(増補版)89C2/3:気になった事柄を集めた年表(1585年12月〜1587年12月)

題:(増補版)89C2/3:気になった事柄を集めた年表(1585年12月〜1587年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1586年2月、秀吉が、聚楽第の工事を始める。
  秀吉が、2月下旬、聚楽第工事を始め、関白としての
 政庁を新たに京都に築いた。
  こうして、関白という形で、秀吉の武家政権はスター
 トした。
1586年3月、秀吉が戦艦(ガレオン船)の発注をしている。
  秀吉には、日本平定後の世界があった。
  その考えは、信長の「明侵攻計画」に影響を受けてい
 た。
  秀吉は、この時、キリスト教宣教師ガスパール・コエ
 リョに2隻の大型戦艦を発注をしている。
  そして、「日本を弟の秀長に譲り、唐国の征服に移る
 つもりで、そのため、新たに2000隻の船の建造を始めて
 いる」と告げている。
1586年頃、秀吉が、姉の子供を養子に迎える。
  自分の子・秀勝が亡くなった後、信長から於次秀勝(
 自分の子供の名前を秀吉は名付けた)を養子としてもら
 ったが、この於次秀勝が亡くなって、可哀想に、こうい
 う意味で秀吉は不幸だったが、
  秀吉は、今度は、姉・ともの子・小吉を養子に迎え、
 羽柴秀次と名のらせた。(1585年7月頃?)
1586年12月、秀吉が、九州征伐命令
  秀吉が、1586年12月に、諸国の大名に九州征伐の出動
 準備にかかるように命令した。
1586年12月19日、秀吉が、太政大臣に任じられ、それまで
 の近衛前久の猶子(ゆうし、兄弟の子)として藤原姓で
 あったのを改め、姓を豊臣にする(豊臣の姓を受けた)。
1587年、秀吉が、名護屋城を築く。
  対馬海峡を望む静かな九州西北端の漁村にある添垣城
 (そえがきじょう)を太閤秀吉はつぶして、高さ87メー
 トルの最高所に、五層の天守閣を築き、金箔の瓦を乗せ、
 本丸、二の丸、三の丸に、秀吉が日常生活の場とした山
 里丸の四主郭を中心に、11の付曲輪を持つ周囲約1700メ
 ートル、面積にして14ヘクタールの大城郭、名護屋城
 1587年頃から、九州の大名に命じて造らせた。
  (1591年8月に、秀吉が築城を命じ、10月に城普請に取
 り掛かったとの説もあるが、発掘した瓦に1590年の銘が
 あり、1591年以前だともいう)
1587年3月1日、秀吉が、九州に出陣。
  秀吉が、8万の軍勢を自ら率いて、大阪を出陣し、九州
 平定に向かい、新しい国割りをして4か月後に帰国した。
  秀吉が、九州へ兵を動かしたのは、急成長していて、
 九州を制圧しかねない薩摩の島津の脅威があった。
  大友宗麟が、秀吉に助けを求めたからでもあった。
  この時、九州の諸将の多くは、群雄割拠の長い戦国の
 習いから脱皮が出来ず、日本を統一しようとする秀吉の
 力を侮(あなど)っていた。
  秀吉のもとへ出向くようにとの秀吉の命令を軽んじる
 者もいた。
  また、仮病を使ったり、代理を出すとかして、城主自
 らが参上しない者も少なくなかった。
  九州に上陸した軍勢は、20万に達した。
  この秀吉の力に慌てた九州の城主たちだった。
  秀吉の目的は、主に、薩摩の島津攻めにあった。
1587年3月28日、秀吉が、豊前小倉に到着した。
  秀吉の統一事業も関東・東北・九州となった。
  秀吉は、関白の立場から、九州で争いをしていた大友
 と島津の両氏に対し、正親天皇の勅命を奉じて、和睦を
 勧告していた。
  これに対し、大友氏は応じたが、島津氏は無視した。
  そして、この為、1586年から、大友氏を救援するため
 の長宗我部・十河(そごう)軍と、島津軍との間に戦闘
 が繰り広げられていた。
  秀吉は、1586年12月に、諸国の大名に九州征伐の出動
 準備にかかるように命令を下し、
  1587年1月25日に、まず、先鋒の宇喜多秀家が、1万
 5000を率いて出陣した。
  そして、連日、九州に向けて続々と出陣し、
  秀吉自らも、1587年3月1日に、大阪を発し、
  1587年3月28日に、豊前小倉に到着した。
1587年4月10日、秀吉が、筑後に入り、高良山に着陣した。
1587年4月19日、秀吉が、16日に隈本(くまもと)、
  17日に宇土(うと)を経由して、
  この日に、八代まで進んだ。
