(増補版)91C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年7月〜1590年12月)

題:(増補版)91C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年7月〜1590年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1590年8月1日、徳川氏、関東入国。「江戸御討ち入り」
  豊臣秀吉によって、東海の旧領5ヶ国から関東へ、
  そして、三河以来の武将の存在が小さくなり、官僚的
 組織によって、家康の体制が形成されていく。
  この関東転封は、論功行賞の美名に隠れた秀吉の大名
 統制策の一環だった。
  これより先、奥州転封の噂が飛んでいた。
  この時、井伊直政・本田忠勝・榊原康政の3人衆は、
 不満を唱えた。
  それに対して、家康は、「そう心配しなくても良い。
 百万石の加増であれば、たとえ奥州でもよいではないか。
  人数を大勢めしかかえ、3万を国に残し、5万を率いて
 上方に攻め上れば、天下に恐れる者はない」・・と言っ
 たという。
  家康の関東領国は・・、
  武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野の6ヶ国で、計
 240万2000石であった。
  その他に、近江・遠江駿河・伊勢のうちに、10万石
 の領地があった。
  当然、秀吉に従う諸大名の中で、最大の所領高であっ
 た。
  家康は、まず、武蔵をはじめ、江戸の周辺諸国に100万
 石を上回る直轄地=天領を設置した。
  そして、徳川一門・譜代上層の中から、42名の者を万
 石以上に仕立て、
  北条氏の一族や家臣の支城を中心に、領国外の敵対勢
 力に対抗するような形で、有力な上級の家臣団を、領国
 の周辺部に置いた。
  そして、1、2万石以下、および、中・下級の家臣団
 を領国の中央部に配置した。
  領国の中央部に配置した中小級の家臣団の内、下級の
 家臣団は、そのほとんどが旗本となり、
 江戸幕府のいわゆる直属家臣団を構成して行く。
  家康は、知行割に際し、彼らには、江戸から10里ない
 し20里以内の所で、分散的に知行地を与え、そこに簡単
 な陣屋を造らせて、江戸に通勤させた。
  この様に、下級の家臣団の知行地を、中央部の江戸の
 近くに割り当てたのは、彼らが徳川氏の常備軍として、
 江戸城を守る任務を持っていたからだった。
  特に、常備軍の中心をなす大番6番は、江戸城の西北部
 (麹町・市ヶ谷方面)に宅地を与えられた。
  これが、いわゆる番町であり、旗本の屋敷地となった。
  家康は、江戸に入城すると、江戸城の整備は応急修理
 にとどめて、江戸の町づくりに邁進した。
  まず、必要な事は、江戸城へ軍事物資を入れるための
 船入堀の開堀であった。
  家康は、本田正信を総指揮として、東京湾にそそぐ平
 川の河口から江戸城に通ずる堀、三堀の開堀に着手させ
 た。
  堀普請についで、町場の中心となる本町の町割りを実
 施した。
  道幅は6丈(18メートル)、一町は40間(73メートル)
 の区画であり、町割りが済むと移住者を募った。
  これには京都の豪商で、すでに家康に親近していた茶
 屋四郎次郎が活躍した。
  こうして、江戸の新しい町が出来て行ったが、家康は
 それとともに、町方の支配組織を整えた。
  まず、駿府町奉行を務めた板倉勝重を、江戸の町奉
 行に任命した。
  そして、家康は、天下の情勢も一応安定した、1592年
 になって、本腰を入れて江戸城の修築に取り掛かり、
  本田正信を総指揮として、西の丸の建設を始めた。
  しかし、江戸城が、名実ともに完成するのは、覇権が
 確立しての後であり、
  江戸の町も、数次にわたる江戸城の拡張工事と密接に
 関連しながら発展して行った。
  江戸の町づくりで重要な事は、豪商との結びつきが深
 くなったことであった。
  「慶長見聞集」に、家康が入府した頃の事が記されて
 いる。
  「草に果てなき武蔵野」、「茅(かや)ぶきの家、百
 ばかりも、あるかなしかの体(てい)」、
