(増補版)212D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年〜1822年)

題:(増補版)212D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年〜1822年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1822年(文政5年)、日本の総人口、26,602,110人
1822年1月、宇田川榕庵(うだがわようあん、蘭学者)が、体
 系的植物学を、日本に最初に紹介した「菩多尼詞経(ぼた
 にかきょう)」を刊行した。
  津山藩の侍医。
  1826年に、幕府天文方の蕃書和解(ばんしょわげ)御
 用訳員となっている。
  日本の近代植物学の開祖と言われている。また、日本
 の化学の開拓者とも言われている。
  多数の訳書により西欧の化学・生物学・薬学を紹介し、
 通じた人だった。
1822年閏1月6日、戯作者の式亭三馬が没した(47歳)
1822年2月16日、幕府が、全国の人口を調査。日本の総人口
 は、26,602,110人だった。
1822年2月、八百善主人・栗山善四郎の「江戸流行料理通」
 初編が刊行された(翌年完結)。
  八百善(やおぜん)は、会席料理を確立し、江戸で最
 も成功した料亭である。
  四代目当主の栗山善四郎は、多才で、多趣味で、一流
 の文人墨客との交流を深める人だった。
  蜀山人に、「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者
 は小萬 料理八百善」と言わしめた。
  そして、「江戸流行料理通(りょうりつう)」は、当
 時の料理テキストと言うべきもので、
  1種の材料に対して100の料理法を記しているという。
  素材に関しても、和漢の文献を集めて、知的興味を満
 足させる様な記述をし、
  中国料理の紹介や、救荒対策の書もあり、また、最高
 級の料亭料理の贅沢を尽くした記事など、
  また、一流の、高名な文人、画家が、序文や口絵を書
 くという高尚な書だった。
1822年3月12日、上杉鷹山が没した(72歳)
  アメリカのケネディ大統領が、「上杉鷹山は私の最も
 尊敬する日本人だ」と言ったが、
  鷹山は、上杉藩の養子藩主であった。
  清貧で、どん底の上杉藩を救った。
  その基本理念は、「藩主は、人民と国家のために存在
 するので、人民と国家が、藩主のために存在するのでは
 ない」という主権在民の思想で、当時の人達を仰天させ
 るものだった。
  ルソーの社会契約論が発表しされたのは、鷹山が12歳
 の時で、この著作を読んでいたことにはならない。
  また、フランス革命が成功し、人権宣言が発表される
 のは、鷹山が39歳の時であった。
  世界の最先端の思想の持ち主だった。
  米沢の上杉神社に祀られ尊敬を集めている。
  世界の偉人と言うべき人である。
1822年4月、イギリス船を救助する
  イギリスの捕鯨船が、浦賀に漂流して来て、薪水、食
 料の救助を求めたので与えた。
  「文政雑記」に以下の様に記されている。
  漂流英船ニ薪水補給
浦賀奉行小笠原弾正長保・内藤十次郎、弾正諾中
  文政五年壬午五月 日イキリス船長弐十五間
  帆柱三本 帆九ツ表ニ三つ 中ニ壱つ舳ニ二つ
 都合帆十枚 壱艘漂流ス、同月八日帰帆、其節固之
 人数松平越中守・松平大和守・大久保加賀守三家
 人数合て千七百八十人浦賀固共弐千三百人程
 其節イキリス江被下物
 左之通り
  五月朔日 水十八荷   松薪拾把
  同二日  水十四荷   松薪拾把
  同三日  水十荷     松薪拾把
  同四日  山土弐樽   大根拾把  
         蕗 十五把、梅二升、杏 一升  
         枇杷二升、  鶏 拾把 但アヒル二ツ
         松薪 拾把 
  同五日  山土拾四樽、水三百弐拾荷、
         生魚 大小弐十
         ライ麦 一俵但四斗五升入 
         白米二俵但四斗五升入
  右之通被下候也
  訳文:漂流のイギリス船に薪水補給
     浦賀奉行小笠原弾正長保、内藤十次郎
     文政5年(1822年)5月イギリス船
     (長さ25間、帆柱3本、帆9、表に三つ中に壱つ
     舳先に弐つ合計10枚)が壱艘漂流してきた。
  同月8日に帰帆したが、その時の警固人数は、松平越中
 守〔白河藩)、松平大和守〔川越藩)、大久保加賀守〔
 小田原藩)の三家1788人、それに浦賀奉行組合せて2300
 人程、
  その時イギリス船に与えられた物左の通り(略す)
1822年5月、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、銅版画家)
 が没した(75歳)
  「浅間山図屏風」六曲一隻、重要文化財
1822年8月、幕府が、水油高値により大坂油問屋以外への売
 買を禁止した。
  水油(みずあぶら)は、液状の脂の総称で、頭髪用の
 つばき油・オリーブ油・ごま油と、なたね油などの灯油。
1822年8月、塙保己一編の「続群書類従(ぞくぐんしょるい
 じゅう」が完成した。
1822年8月、西国で、10月にかけてコレラが流行(日本最初
 のコレラ流行)。
  1817年以降、6回の世界的大流行を起こしていた。この
 年・1822年に、日本にも及んだ。
  感染ルートは、朝鮮半島あるいは琉球からと考えられ
 ていて、九州から始まって、東海道に及んだものの、箱
 根を越えて江戸に達する事はなかった。
  2回目の世界的流行時には、日本は波及を免れたが、3
 回目には再び日本に達し、
  1858年は悲惨だった、3年間にわたり大流行した。
  この流行は、相次ぐ異国船の来航と関係し、異国船が
 もたらした(裏付けないともされている)。
  1862年には、残留していたコレラ菌により大流行が発
 生、56万人の患者が出た。
  この時に江戸に入って、7万3000人〜数十万人が死亡し
 たという文献もあり、また、江戸に入らなかったという
 文献もある。
1822年11月27日、日本中を涙させた幼女の死、
  少女の名は露、
  因幡国鳥取県鳥取藩の支藩若桜藩の藩主・池田
 定常(いけださだつね)の16女として生まれた。
  彼女は、疱瘡(ほうそう、天然痘)のために、この日
 に、短い生涯を終えた。
  彼女の没後、しばらくして利発だった彼女の書いた手
 紙や、幼いながら死を覚悟していたのか、その様な書も
 見つけられた。
  池田定常は、可愛いかったのだろう、亡き姫をしのん
 で、それらの書を模刻して(忠実に模した複製を木版印
 刷して)親戚や知人に配った。
  利発な彼女のその一つ、稚児桜を詠んだ句
  「つゆほどの はなのさかりや ちござくら」
  6歳の自分の死を予感していたのだろうか?
  今の世の様に、良い薬が、進んだ医学があったら・・、
  玉露童女(6歳)没。
..
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