1587年5月3日、秀吉以下の本隊が、薩摩川内(せんだい)
 に達した。
  そして、泰平寺まで進んだところへ、対馬の宗義調(
 よしかげ)が服従するという使者を送って寄こした。
1587年5月4日、秀吉が、宗氏へ、朝鮮への出兵協力を命じ
 た。
  秀吉は、対馬の宗義調へ、この日の日付で書状をした
 ため、朝鮮へ出兵をすることになった場合の協力を命じ
 た。
  以後、宗義調・義智父子の朝鮮と板挟みになった苦し
 い交渉が始まる。
  朝鮮国王の参洛の目算もなく、一時しのぎの交渉に終
 始する。
  実際、宗氏は、秀吉の指示に従って朝鮮へ使節を出し
 ていなかった。
1587年5月8日、秀吉が、九州を平定した。
  秀吉51歳は、薩摩の島津義久を降ろして、九州を平定
 した。
  日向路を秀長軍15万が、肥後路を秀吉軍10万が進んだ。
  さしもの勇猛な島津軍も、これだけで勝つ見込みは無
 かった。
  日向根白坂の戦い(4月17日)で、島津義久・義弘の軍
 勢が、秀次の軍勢に敗れて、戦意を喪失した。
  ついに、5月8日に、義久は剃髪し、龍伯と号し、秀吉
 の軍門に降りた。
1587年6月1日、この日の日付で、「高麗(朝鮮)国王は諸
 大名と同じように朝廷(および秀吉)への出仕する義務
 があると朱印状に記している。
  そして、対馬の宗氏を介して李氏朝鮮に服属し入貢す
 る様に要求している。
  また、この年に、秀吉は、諜報の目的から26隻の船を
 朝鮮へ派遣している。
1587年6月11日、大友宗麟が没した(1530年〜1587年)
  チフスによる病死とされている。
  秀吉が、宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治
 の意欲を失っていた宗麟は、これを辞退した。
  墓は、京都の大徳寺にある。
1587年6月19日、キリスト教禁教令。
  豊臣秀吉が、九州征伐を完了させ、筑前博多まで凱旋
 して来た時であった。
  秀吉は、九州征伐中であったが、1587年6月19日の夜、
 突然、キリスト教宣教師のガスパル・コエリヨ(イエズ
 ス会福管区長)へ、バテレンおよびポルトガルの南蛮貿
 易の行為について詰問状を突き付けた。
  秀吉の臣下が、キリスト教宣教師がからむ南蛮貿易で、
 日本人を奴隷として売買している所を目撃し、秀吉に報
 告していた。その詰問状だった。
  そして、翌日の20日朝、諸大名を集めバテレン追放を
 指示した(バテレン追放令は6月19日付けとなっている)
  まったくキリスト教のやる事はレベルが低かった。
  この6月19日のバテレン追放令が出される直前において、
 秀吉の臣下は、博多の港外に停泊していたフスタ船に乗
 り込み、キリスト教コエリョと共に船中を見ていた。
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
  黒田官兵衛は、高山右近の影響を受けて、天正11年
 (1583年)頃に洗礼を受けたキリシタン大名であった
 が、豊臣秀吉伴天連追放令を発令すると、いち早く、
 キリスト教を捨てた(キリスト教の棄教)。
1587年、博多の豪商であり、茶人である神谷宗湛(そうた
 ん)は、秀吉の九州征伐の時、筑前箱崎の陣所で秀吉の
 茶会に招かれている。
1587年、豊臣秀吉が、高麗(朝鮮)の王へ、早舟で『日本
 の内裏(だいり)へ出仕せよ、さもなくば来年成敗(せ
 いばい)するぞ』と申しつかわした。
  「私の命あるうちに、唐国まで手に入れる所存だ」と
 表明した。
1587年9月、聚楽第が完成した。
  九州征伐を終えた秀吉が大阪より移り、ここで政務を
 みた。
  後陽成天皇行幸を、1588年5月9日に、迎えて饗応し
 ている。
1587年12月3日、秀吉の停戦命令。
  秀吉が、関東・奥両国惣無事令を出した。
  これは、関東と陸奥・出羽の二国(奥両国)の大名に
 出されたもので、停戦命令である。
  この命令の後、各戦国大名同士の戦いは、「私之儀」。
  すなわち、私闘として、豊臣政権によって禁圧され、
 裁かれる事になった。
  こんな素晴らしい史実が日本にある。
  戦争を止めさせる命令、戦争ばかりのヨーロッパには、
 この様な事例はない。もちろん、アメリカにもない。
  日本の誇るべき史実である。
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