(増補版)237D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1850年〜1851年)

題:(増補版)237D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1850年〜1851年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1850年(嘉永3年)10月11日《09/06》長州藩士の吉田松陰
 21歳)が、
  長崎へ来遊し、高島浅五郎(たかしまあざごろう、砲
 術家)を訪ねた。
  松蔭は、兵学師範の家を継いだので、
  長崎の警備の様子などの実際を見たかったのだろう。
  また、長崎には高島秋帆もそうだが、松蔭の様な先進
 的な人にも教授できる教養ある町年寄・通詞・町人など
 の多数が、
  存在する教養と文化のある都市だった。
  浅五郎は、高島秋帆の長男で、父に西洋砲術、および、
 荻野流砲術を学んだ。
  1841年には、父に従い、武蔵徳丸原で西洋砲術の演習
 を行なった。
  後に、幕府講武所の教授となり、大砲差図役になった。
1850年10月16日、松蔭が、平戸に向かった。
  松蔭の著の「西遊日記」に、山鹿流兵学の師の居住す
 る平戸藩に訪ねるの理由があった。
  唐人屋敷を見て、出島を訪れ、そして、
  オランダ船に乗り、船中で「酒と糠」でもてなされた。
  また、舟を雇って、西泊の番所や、石火矢台などを見
 て いる。
  平戸滞在は、10月19日《09/14》〜12月9日《11/06》の
 51日間だった。
  平戸の学舎・葉山佐内(はやまさない、または、葉山
 高行、平戸藩武士)に学ぶ・・とある。
  12月11日《11/08》、平戸からの帰りに長崎に来遊した。
  松蔭には、1851年1月2日、出発して、茂木から天草の
 富岡に渡る・・ともある。
  そして、1853年10月27日、ふたたび長崎へ、濱町に泊
 まる・・とある。
  そして、来泊中の露艦に乗り、密出国しようとするが、
 果たせず・・ともある。
  11月1日、長崎を出発し熊本へ向かう。
1850年12月、幕府、相模観音崎砲台を改築する。
そして、この年、幕府、佐渡海岸要地に台場を築く。
1850年12月、江川英竜が、伊豆韮山反射炉を築く。
1850年12月、鉄砲の鋳造や、
  および、領内・江戸藩邸内での軍事教練を、幕府に願
 い出る大名が、多数に及ぶ。
1850年高野長英、自刃す(46歳)(氷川清話)
1850年孝明天皇は、7社7寺に勅を下し、外患攘夷を祈祷
 させた。
1850年、仏船、来る(氷川清話)
1850年、神島、佐渡相川に砲台を築く(氷川清話)
1850年井伊直弼が、家督をついで掃部頭(かもんのかみ)
 と称し、藩政(近江彦根藩主)につとめた。
1850年頃、幕府の天領は、元々豊かな土地が選ばれていた
 が、
  その上、租税が安く、
  農家は、その為に、年々の生産に余剰を得て、
  その余剰分が、商品経済に関係して行ったりした。
  百姓屋敷なども、立派な場合が多い。
  奈良県は、大部分が天領であった。
  白壁屋敷が多いことなども、その要素を外しては考え
 にくい所となっている。
  天領の租税というのは4公6民という江戸初期の原則が、
 ほぼ貫かれていたようだった。
  幕末頃、紀州藩などは6公4民で、もしくは、もっとひ
 どくなるという惨状を呈した。
  紀州人は、今でも、紀州徳川家を懐かしむ所が薄い。
  天領であった倉敷(岡山県)の場合、「天領根性」と
 いう言葉が、今でも残っているくらいで、
  隣接する備前岡山藩(池田家)領の領民の貧しさを笑
 い、倉敷の豊かさを誇るところがあった。
1850年アメリカの議会が、日本をクジラ捕りの基地にし
 ようと決議した。
  そして、ペリーの日本派遣となった。
  ヨーロッパの贅沢のために、この様な動きとなった。
  ヨーロッパは、アジアなどの植民地からの利益の収奪
 で潤い、豊かな生活となっていて、夜遅くまで贅沢に暮
 らすようになっていた。
  クジラの油は、その為に、大量に消費されるようにな
