(増補版)187D2/3:気になった事柄を集めた年表(1784年〜1788年)

題:(増補版)187D2/3:気になった事柄を集めた年表(1784年〜1788年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1784年、勝利に勢いづいた「できたての国・アメリカ」は、
 傲慢にも先住民のアメリカ・インディアンの方々を無視
 した。
  パリ条約が、1783年に締結されて、アメリカの独立が
 国際的に承認されたが、
  アメリカ領土の「本当の持ち主である先住民のアメリ
 カ・インディアンの方々」が、
  この戦争で、自分たちの国が、自分たちの国家が、持
 ちたいと戦ったが・・その可能性はまったくなかった、
 無視された。
  アメリカは、「ミシシッピ川以東の広大な土地を手に
 入れた」が、
  その後、スペインが、アメリカ合衆国と交渉している
 最中に、たまたま、「ミシシッピ川以西」の土地の問題
 を話題にした、
  (「以東」ではなく、「以西」の話をした)。
  その時、スペインのアランダ伯爵は、次の様に主張し
 た、「その地は『独立して自由な』インディアンたちの
 ものである」・・と。
  そして、言った、「あなた方アメリカ人は、それにつ
 いていかなる権利も持っていない」・・と。
  国際的に、これが常識だった。
  しかし、これに対して、アメリカは言った、「我々は、
 インディアンに対しては、土地の先買権を要求する(先
 買権を持ってないが、それを我々は得たいので要求する
 )」・・と、
  そして、言った、「それ以外の国に対しては、アメリ
 カ大陸全土の主権を要求する(アメリカ大陸全土の主権
 は持っていないが、持つことを要求する)」・・と。
  1784年になって、アメリカは、イロコイ族に、土地の
 一部を割譲する様に迫った。
  イロコイ族は、「被征服民族以外の何者でもない事」
 をおもい知らされた。
  アメリカ政府は、オハイオ渓谷や五大湖南部の土地を、
 独立戦争に参加した兵に分け与えた(インディアンの方
 々には無断で)。
  そして、この強引な、勝手な行為に対して、これ等の
 地のアメリカ・インディアンの方たちが何も言えない様
 に力でねじ伏せた。
  とやかく文句が言えない状態にした。
  「アメリカ合衆国の兵隊の数は、森の中の木と同じほ
 ど沢山いるのだ」・・と、アメリカ・インディアンの方
 々を見下した言い方で恫喝した。
  日本が、第二次世界大戦で敗北し、武装解除され、戦
 う戦力も解体させられた後、その様な弱い立場になった
 日本に対して、
  裁く法律もないのに、後追いで、日本を裁く法律を作
 ってまでして、日本を裁いたアメリカの傲慢さと同じだ
 った。
  逆に、当時、すでにあった、『一般市民の殺戮禁止』
 の国際法に、明らかに違反する行為をしたアメリカだっ
 た。
  裁かれる方は、アメリカ側にあった。
  (明らかに、広島・長崎の一般市民の方々を殺戮する
 事を意図した原爆投下。
  そして、東京をはじめ、日本の各都市の一般住民の人
 々を殺戮する事を意図した爆撃の仕方・じゅうたん爆撃
 で、多くの市民を殺戮した行為・・などなど)
  それらについて、アメリカは、ホッカムリしている。
1786年5月、林子平(はやししへい、経世家兵学者)が
 「海国兵談(かいこくへいだん)」16巻を脱稿した。
  そして、翌年から1791年までに自費で全巻を刊行した。
  この書は、当時、ロシアが千島列島や蝦夷地を南下し
 ている新情勢に対して、日本を守るために海防が必要で
 あると説いている。
  国防の急務を説いているのだが、幕府に忌まれ、1791
 年に絶版になった。
  林子平は、日本は海国と捉え、それにふさわしい軍備
 を要すると説き、
  海軍を設立し、全国の海岸に砲台を設置することが緊
 急に必要と説いた。
  特に、日本の中枢である江戸の沿海部の防備が重要と
 説き、江戸湾頭に有力諸侯を配置して防備にあたらせる
 ことの緊急性を説いた。
1786年7月14日、天災:関東が大雨が続き、大洪水となった。
1786年8月2日、幕府が、7月の大洪水で浸水被害にあった
 御家人へ救助金を貸し与えた。
1786年8月4日、幕府が、関東大洪水により、損害のない国
 々からの食糧回送を命じた。
1786年8月27日、老中の田沼意次が、25日の将軍・家治の死
 とともに解任された。
1786年9月、米価が高騰した。
  幕府は、問屋・仲買人ほかに、手持ちの米などを売買
 する様に令した(これは、逆効果になって11月に撤回し
 た)。
1786年9月19日、幕府が、諸国に酒造米の半減を命じた。
1786年閏10月、田沼意次が減封され、相良城が没収された
 (1787年説あり)
1786年、探検:蝦夷地を、最上徳内らが探検した。
  幕府役人の最上徳内が、1786年に、千島列島のウルッ
 プ島まで調査した。
  そして、たまたまウルップ島に上陸したロシア人から
 聞いたロシア事情をまとめた。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
 教会を見るためにアッシジに来たという。
  ただ、屋上からの景色を見たいため・・、
1787年4月15日、徳川家斉が、第11代将軍になった(1773年
 〜1841年)、(将軍期間、1787年〜1837年)
1787年5月20日、事件:江戸打ち壊し、
  天明の江戸打ち壊しが起きる。
1787年5月、事件:大阪の町人が騒乱
