(増補版)121D1/3:気になった事柄を集めた年表(1657年〜1660年)

題:(増補版)121D1/3:気になった事柄を集めた年表(1657年〜1660年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1658年、尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家)が生
 まれた(1658年〜1716年)
  フェノロサが、光琳を「世界最大の装飾画家」と呼ん
 だ。
  「燕子花図」(かきつばたず)六曲屏風、(国宝)
  「八橋図」六曲屏風二隻、メトロポリタン美術館
  「紅白梅図」二曲一双屏風、(国宝)
  「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(やつはしまきえらでんすずり
 ばこ、国宝)
1658年9月、江戸に定火消し役を設置した。
  4千石以上の旗本4人に火消屋敷(飯田橋、佐内坂、
 お茶の水、麹町)が与えられ、幕府直轄の組織を結成し
 た。
  寄合4名に火消し役が命じられ、与力6騎、同心30人ず
 つが預けられ、江戸定火消制度を創立した。
1658年、社会資本整備・物部川
  野中兼山が、物部川に山田堰を築造した。
  この秋に、諸国に風水害が起きた。
1658年、老中:稲葉正則(いなばまさのり)が老中となっ
 た。
  稲葉正則は、小田原藩第二代藩主で、祖母は春日局
  黄檗宗隠元と交流し、黄檗宗を外護した。
1658年、江戸大火と諸国風水害
  江戸大火と諸国風水害のため、酒造高を制限した(〜
 1660年まで)
  また、酒造制限の理由のもう一つの理由は、幕府は、
 米の需要と米価調整の立場から、
  農民より貢租として徴収した米を換金して、幕府や領
 主の経済を支える財源としたので、
  米の需給と米価の動きにきわめて強い関心を持ってい
 た。
  そのため、米価調節の必要から酒造制限令を公布した。
  酒造で米の需要が増えれば、米は品薄となり、米価は
 上昇する。
1658年、間数絵図
  江戸町に間数絵図作成を命じた(万治間数絵図)
1658年、流通:年貢米の江戸・大阪への集中出荷体制が確
 立した。
  加賀藩が、「御召米」制度を実施した。
  藩士年貢米を藩政庁が一括購入集荷する(年貢米の江
 戸・大阪への集中出荷体制が確立)
1659年、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が生まれた(
 1659年〜1703年)、
  大石良雄(おおいしよしお)とも言う。
  播磨国赤穂藩の筆頭家老。忠臣蔵で有名。
1659年、井伊直孝(いいなおたか)が没する(1590年〜
 1659年)近江彦根藩第2代藩主。大老
1659年、江戸城
  江戸城の本丸御殿が、再建され、完成した(江戸城
 復興)。
  ただし、天守閣は再建されず。
1659年、修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)が完成し
 た。
1659年、道中奉行を設置した(大目付の兼職)。
  初の道中奉行に、大目付の高木守久を任じた。
  五街道を管理し、宿場や飛脚など交通通信に関する行
 政にあたった。
  道中奉行を置き、五街道の整備を進めた。
1659年、幕臣の入番制を定めた。
1659年、明の儒者朱舜水(しゅしゅんすい)が帰化(亡
 命)する。
  徳川光圀は、朱舜水を敬愛し、水戸学への思想的影響
 を与えた。
1659年、社会資本整備・両国に架橋(完成)した。
  明暦の大火(1657年)の後、幕府は市街地拡大のため
 に一帯を開発した。
  橋名は川をはさんで武蔵と下総の両国に架された事に
 ちなんでいる。
1660年、幕府と諸藩の窮乏の根本的な原因
  生産力の発達は、必ずしも領主財政の発展とは結び付
 かなかった。
  むしろ、それは、17世紀後期から顕著になった幕府と
 諸藩の窮乏の根本的原因となっていた。
  領主側の徴税力が相対的に低下して来ていた。
  また、商品数も豊富になり、それを買うための米価の
 上昇より、その他の物価の上昇の方が大きかった。
  武士の世界から、その商品を扱う経済の側にいる商人
 に世の動きが握られて行った。
1660年、農業:大規模な新田は商品作物栽培の場だった。
  領主側は、本田に商品作物の栽培を早くから禁じたが、
 治水土木技術の躍進によって、17世紀後半からは、従来、
 手が付けられなかった大河川の下流域などが、良質の新
 田として開発された。
  莫大な経費を投じた大規模は新田は、もっぱら商品作
 物栽培の場となった。
  こうして産業経済の発展の成果を、領主側は、十分、
 吸い上げる事が出来なくなって行った(米中心の石高制
 であったため)。
  この様な支配体制の盲点をついて発達した生産力の成
 果に潤ったのは誰だったか?
  一つは京・江戸・大坂、いわゆる三都の問屋・豪商に
 代表される町人層であった。
  近世初期の華やかな対外貿易の潮流に乗った貿易商人
 たちは、既に、経済界の主流から退いていた。
  新たな元禄期の経済成長の波に乗って出てきた商人の
 一つは、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門ら一攫千金
 の投機商人であったが、これはたちまち没落して消えた。
1660年、堀田正信:幕政批判者に対し、領地没収し、配流
 した。
  下総佐倉10万石の城主・堀田正信は、当時の幕臣らの
 施政が悪いと、今、世は上下ともに甚だしく困窮してい
 ると、
  そして、自分の領地を、困窮している旗本・御家人
 ちに分配して欲しいという意見書を幕府に提出した。
  そして、無断で江戸から佐倉へ帰国した。
  幕府当局は、これを異常な行為・狂気の沙汰だとして
 領国を没収し、信州飯田へ配流した。
1660年、風俗:旗本奴と町奴・・
  17世紀後半に入ると、近世社会が確立して来ると、「
 かぶき者」も、次第に特定の集団に限られて来た。
  そこに出現した旗本奴と町奴。
  奴と言えば、武家の下級奉公人の事であるのだが、そ
 の家に代々住み付いて、子供の時から仕える譜代奉公人
 が禁止されたので、年期奉公人となり、
  その年季も短くなって、期間が1年とか半年という、い
 わゆる1期半期の出替わり奉公人に変わって行った。
  農村から都市へ流れ込んだ人たちは、親戚や知人など
 の身元保証人のない場合、人宿、あるいは口入と呼ばれ
 る者を頼って、奉公先を世話してもらった。
  彼らは、人宿の出居衆・寄子などと称された。
  この社会に「かぶき者」の風俗が継承された。
  人宿の主人が親分で、出居衆が子分となり、町奴の組
 が結成された。
  幡随院長兵衛は、口入の主人だったと推定されている。
  これに対し、旗本奴は、主要構成員は中下級の旗本や
 御家人、その次男・三男など、いわゆる部屋住の冷飯食
 や浪人などであった。
  これら無頼の武士や奉公人などが、集団を結成し、喧
 嘩・博打で市街を騒がせたが、その舞台は、もっぱら新
 吉原などの遊郭に限られるようになった。
  彼らには、初期の「かぶき者」の持っていた上からの
 秩序形成に対する横の団結による抵抗の精神は消え、都
 市生活における退廃性を濃厚にしていった。
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