 っていた。
  クジラは油を取るだけで、その他のほとんどが捨てら
 れた。
  可哀想なクジラの利用率だった。
  日本は、捨てる所がないほどに、クジラを生かしてい
 る。
1851年(嘉永4)1月、アメリカ船が、漂流民の土佐漁民・
 中浜万次郎らを、琉球に送り、上陸する。
  薩摩侯は、これを長崎に送った。
1851年1月、幕府、武蔵大森に大砲演習場の築造を決める。
1851年2月、幕命により異国剣付銃50挺を浦賀に贈る
1851年2月、幕府、水野忠邦の蟄居を解く。忠邦、翌日死去。
1851年3月、幕府、下田の警備を江川英竜に命ずる。
1851年3月、株仲間の再興許可。
1851年6月、長崎で、寄合町の筑後屋、遊女深山がフレデレ
 キ・コルネリウス・ロ−セとの間に女児「ひろ」を生む。
  今町の「とき」を雇入れ、筑後屋の遊女の籍に入れ乳
 母遊女として出島に入れる
  後に、「ひろ」(4歳)は、驚風症(小児のひきつけで、
 急に、高熱を発して目が紅く、混迷してひきつける、内
 に鬱熱あり、外に風邪をさしはさみ、心家熱を受けて積
 みて驚す)で、残念なことに死去してしまった。
  遊女は、日本語、オランダ語、マレー語の3か国語の
 混合の言葉で、紅毛人と会話していた。
  また、出島の遊女の部屋は、秩序正しく綺麗であるの
 記録がある。
  紅毛人は、家事を遊女に任せているが、解雇権を持っ
 ており遊女は遠慮がちである、
  これらの遊女たちは、ヨーロッパの大都会で見受けら
 れるような淪落(りんらく、落ちぶれて身を持ち崩すこ
 と)した淫乱な女だとは思われていない、
  貧しい親が、娘を養えないときは、6才から8才で茶
 屋へ連れていく、
  そこでは、都びた日本風の教育と躾を受け、小間使い
 として年長の遊女に従う
  14才になると、遊女になり
  25才になると、自由に身となって、良い結婚をして立
 派な母となる。
  日本人は、事情があって遊女になったのだからと優し
 い心で許した。
1851年7月、オランダ船が、長崎に入港し、太平天国の乱な
 どを報ずる。 
1851年8月、島津斉彬が、精煉所を鹿児島に置く。
1851年12月、イギリス軍艦が、那覇に入港した、
  艦長は、首里城に入った。
1851年、暮、本木昌造が、長年の苦心の末、種字から鉛の
 字母を作り、鉛と錫とアンチモンの合金で、丈夫な活字
 を作り、
  そして、流し込みの鋳型を作り、一通り出来上がった。
  1869年(明治2年)6月、本木昌造が、唐通事会所跡に
 長崎製鉄所付属の長崎活版伝習所を設立した。
唐通事会所跡は、興善町の(旧新興善小学校)の地。
  上海のミッションプレス美華書館の、活字技師・ガン
 ブルを招いた。
  中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の
 作り方を教授した。
  1870年(明治3年)3月、本木昌造が、日本活字を創製。
 新町に新町活版所を開き、活字鋳造と印刷事業を始める。
  日本の民間印刷所の始まり。
  1870年(明治3年)、大阪に、大阪活版所を開設。
1873年明治6年)、東京に、長崎の出張活版製造所
 (のち東京築地活版製作所)を開設。
1851年、アメリカの西部のララミーの砦に、スー族・シャ
 イアン族・アラパホ族などの有力部族が集まって、平和
 条約に調印した。
  それから4年後、ブラックフィート族が、調印して加わ
 り、アメリカ軍の領内の通過を認め、電信施設の設置を
 認めた。
  インディアンの人々は、金(ドル)を得て、食糧を買
 入れた。環境が全く変わり、そうせざるを得なかった。
  卑劣な事に、白人のアメリカ人は、インディアンの方
 々の食糧であるバッファローを、必要もないのに殺しま
 くった。
  それでも、1862年までの12年間、平和な状態が続いた。
  しかし、南北戦争が始まると、南軍も北軍アメリ
 軍は、インディアンの方々を味方にしようと工作して、
 その平和な状態は崩れた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive