に和名を付した。
  日本に初めて近代的な植物分類法を紹介した意義ある
 著と言われている。
1829年11月、4代目鶴屋南北(つるやなんぼく、歌舞伎作者)
 が没した(75歳)
  「東海道四谷怪談」の著作者。
1829年11月、水野忠暁(みずのただあき、園芸家、幕臣
 が、「草木錦葉集」を刊行した。
  草木錦葉集は、斑(ふ)入りの植物を挿図で説明・集
 成し、この他にも草木の奇品図集を紹介して有名。
  園芸技術と変異研究が進歩していた。
  また、世は、草木の珍種鑑賞が盛んだった。
1829年勝海舟が城に上り、初之丞君の学友となる(第12
 代将軍家慶公5男)(氷川清話)
  勝海舟の自伝の氷川清話には、以下の様な事が書かれ
 ている。
  文政12年(1829年)のこと、大奥へ奉公していた父方
 の親類の阿茶の局の紹介で、江戸城の見学の機会を得た
 勝海舟だった。
  この時、偶然、11代さま(11代将軍・家斉)の目に留
 まる。
  そして、孫の初之丞の学友に良いと思われたのか?抜
 擢された。
  それから2年間、大奥で初之丞様と寝食を共にし、将来
 の夢が開けて来ていた。
  その間、一旦、修行や学問、剣術修行などで、江戸城
 を辞したが、
  剣術修行の帰りに、犬に噛まれて大けがをし、九死に
 一生という状況に、
  この時は、遊び癖のあった父も、寝ずの看病をしてく
 れたという。
  70日間くらいで治り、九死に一生を得たと海舟は言う。
  そして、病も治ったので、初之丞様の元に出仕しよう
 としている矢先の、天保9年(1838年)、初之丞様は病で
 亡くなってしまった。
  海舟の栄達の道は消えた。
  この時の父親の落胆・嘆きは、大きかったという。
  海舟の父親は悲観して隠居したくらいだった。
  そして、海舟が家督を相続して、小普精組40俵をも
 らうことになったという。
1829年西周(にしあまね、啓蒙思想家、哲学者)が生ま
 れた(1829年〜1897年)
  石見(いわみ)国(島根県)津和野藩医の子として生
 まれる。
  若くして朱子学を学び啓発され、ペリー来航に際して
 蘭学や洋学の必要性を悟る。
  脱藩して、1853年に、江戸に出て、
  1857年に、幕府の蕃書調所に出仕し、蕃書調所教授手
 伝並となり、蘭学を学び、英学を杉田成卿らに学び、
  幕府留学生として、1862年に、オランダに留学し、哲
 学・法学・経済学などを学んだ。
  幕末、徳川慶喜の政治顧問となった。
  維新後は、明治政府に招かれ、兵部省(のち陸軍省
 や文部省に勤務し、山形有朋のもとで軍制の整備にあた
 り軍人勅諭の原案を起草したりした。
  新しい時代の青年を教育するために学問全体の統一的
 理解をする事の必要を感じ、著書「百一新論」も書いた
 りした。
  学問全体の統一科学の試みを「哲学」と称し、この用
 語を作ったのはこの人、この他にも、帰納とか、定義と
 か、属性、実体、命題、演繹、感性、悟性、理性、観念
 などの用語も作った。
  貴族院議員にもなった。
  日本最初の西洋哲学者と言われ、また、日本近代哲学
 の父とも言われる。
  西周で特異な点は、徳川慶喜と密接な状況になってい
 る折り、
  この時点において、大政奉還について、幕府内部では、
 新たな政権構想が検討されていた。
  西周は、その立場から関係し、
  構想は、ヨーロッパの三権分立の政治形態の形をとり、
  諸大名領はそのままとして、各藩それぞれの領国内の
 政治や立法を認め、
  軍事権は、当面は諸大名が持つが、数年後は〈大君〉
 の中央政府へ統轄されるものとしていた。
  そして、この〈大君〉には慶喜がなり、
  各事務府の人事権は〈大君〉が握って、行政府の長と
 しての〈大君〉は、上院の議長でもあって、下院の解散
 権を持つ。
  両院で食い違いが起きた時の裁定権も、一手に掌握す
 ると規定していた。
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