(増補版)239D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年〜1853年)

題:(増補版)239D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年〜1853年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1853年(嘉永6年)7月、勝海舟、海防意見書提出。この頃、
 大久保忠寛(おおくぼただひろ)に知らる(氷川清話)
  大久保忠寛は、勝海舟と共に幕政の運営にあたった。
  忠寛(1817年〜1888年)は、議会制を主張する先駆者
 だった。明治21年没(71歳)
1853年7月、船艦を和蘭より買う(氷川清話)
1853年7月、将軍家慶逝去(慎徳院)。家定将軍宣下(氷川
 清話)
  13代将軍・徳川家定が将軍になった。
  (将軍期間:1853年〜1858年)
1853年7月18日、露国軍艦2隻、樺太境界確定請求書持参(
 氷川清話)
  ロシアは、日本とロシアの国境は樺太にあるとして、
 それを確定したいとして来た。
  来たのはロシアのプチャーチンで、4隻のロシア艦隊を
 率いて、長崎に来た。
  皇帝ニコライ1世の国書を捧持(ほうじ、ささげて持つ
 こと)していた。
  プチャーチンは、国使としての来日だった。
  当時、ロシアは、赤蝦夷と呼ばれた。
  先覚の師・林子平は、寛政年間(60年前)(1792年に
 「海国兵談」で罰せられている)に・・、
  「赤蝦夷には、在来、南へ勢力を伸ばそうという意思
 がある。将来、日本にとって恐るべき禍根になる」と公
 表していた。
  60年前に、「妖言(およずれごと、ようげん、根拠の
 ない、人を迷わせる言葉やうわさ)を言いふらす」と罰
 せられていた。
  プチャーチンは、震え上がっているだろう幕府へ、
  「ロシアと通商を開けば、日本は商業上の利益だけで
 なく、軍事上の利益もある。
  もしアメリカが、日本を侵略すれば、我々は、艦隊で
 陸兵を送って戦ってやる」と言った。
  ロシアの言い方は、アメリカと対照的な懐柔策だった。
  長崎奉行所の役人も、江戸表への報告書にも、「ロシ
 アは、アメリカと違ってたいそう平和的である」と、付
 言した。
  このため、幕閣や、江戸の論壇は、一時、親露論が圧
 倒的に強くなったのだった。
  幕閣の中の、外務省とも言うべき海防掛は、ロシアか
 ら軍艦や大砲を提供してもらって、
  アメリカの強圧を、「撥ね除こう」という意見を持っ
 た。
  しかし、実際は、この頃のロシアは、クリミア戦争
 真っ最中で、セバストボール要塞の攻防戦を繰り広げて
 いた。
  しかも、ロシアの敗色が濃かった。
  日本のこの様なことに、関われる状況にはなかった。
1853年8月、水戸斉昭隔日登城、意見を提出す(氷川清話)
1853年8月、品海砲台築造を命ず(氷川清話)
1853年8月、用度を節しつとめて海防に用うべきを命ず(氷
 川清話)
1853年9月、大船製造を許す。幕府、オランダに軍艦・兵器
 を注文。
1853年9月21日《08/19》奉行の大沢豊後守が、西役所で使
 節と合う。
  プチャーチンからの国書を受け取り、すぐ幕府へ送る。
1853年10月、高島秋帆、一身の危険をかえりみず上書「嘉
 永上書」を書き上げた、
  「嘉永上書」には、交易通商を行ない、それにより利
 を得て国防を充実させることなどを詳しく述べた。
  (明治維新の政策はこの通りになった・・正論)。
1853年10月18日《09/16》、奉行所よりロシア艦へ、将軍・
 家慶の死を伝え、国書の回答が遅れることを告げた。
1853年10月20日《09/18》、ロシア使節は、書面をもって弔
 詞を述べた、
1853年10月27日、吉田松陰が、ふたたび長崎に、濱町に泊
 まる。
  そして、来泊中の露艦に乗り、密出国するのが目的だ
