(増補版)177D2/3:気になった事柄を集めた年表(1767年〜1768年)

題:(増補版)177D2/3:気になった事柄を集めた年表(1767年〜1768年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1768年、日本の総人口:26,252,000人
1768年8月、佐渡一揆が起きる(1767年説あり)
  新潟明和騒動、不景気に加え凶作に苦しむ新潟町民に、
 財政難の長岡藩が、1768年に、多額の御用金・1500両を
 掛けた。
  不景気に苦しみ、上納金完納の期日も迫り、返済に困
 った町民は、リーダー・涌井藤四郎を中心に協議した。
  藤四郎は、御用金の納入期限延期や、不正な徴税に一
 役買っていた町役人の公選制などを求める嘆願書を提案
 する。
  しかし、この動きが奉行所に漏れ、首謀者として涌井
 藤四郎が捕縛され、投獄された。
  これがきっかけとなって、怒った600余人の町民は、豪
 商らの家を打ち毀し、奉行所へ押しかけた。
  町役人は敗走した。
  涌井藤四郎は釈放され、2日間にわたる打ち壊し騒動
 ののち、
  藤四郎は、役人への安易な暴力を「無駄だ」と制して、
 自体は沈静化した。
  町民は、夜道の見回り、米の買占め防止、質屋の法外
 な高利の取締りといった策を講じた。
  そして、秩序を保ち、新潟町は、奉行に代わって涌井
 が町政を掌握し、約2か月間、町民自治を実現した。
  しかし、長岡藩の巧妙な策の前に、首謀者として次々
 に逮捕された。
  その後、1770年8月に、長岡藩は、騒動の一切の責任を
 まとめ役だった涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛の2人におわ
 せた。
  そして、この月の8月25日に、斬首の刑にした。
  この様にして、約1年半後にして、この処刑によって事
 件は落着させられた。
1768年8月25日、イギリス人のクックが、この日に、イギリ
 ス南部の町・プリマスを出航した。
  この後、リオデジャネイロを経由し、南米大陸南端の
 ホーン岬を通り、太平洋を横断して西へ進み、
  翌年の1769年10月6日に、ニュージーランドに達し、
 クック海峡を通過し、オーストラリア東岸を発見する。
 (〜1771年、第一航海)
1768年、ロシア・トルコ戦争が起きた。(〜1774年)
  16世紀の後半から19世紀にかけて、ロシアとオスマン
 トルコ帝国との間で、黒海、および、その沿岸地方の支
 配を巡って、11回の戦争が繰り広げられた。
  この1768年〜1774年の戦争は、6回目の戦争にあたる。
  この時の戦いは、ロシアは、帝国の膨張を目ざしてト
 ルコ支配下のクリミア地方に侵入して戦った。
  その結果、1774年に、クチュク・カイナルジ条約を結
 び、ロシアは、黒海北岸を領有し、ついでクリム・ハン
 国を、1783年に、併合した。
  クリム・ハン国は、1426年頃、クリム(黒海に突出し
 た半島)を中心に成立したモンゴル系のハン国。
  15世紀後半に、オスマン帝国の属国になっていて、今
 回の1783年に、ロシア帝国に滅ぼされた。
1768年、キリスト教イエズス会が、パラグアイから追放
 処分を受けた。
  領土的野心を持っているイエズス会は、日本にも来た
 キリスト教宣教師・ザビエルも、イエズス会である。
  また、これに先立って、ポルトガルやスペインも、『
 イエズス会を追放処分』をしている。
  因みに、上智大学は、イエズス会である。
1768年5月、プロテスタント教会の大きな勢力となったいる
 メソジスト教会メソジスト派)。
  その創設者で、オクスフォード大学教授でもあるジョ
 ン・ウェズリーは、
  その「信仰日誌」の、1768年5月25日の所に、こう書き
 付けた。
  「一般のイギリス人は、いや、ヨーロッパの学問ある
 人たちの大部分は、魔女や、超自然的現象に関する話を、
 単なる老婆のおとぎ話として黙殺してしまった。
  これは、遺憾なことである・・、
  魔女を黙殺する事は、聖書を黙殺するに等しい。・・
  私は、私の最後の息でもって、目に見えない世界につ
 いての一つの偉大な証明を・・、
  すなわち、既に、あらゆる時代によって確認されてい
 る魔女と超自然現象とについての説明を、不信心者に示
 したいと思う…」・・と。
  魔女裁判に関する限り、宗教改革は、宗教制度の改革
 であっても、『宗教精神の改革ではなかった』。
  改革者は、古い教会のドクマチズムにプロテストして
 直接、聖書に帰依した(ドクマに盲信した)。
  神と直結した「キリスト者の自由」はそこから生まれ
 たはずであるとした・・が、
  しかし、改革者にとっては、神の言葉の解釈は、ただ
 一つしかなかった。
  そのただ一つの解釈は、『自分自身の解釈』以外のも
 のではなかった。
  新教のイントレランス(不寛容)がそこから生まれる
 のは当然であった(魔女狩り岩波新書
  その不寛容によって、
  多くの魔女にされた方々が、
  長い期間、
  あらゆる所で、
  キリスト教の不寛容で殺され続けた。
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