  また、司馬遼太郎の「街道をゆく(1)」には、
  「城は、かたちばかりにして、城の様もこれなく」「
 甚(はなは)だしき古屋(ふるや)」と、屋内は雨漏り
 して、敷物なども腐っていたと、
  玄関にあがる踏み段には、舟板二枚が使われていると
 いう粗末さ、
  玄関の他は、板敷きの間などはあまりなく、部屋は、
 ほとんどが土間だったという。
  屋根は、瓦でなく薄手の板葺であった・・とある。
1590年、徳川家康が、関東移封になった、この時・・、
  秀吉は、下総結城城(茨城県結城市)の大名・結城晴
 朝から養子斡旋を頼まれ、自分の養子としておく必要が
 無くなった家康の次男の秀康を、結城家の養子に出した。
  体のいいお払い箱だった。
  その後、秀康は、自分の弟の秀忠が、将軍に上り詰め
 て行く姿を、複雑な思いで見ていたのだろう。
1590年9月1日、秀吉が、京都に凱旋した。
  秀吉が、小田原から奥州を回って、京都に凱旋した。
1590年、信長の弟・信包(のぶかね)は、伊賀上野の城主
 だったが、
  信長の死後、秀吉に味方して伊勢の津(つ)城(当時
 は安濃城・あつのじょう)の城主となった。
  信包は、小田原の役の時、北条氏の命乞いを仲立ちし
 て、秀吉の不興(ふきょう)を買い、
  やがて、城を没収された(1590年)。
  そして、野に降った。
  しかし、彼は、淀殿織田家の血を引くことから秀頼
 に味方し、大阪城と関係を持ち、大阪冬の陣の直前に死
 んだ。
1590年、秀吉が、若く苦労した頃、仕えていた松下加兵衛
 之綱へ恩返しをした。
  この恩人を、遠江・久野城の城主にした。
  これは、小田原征伐後の論功行賞でもあったが、
  徳川家康が関東に移った後、その遺領に豊臣の大名を
 配置するという一環でもあった。
  松下加兵衛之綱は、1万6000石の大名として入府した。
  この人は今川義元の家臣であった。そして、土豪(地
 侍)であった。この頃に、秀吉は恩を受けていた。
1590年、この年に、ドイツを旅した旅行者が書いた記録が
 残っている、「魔女の処刑場は、おびただしく立ち並ん
 でいる処刑柱は、まるで小さな森の様に見えた」・・と、
  ジュネーブでは、3ヶ月に500人(1513年)、
  トレーヴス(ドイツ)では7000人が焼かれ、そのため
 に2つの村は全滅し、別の2つの村では生き残る者、2人
 だけとなったと(1580年代)、
  ザクセンでは1日の内に133人(1589年)、
  アルザスのサン・アラマンでは、1年間に200人以上(
 1596年)、
  ラブールでは4か月間に600人(1609年)、
  ストラスブルクでは5000人(1615年〜1655年)、
  ヴェルツブルクでは800人、
  バンベルクでは1500人・・など・・など・・
  これらの数字は、散在する残存記録の中から拾い出さ
 れたほんの一部に過ぎず・・その他にも、イタリアでも、
 スペインでも、イングランドでも、スコットランドでも、
 ポーランドでも・・でも・・でも焼かれた。
  最後は、新大陸アメリカのニュー・イングランドにま
 で飛び火している(セーレムの魔女事件)、
  この忌むべきキリスト教の魔女旋風が、中世前期の暗
 黒時代においてだけではなく、合理主義とヒューマニズ
 ムの旗色あざやまなルネッサンスの最盛期においても吹
 きまくっていた。
  しかも、この非人間的な旋風を煽り立てた人間たちが
 一般の方々ではなく、歴代のキリスト教法皇や聖職者で
 あったということ、
  魔女の話が昔からあったが、キリスト教会がひたすら
 権威と権力を張り巡らし、この上ない組織的な魔女裁判
 によって、魔女狩りが行われた。そして、1600年頃をピ
 ークとして300年から400年間に亘って、長い期間、人々
 を苦しめていた。
  キリスト教に偏するNHKは、この真実を、まったく
 放送しない。
  キリスト教を美化する放送ばかりをしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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