 としたが、果たせず。
  11月1日に、長崎を出発して熊本へ向かう。
1853年11月8日《10/08》、幕府派遣のロシア使節応接掛の
 人選が難航した。
 勘定奉行兼海防掛の川路聖謨大目付格兼応接掛の筒
 井正憲らに決定し、上使として長崎に下向した。
1853年11月23日《10/23》、通商が拒否され、ロシア艦隊は、
 上海へ出帆した。
  プチャーチンは、回答を待つうち、ヨーロッパの風雲
 急(クリミア戦争の戦況)との報に、にわかに帰国する
 ことになった。
  再渡を約して出港した。
1853年、勝海舟、武術台覧を受け、巻物二を賜う。(氷川
 清話)
1853年11月、大量の大砲製造。
  ペリー来航をきっかけとして、幕府が公布した「洋式
 砲術令」によって、
  萩藩は、1853年11月に、郡司鋳造所を藩営の大砲鋳造
 所に指定した。
  そして、ここで、大量の青銅製大砲を鋳造した。
  また、ここで鋳造された大砲は、江戸湾防備のため三
 浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれた。
  そして、1863年の、下関海峡での外国船砲撃に使われ、
  また、1864年の、同海峡での英・仏・蘭・米連合艦隊
 との戦争(下関戦争)にも使用された。
  郡司鋳造所は、在来技術である「こしき炉」によって
 西洋式大砲を鋳造した。
  近代技術へと移行する過渡期を物語る産業遺構として
 貴重で、なかでも、西洋式の青銅大砲を鋳造し、一番深
 いところで4.5mある巨大な石組みの大砲鋳造遺構は日本
 で唯一。
1853年、この時、幕府は・・、
  このペリー来航時に、幕府が弱腰だったのは、財政難
 でもあったからだった。
  直参・旗本の戦備が関係していた。
  戦備を整えられる直参・旗本が心もとなかった。
  来航した4隻の艦名は、旗艦サスクェハナ以下、ミシシ
 ッピー、サブライ、カプリスで、
  ペリーは、この4艦をひきいて、「にわかに」と感じ
 られるぐらいに、突如として、江戸湾口の相州浦賀沖に
 あらわれた。
  そして、浦賀沖から鴨井村沖にかけて投錨し、
  浦賀奉行所役人を通じて、将軍へ、アメリカ大統領ウ
 ィルモアの親書を呈するため来航した旨を伝えた。
  浦賀奉行所の与力・中島三郎助らが、ペリーの副官・
 コンテー大尉に会う。そして、
  「日本の国法として、外国の事はすべて長崎で取り扱
 う事になっている。早々に長崎へまわられよ」と言うと、
  アメリカ側は、「本国の命令で、江戸に近い浦賀に来
 た」。
  「長崎にはまわらない」・・と、頑として聞かない。
  そればかりか、艦隊は、砲艦外交の情報通り、戦闘準
 備さえ整えた。
  そして、4隻の黒船が、にわかに浦賀沖で抜錨(ばつび
 ょう、船の錨を上げて出帆すること)し、
  江戸湾奥に向かって突進し始めた。
  そして、測量をし、そして、測量をしただけではなく、
  品川の見える辺りまで近づいて来て、
  脅すために轟然(ごうぜん、大きな音がとどろき響く
 さま)と、艦載砲を撃ち放った。
  この品川沖の数発の砲声は、効き目があった。
  幕府は、この時から、開国へと徐々に踏み切る決意を
 して行く。
  幕閣は震えあがったのだろう。
  この様な時に、守るべくして将軍のお膝元にいた8万
 騎の旗本、
  幕府は、黒船警備に大名の力を借りようとするばかり
 で、直参というこの直衛兵団を使わない。
  使えなかったのだった。
  幕府の旗本・御家人は、その日を食べるのが手一杯だ
 った。そのため・・、
  武具、馬具、家来を揃えて出陣できるような状態では
 なかった。
  クジラ目あてに日本近海に来て、日本をどうのこうの
 とする目的ではない。
  ちょっと走れば、燃料切れになる。
  日本の寄港地が、こういう事情から欲しかった。
  また、この軍艦が撃った弾がどうだったかの話は何も
 ない。
  撃った音に驚いたの話はあるが・・?