  米の価格が上がり、江戸と共に大阪の町人などが騒乱した。
  (天明の打ち壊し)、また、各地に騒乱が起こる。
1787年6月19日、松平定信が老中首座になった。
1787年7月、寛政の改革が始められた(〜1793年まで)
1787年8月、令:倹約令
  松平定信が老中頭となり倹約令を発した(〜1793年)
1787年9月4日、二宮尊徳(にのみやそんとく、たかのり、
 農民思想家)が神奈川県に生まれた(1787年〜1856年)
  農家の生まれ。勤倹努力の人。
  諸藩・諸村の復興に尽力する、指導者。手がけた事業
 は多数(600村など)。
  幕臣となった、そして、日光領の復興に従事した。
  徹底した実践主義者で、その思想・行動は報徳社運動
 として受け継がれた。
  「大事をなさんと思わば小なることを怠らず勤むべし、
 小積りて大となればなり 」
1787年9月27日、田沼政権が設置した鉄座・真鍮座が停止さ
 れた。(8月説あり)
1787年11月26日、幕府が、田沼政権によって行われた極印
 制と人参座を廃止し、元飯田町に人参製法所を設置した。
1787年アメリカ合衆国憲法を制定:アメリカ合衆国
 成立
  奴隷制などの人種差別を残している。
  アメリカは、黒人の方々の差別の克服に、今・現代も
 できていない国となっている。
1787年オスマン戦争が起きた。
  ロシアとオスマン帝国との12回ある戦争の内、7回目の
 戦争。
1788年1月26日、米屋への打ち壊しが頻発するため、幕府は、
 米の売り惜しみや、酒の密造を禁止した。
1788年、田沼意次が没した(1719年〜1788年)
1788年4月29日、幕府が、定額貨幣の南鐐(なんりょう)二
 朱銀の鋳造を停止し、従来通りの秤量貨幣丁銀を新鋳し
 た。
1788年、司馬江漢(しばこうかん、絵師、蘭学者)が、江
 戸〜長崎を往還(西遊日記・さいゆうにっき)
1788年、古河古松軒(ふるかわこしょうけん、旅行家、地
 理学者)が、江戸〜松前を往復(東遊雑記・とうゆうざ
 っき)
  古河古松軒が幕府巡見使に従い、奥羽地方蝦夷地を
 視察した半年間の紀行誌。
1788年、第一次ロシア・スウェーデン戦争が起きた。(〜
 1790年)
  北方の覇権を確立し対ロシアに対し、スウェーデンが、
 外交によって、内政干渉デンマークとの協力関係を撤
 廃しようと画策したが、いずれも目的を果たせなかった
 ため、開戦に踏み切った。
1788年1月26日、イギリス人が、オーストラリアのシドニー
 のボタニー湾に上陸した。
  総督のフィリップ以下、1044人。
  そして、この年から、オーストラリアのニューサウス
 ウェールズが、アメリカに代わって、イギリスの囚人の
 はけ口となる(イギリスの国民放棄行為)。
  1788年の第1船団のイギリスからの囚人が着いた時か
 ら、
  そして、この後、先住民のアボリジニー方々は、まる
 で動物の様に撃ち殺されることとなる。
  動物の狩りをするごとくに、キリスト教徒のイギリス
 人は、アボリジニーの方々を殺した。
  イギリスの囚人輸送は、1868年まで続いた。
  そして、延16万人もの多くの、気が遠くなるほどの人
 数の囚人をイギリスは送った。
  イギリスから送られた囚人は、常習犯だった。
  イギリス国内では貧困に苦しんでいた。
  イギリス政府の役人は囚人たちを軽蔑していた。
  この囚人たちは、安価な労働力以外の何物でもないと
 されていた。
  囚人たちは、その抑圧のはけ口を、自分たちより弱者
 のアボリジニーの方々へ向けた。
  特に、最初に送り込まれた囚人たちの5分の4は、男囚
 であったことから、
  アボリジニーの女性の方々への性的な犠牲者になりう
 るに十分な理由でもあった。セックス・スレイブにされた。
  後になっても、この様な状況は続いた。
  それは、この様な状況が、イギリス本国へ伝わり、良
 い立場の人々がオーストラリアに渡りたがらなかったか
 らで、
  一般のイギリス人がオーストラリアに渡って来ても、
 一般人の「二級」の移住者しか集める事ができなかった。
  アボリジニーの方々は、抑圧されていた白人層の不満
 のはけ口となった。
  イギリス人のアボリジニーの方々に対する先入観は、
 18世紀のヨーロッパ人のいだいていた狩猟民族について
 のステレオ・タイプ(思い込み、固定観念、レッテル、
 偏見、差別)と同類だった。
  それは、アフリカの黒人の方々へも抱いていた「野蛮」
 な種族で、白人に劣る「薄汚れた」人間と考えていた。
  アフリカの黒人の方々が、安価な労働力として奴隷貿
 易の対象となったのも、その様な見方から来ていた。
  キリスト教の有色人種に対する蔑視の見方に洗脳され
 ていた。
  『人間とは考えられない』という洗脳だった。
  『白人から劣る種族』という洗脳だった。
  そして、卑劣な事に、イギリス本国が、アボリジニー
 の方々の土地を一方的に取り上げ、その土地の占有を宣
 言したのだった。卑劣な宣言だった。
  そして、異教徒だからと法廷での証言の権利を与えな
 かった。
  イギリスの法の、一方的な勝手な押し付けをしておき
 ながら、権利を認めなかった。
  また、そのイギリスの法や、その運用など何らアボリ
 ジニーの方々へ知識を与えなかった、説明もしなかった。
  一見、人道主義的に見える様な事をするが、それは詭
 弁に過ぎず、現実は『合法的』搾取できる対象としての
 アボリジニーの方々だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009