(増補版)25A:気になった事柄を集めた年表(938年〜990年)

 題:(増補版)25A:気になった事柄を集めた年表(938年〜990年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
939年、最初の武士の反乱が、平将門天慶の乱である。
  この後、武士が、公的な制度として、国家に組み込ま
 れていく。
  源平の両氏の繁栄の起源となった。
939年、この頃、班田は全く行われず、荘園がますます増
 大した。
  口分田の収公(しゅうこう、領地などを官府がとりあ
 げること)が無くなった。
940年、衣服の日本化が進行した。
945年、藤原忠平(関白在位、945年〜950年)
945年頃、紀貫之が没した(866年頃〜945年頃)
945年頃、天慶の乱以降、武士が公に認められた。
946年、村上天皇(在位 946年〜967年)
946年、藤原氏の権力争奪。村上天皇には、多数の女御や
 更衣が侍していた。
  その中で第一皇子・広平親王を産んだのは、藤原南家
 の出身で民部卿・元方(もとかた)の娘の祐姫(すけひ
 め)であった。
  当時は、藤原北家の有力者が祖父でないと天皇になれ
 る事は困難であった。
  この時、南家方は、広平親王が皇太子になることを期
 待し、熱望もしていた。
  しかし950年、北家に皇子が産まれ、誕生の3か月後に
 皇太子になってしまった。
950年、冷泉天皇が生まれた(れいぜいてんのう、950年〜
 1011年)
950年、藤原氏の権力争奪。右大臣・藤原師輔(もろすけ、
 908年〜960年、北家)の娘・安子(あんし、927年〜
 964年)が、村上天皇の第二皇子・憲平親王(のりひら
 しんのう)を産んだ。
  誕生の3か月後に皇太子と定められ、後の冷泉天皇
 なった。藤原元方(南家)は失意のあまり没した。
950年、この頃(10世紀)、アル・ハゼン(アラビア)が
 薄明の観測からの大気の上限を推測した。
950年、アッパース朝:10世紀半ばには、軍人が政治的・
 経済的・社会的に他の階層を圧倒するに至り、西アジア
 に軍事的支配体制が確立していった。
951年、初めて、和歌所をおいた。
  和歌所とは、勅撰和歌集の撰述(せんじゅつ、書物を
 あらわす事)などを行うために、宮中に設置された役所。
  村上天皇が、梨壺に設置し、藤原伊尹(これただ)を
 別当(長官)に、源順(したごう)など5人を寄人(よ
 りうど)として、万葉集の訓読や後撰和歌集の撰進(せ
 んしん、詩歌・書物を編集して天皇などに奉ること)を
 行った。
953年、藤原道隆が生まれた(953年〜995年)
959年、紫宸殿の前庭に橘を植えた(右近橘)
960年、藤原師輔が没した(もろすけ、908年〜960年)
960年、この頃、国司の遙任(ようにん、国司が任地へ赴
 任しなかったこと)が盛んになり地方荘園化が進行した。
  荘園の権門への集中が起きた。
960年、中国・宋が建国された。
  趙匡胤が、五代時代最後の後周から禅譲を受けて建国
 し、中国が統一された。960年〜1297年。
  唐朝は、黄巣の乱(こうそうのらん)をきっかけにし
 て滅び(907年)、五代十国という混乱期に入っていた。
  この時期は、地方文化が活性化し、次の宋朝統一の準
 備となった。
  宋は、開封に都し、文治主義を進め、文化的中央集権
 的な国を作った。
960年、中国の4大発明;北宋時代、世界に先駆け中国で
 は火薬、羅針盤活版印刷という3つの画期的発明があ
 った。
  これ等は、イスラム文明経由で、ヨーロッパに伝えら
 れ、以後のヨーロッパの世界的発展に大きな影響を与え
 た。
  後漢時代の蔡倫による紙の発明を含めて、中国の4大
 発明と呼んでいる。
962年2月、神聖ローマ帝国:東フランク王・オットー1世
 (オットー大帝)の戴冠で成立した。
  ドイツ人による西ローマ帝国である。再興である。
  神聖ローマ帝国の基をひらく。
  キリスト教国を異教徒マジャルの禍から救った聖なる
 戦士だとして称(たた)えられている。
  この帝は、キリスト教の布教を口実にして他国を侵略
 するような帝だった。その帝に、962年2月に皇帝の冠
 が授けられた。
10世紀末以降、平安時代の中期以降、「古代都市」が形成
 され、都市としての独自の自立性を見せて行った。
966年、藤原道長が生まれた(966年〜1027年)
967年、冷泉天皇(在位 967年〜969年)
967年、藤原実頼(さねより、関白在位、967年〜969年)
967年、村上天皇に次いで冷泉天皇が即位すると、藤原実
 頼が関白に就任するが、以後、歴代摂政または関白が、
 常に設けられるようになり、摂関政治の時代に入る。
  摂政や関白に就任したものは、藤原氏氏長者氏神
 春日神社の祭紀など)も兼ねたから、権勢と富とを一手
 に握ることになり、一族兄弟間に激しい競争が行われた。
968年、ベトナム:968年に丁朝(ていちょう)が、中国
 から独立し、以後、多くのベトナム人の政権が続く。
 968年〜980年、
969年、円融天皇(在位、969年〜984年)
969年、藤原実頼(摂政在位、969年〜970年)
969年、この頃、紫式部が生まれている(1014年に45歳
 で没したらしいという史料から推定)
969年、安和の変が起きた。
  醍醐天皇の皇子である源氏姓を賜った左大臣源高明
 (たかあきら、914年〜982年)が、その娘婿・為平親
 王の擁立の陰謀があるとして、太宰員外師に左遷された
 (〜971年まで)。
  左遷させたのは藤原実頼源満仲である。
  藤原氏における摂政と関白の常置の体制ができ、藤原
 氏の地位が確立した。
  この変の後、円融天皇が即位した。
  摂関政治藤原北家が政権を独占した。
970年、藤原伊尹(摂政在位、970年〜972年)
972年、藤原兼通(関白在位、972年〜977年)
972年、藤原氏の権力争奪。摂関就任の家系が、北家の基
 経・忠平の家系の独占に落ち着いてくると、同じ家系の
 中で兄弟あるいは叔父甥間で激烈な争奪が繰り返される
 ようになった。
  中でも兼道(かねみち、925年〜977年)・兼家(929
 年〜990年)兄弟の間で展開された争いが有名である。
974年、尾張の百姓の訴えにより国司を交替した。
976年、三条天皇が生まれた(976年〜1017年)
977年、藤原頼忠(関白在位、977年〜986年)
978年、藤原兼家東三条殿が成った(寝殿造り)。
979年、宋が中国を統一した(集権的君主独裁)。禅譲
 受けたのが960年。ほぼ統一したのが979年。
980年、一条天皇が生まれた(980年〜1011年)
980年、浄土教が広まった(空也源信
980年、この頃、枕草子が出来た。
984年、花山天皇(在位、984年〜986年)
984年、「一切世俗銭を用いず」の記述あり、世間、銭を
 嫌うこと甚だしい・・とある。
984年、再び荘園整理令を下した。
  荘園整理は、平安時代の政府の眼目で、
  整理令は、902年(延喜の主演整理令)、984年、
 1045年、1055年と、「延久の整理令」までに4回出さ
 れた。
  この令は、不正手段に基づく非合法な荘園を禁止する
 もの。
986年、一条天皇が即位した(在位、986年〜1011年)
986年、藤原兼家(摂政在位、986年〜990年)
987年、諸寺に銭貨の流通を祈った。
  検非違使をして銭貨通用の強制させた。
  検非違使は、初め、京都の犯罪・風俗の取り締まりな
 ど警察業務を担当し、後に訴訟・裁判も扱い、強大な権
 力を持った。
  平安時代の後期には諸国にも置かれた。
988年、尾張の郡司・百姓らが、国守・藤原元命の非政を
 訴えた。
990年、藤原頼道が生まれた(990年〜1074年)
990年、藤原道隆(ふじわらのみちたか、摂政・関白在位、
 990年〜995年)
10世紀末(914年〜1492年)、イスラムイベリア半島
 の後退。キリスト教徒が、イベリア半島のスペイン北部
 を占領した。
  レコンキスタという国土回復運動の戦いを、イスラム
 教徒に対し行った。
10世紀頃までに、律令制度は崩れ、崩壊の過程をたどった。
  問題は、格差の拡大だった。
  格差の拡大過程が進んだのである。
  家族構成が小さい農民の場合、労働力が小さく、労働
 力不足の農民には、制度が活用できなかった。
  税負担に耐えられない階層が生まれた。
  この様な階層の人たちは、縁者を頼ったり、大家族に
 身を寄せたりした。
  大規模家族は、その労働力を使った墾田開発で、より
 大きくなって行くという過程をたどった。
  その結果、大土地経営者が出現し、家長の権力も強く
 なって行った。
  領主の成長である。
  墾田永世私財法によって、自らの持つ労働力と、権力
 を使って、土地を開墾した。
  ますます、大きな私営田領主となって行った。
  こうして、地方には、広大な所領を拡大する地主が、
 10世紀頃までに数多く出現した。
  だが、11世紀以来、急速に、これらの大土地所有者が、
 没落するという新しい現象が生まれた。
  それは、税負担の軽重だった。
  貴族などの有力権門家は、その社会的地位を利用して、
 自分の所領の「税金免除」を受けていた。
  その様な事の出来ない者は、大土地所有者といえども、
 税負担に耐えていた。
  中央に連なる権門家の荘園では、税や労働の免除が広
 く行われた。
  農民は、大土地所有者に寄生していても、国司への税
 と、領主への税との二重の収奪を受けた。
  当然、税の免れる事が出来る権門家の荘園の方へ逃げ
 出した。
  農民が逃げ出された大土地所有者も、農民を呼び戻さ
 なければやって行けない。
  その為には、二重の税負担を取り除かねばならない。
  そこで、中央から派遣されてきた国司と政治折衝をし
 なければならない。
  この政治折衝が合法的にできるのが、中央の権門家だ
 けだった。
  こうして、11世紀以来、私営田領主が、権利の一部を
 保留して、所領の名義を権門家に寄進する行為が起きた。
  権門家を本所(ほんじょ)と仰(あお)ぐ荘園が数多
 く現れた。これを、寄進地系荘園と言う。
  また、もう一種類の所領を寄進するケースがある。
  中央から地方へ派遣される国司に、任地に赴(おもむ)
 かない者が多かった。
  位の高い者は、自ら出向くことはしない。
  実際に任地に赴く国司は、中央では高い地位に登る見
 込みのない者だった。
  彼らは、受領(ずりょう)と呼ばれた。
  受領たちは、任地で富を蓄え、私腹を肥やすのを常と
 した。
  この受領という官職は、金のなる木のため、売り買い
 がされた。
  受領の役目を買って、売り手の摂関家などの権門へ利
 益をもたらした。
  受領も、任地で利益を自分の家領として所有していた。
  しかし、任期が終われば、手放さなければならない。
  任期を離れれば、地方所領の管理は可能ではない。
  その利益は保持したい。
  中級貴族の立場から、解決方法として、自分のかかわ
 りを持つ摂関家の上層貴族に、土地を寄進し、所有権は
 上級貴族の名義に切り替え、一定年貢を献上するのを条
 件に、荘園の執行権と、そこから得られる利益は、寄進
 した無力な小貴族の手にも残り、これを子々孫々に伝え
 る事が出来た。
  1025年頃、「天下の地、ことごとく一の家(摂関家
 こと)の領となり、公領は立錐の余地なきか。悲しむべ
 きの世なり」と(小右記・しょうゆうき)にある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009