  その様な、その程度の破壊力だったのだ。がしかし・・、
1853年、この時、吉田松陰は・・、
  ペリーが来た時、チャンス到来とばかり、吉田松陰は、
 密出国しようとした。
  そして、行動を起こした。
  そして、幕府官吏に捕まった。
  松蔭は、下田に碇泊している黒船に舟で漕ぎ寄せて、
 乗船を乞うた。
  彼は、弟子の金子重輔と共に決行した、実行した。
  アメリカ側は、幕府との間で、外交問題に発展する事
 を恐れた。そして、拒絶した。
  松蔭は、下田の役人に逮捕された。
  そして、江戸の北町奉行所へ「唐丸籠(とうまるかご)」
 で護送された。
  唐丸=ニワトリを飼う籠に似ている所からこの名があ
 り、罪人を護送する籠で、上を網でおおった竹籠。
1853年、この時、井伊直弼は・・、
  井伊直弼は、この時、相模沿岸の警備にあたっていた。
  この頃から、開国和親の考えを持っていて、江戸城
 間詰の譜代大名らの保守派の代表となって、
  水戸の徳川斉昭らの強硬な攘夷論、幕政改革派とは、
 対立していた。
1853年、この時、長州藩は・・、
  ペリー来航の直後、長州藩は、軍艦建造など軍備の増
 強に力を入れ、戦う姿勢が盛んであった。
  この方針に反対する派は、乱費だとしたが、保守だと
 され、そして、罷免された。
  尊王攘夷の急進派が実権を握った。
  この路線で、長州藩は突っ走って行った。
  だから、高杉晋作らの松下門の過激派が暴走しても、
 彼らの行動は黙認された。
  逆に、庇(かば)われ、保護が与えられるという寛大
 さだった。
  しかし、長州藩も揺れた。
  俗論派とも、たびたび入れ替わった。
1853年、しかし、この時、全国は・・、
  品川沖の展開があっても、全国には、猛然と志士たち
 が立ち上がった。
  開国反対、外国人は打払うべしの攘夷論が、天下を覆
 い始めたのも、この時からだった。
 「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず」
  日本の志士たちは立ち上がった。
1853年、この時、江戸っ子たちは・・、
  江戸市中には、この時、市中に落書が張り出された。
  上喜撰(じょうきせん)というのは、上質の銘茶で、
 これを蒸気船にかけ、詠ったのが・・
 「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず」
 だった。
  上も下も、夜も眠れずに興奮していることを皮肉って
 いた。
  しかし、この騒ぎは、ほどなく、「何があったの?」
 という感じで静まったのだった。
1853年、この時、竜馬は・・、
  竜馬の家の身分は、武士と町人の中間に、曖昧(あい
 まい)に位置した。
  竜馬は、この封建身分制下の閉塞感を、特に、青年期
 にいる竜馬には、切実に感じ、意識していたようだ。
  身分的なコンプレックスはあったようだが、武士階級
 に憧れたという様子・気配はない。
  父や姉に勧められ、町道場の主になるつもりで、19歳
 の春に、江戸に剣術修行に出たのだった。
  入門先は、北辰一刀流千葉定吉の道場で、二流の道
 場だった。
  当時の一流は、江戸の三大道場で(千葉周作玄武館
 桃井春蔵士学館斎藤弥九郎練兵館)だった。
  竜馬は、世評に捉われないで、ただただ土佐藩邸から
 近いという理由だけで選んだ道場へ通った。
  竜馬の政治への目覚めは遅かった。
  しかし、この黒船の一件が、竜馬も、目覚めさせた。
  いっぺんに、竜馬を道場主の頭から、国士へと向かい
 始めさせたのだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive