(増補版)28B:気になった事柄を集めた年表(1096年〜1159年)

 題:(増補版)28B:気になった事柄を集めた年表(1096年〜1159年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1098年、源義家が昇殿を許された。
  白河上皇が、院の昇殿を武士として初めて許した。
  義家は、新興の武士勢力の象徴とみなされていた。
  摂関時代が終わり、移り変わって行く時代。
1100年、クメール帝国(カンボジア):12世紀前半、ア
 ンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によってアンコ
 ール・ワットが建設された。
  建設に30年の歳月が費やされたという。
  孫のソター王が、ヒンドゥー寺院から仏教寺院へと改
 修し、仏像を安置した。
  14世紀には、アンコール王朝は衰退した。
  以後、19世紀半ばまで、密林の中で、誰にみられるこ
 ともなくひっそりと眠りについてしまった。
1100年、中国の製紙法がフランスに12世紀に伝わった。
1100年、アイスランド:12世紀〜13世紀に、アイスラン
 ド語による薫り高い民族伝承文学「エッダ」や「サガ」
 が残された。
  エッダ詩は、古代ゲルマン民族の神話や、英雄伝説
 題材にしているのに対し、
  サガは、ノルウェーアイスランドで起きた出来事を
 題材にしている。
1100年代(12世紀)、進み、優れていたイスラム世界と、
 遅れていたヨーロッパ社会。
  ヨーロッパ社会に、イスラム世界から最先端の科学が、
 そして、ギリシャからは、古代ギリシャの哲学などがも
 たらされた。(12世紀ルネサンスがあったという研究者
 もいる)。
  ヨーロッパ社会は、それらの恩恵に浴して、この時代
 以後(14世紀)に、ルネサンスと呼ばれる知的高揚が
 あった。キリスト教による暗黒世界からの脱出。人間賛
 歌と復興。
1103年、鳥羽上皇が生まれた(1103年〜1156年)
1104年、源頼政が生まれた(1104年〜1180年)
1106年、源義家が没した(1039年〜1106年)
1106年、京都に田楽が流行した。
1107年、鳥羽天皇(在位、1107年〜1123年)
1108年、平忠盛源義親を殺した。
1108年、延暦寺の僧徒が日吉神輿を奉じて入京しようと
 する。源平両氏はこれを防いだ。
1108年、新立荘園の停止を命令した。
1110年、12世紀前半、江戸四郎重継が、武蔵国に進出し、
  「江戸館」を築いた(江戸城の歴史)。
  現在の江戸城本丸の場所に築いたという。
  『吾妻鏡』には1180年8月26日と記されている。
1118年、西行が生まれた(1118年〜1190年)
1118年、平清盛が生まれた(1118年〜1181年)。
  忠盛の子。幼少の安徳天皇を擁立して権勢を強めたが、
 1180年の源氏の挙兵により、福原遷都を企て失敗した。
  最盛期には一門の公卿16人、殿上人30余人と言われた。
  武士でありながら、貴族化したため反発が強かった。
  それが、反平氏気運の起こる原因と言われている。
1120年、藤原頼長が生まれた(1120年〜1156年)
1123年、崇徳天皇(在位、1123年〜1141年)
1123年、源義朝が生まれた(1123年〜1160年)
1124年、中尊寺金色堂が出来た。地方に文化が広がった。
1126年11月、金(女真族、後の満州族)によって宋(北
 宋)が滅亡した。靖康の変(せいこうのへん)。
  宋は建国した金に、一緒に「遼」を挟撃し、滅亡させ
 ようと持ち掛けたりした。
  金はこれに応じ、大軍を送ったが、宋は誠実な戦い方
 をしなかった。
  宋は、金と遼が弱体化すればよいと考えての消極策だ
 った。
  金は約束違反を責め、宋は歳幣(銀や絹)を上積みし
 てこの場をしのいだ。
  しかし、約束の歳幣を支払わなかった。
  逆に、金の内紛を助長して金の弱体化をしようとした。
  金(北方異民族)は、軍を南下させ、宋へ侵入させた。
  金は、宋の皇帝・皇族・官僚を捕らえ満州へ連行した
 (北宋の滅亡)。
  また、金は、宋室の皇女たちも連行し、金の皇帝・皇
 族たちの妾とした。また、官設妓楼の「洗衣院」に入れ、
 娼婦とした。
  北宋では疲弊した農民の反乱も相次いでいた。
  一方、北宋の皇帝の弟たち・宋の一族は、南に逃げ、
 臨安(杭州)に都を移した。以後を南宋という。
  南宋によって江南地方の開発が進んだ。
  朱子学宋王朝が文治主義をとったため、知識人の意
 識が高まった。
  南宋朱子は、それまでの儒学の字句解釈中心の訓詁
 学(くんこがく)を批判し、太極という宇宙の原理を考
 え、そこから生じる気が集まって物質ができ、物質には
 理(ものの本質)が宿るとした。
  その理を探求する事によって、自然や人間の本質に迫
 り、個人、家、国家、天下を治めようとする。
  総合的な思想に発展させたが、そこには仏教や道教
 影響があった。
  朱子学は、日本や朝鮮にも大きな影響を与えた。
1127年、後白河上皇が生まれた(1127年〜1192年)
1128年、藤原清衡(きよひら)が没した(1056年〜
 1128年)
1129年、白河上皇が没した(1053年1129年)
1129年、鳥羽上皇(在位、1129年〜1156年)
1129年、この頃、院司と朝臣との争いが起きた。
1130年、朱子が生まれた(1130年〜1200年)
1132年、平忠盛が内昇殿を許された。
  この当時としては破格の待遇だった。
  「平家物語」には、武士である忠盛が殿上人になった
 ことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠
 盛は、銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって
 防いでいる。
1133年、法然が生まれた(1133年〜1212年)、43歳の時、
 浄土宗を開いた。
1137年、平重盛が生まれた(1137年〜1179年)
1138年、北条時政が生まれた(1138年〜1215年)
1140年、鳥羽僧正が没した(1053年〜1140年)
1141年、近衛天皇(在位、1141年〜1155年)
1141年、栄西が生まれた(1141年〜1215年)、51歳の時、
 臨済宗を開く。
1147年、源頼朝が生まれた(1147年〜1199年)
1149年、京都醍醐寺の散所者(大道芸人など)、正月に門
 前に訪れ、千秋万歳(初春の祝福芸で、宮中をはじめ諸
 寺・諸家を回ってことぼぎをして舞い、祝儀をもらう、
 平安期に起こった)を行う。
1150年、この頃、アンコール=ワットが建設された。
1150年、欧州における最初の紙の製造。
  スペインに侵入していたムーア人(アフリカ北西部に
 住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々)が、トレ
 ド、バレンシア地方に製紙工場を建てた。
1151年、運慶が生まれた(1151年頃〜1223年)
1153年、平忠盛が没した(1096年〜1153年)
1154年、源義仲が生まれた(1154年〜1184年)
1154年、日本が初めて表されたイドリースィー(アラブ人
 の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界
 地図を作製した、1099年?〜1165年?)の世界図が作
 られた。
  彼は、「イドリースィー」というクンヤ(出身名)が
 示す事から、マグリブの地方政権であったイドリース朝
 の末裔の一人で、預言者ムハンマドの子孫という。
1155年、藤原泰衡(やすひら、1155年〜1189年)が生まれた。
1155年、後白河天皇(在位、1155年〜1158年)
1156年、藤原頼長が没した(1120年〜1156年)
1156年、伊賀黒田荘での争論に、シカ・サルなどの獣害
 対策を名目とした人の居住が見える。
1156年、保元の乱が起こった。
  天皇方:平清盛源義朝(1123年〜1160年)、
  院方:源為義(1096年〜1156年)・源為朝(1139年
 〜1177年)・平忠正
  院方が敗れ、源為義平忠正は斬られ、源為朝は伊豆
 大島に流罪になった。
1156年、新制七条を諸国に下した。
  新制(しんせい)とは、天皇上皇の勅旨に基づいて
 制定された成文法典のこと。
  保元の乱の処分の結果を諸国へ知らしている。
1157年、北条政子が生まれた(1157年〜1225年)
1158年、後白河上皇院政、1158年〜1185年)
1158年、二条天皇(在位、1158年〜1165年)
1158年、源頼朝が初めて官職を得る。
  この当時、父・為朝は後白河院の寵臣で、野心家であ
 った藤原信頼の門に出入りが多くなっていた。
1159年、源義経(牛若丸)が生まれた(1159年〜1189年)
1159年、平治の乱が起こった。
  藤原信頼・源良義朝が、清盛の熊野詣の挙をついて挙
 兵した。
  院を幽閉し、信西を追って権力を握ろうとした。
  藤原信頼は、信西を倒すと、勝手に除目(じもく、平
 安時代以降の大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式)
 を行い、自らは近衛大将となり、義朝を播磨守とし、頼
 朝を右兵衛佐(うひょうのすけ)とした。
  信頼は、信西打倒の時の挙兵に同調させた大炊御門経
 宗(おおいみかどつねむね)・藤原惟方(これかた)な
 どには、この臨時除目の恩恵にあずからせなかったから、
 直ぐに寝返って、清盛側に内通した。
  清盛方の勢力は、義朝方に比べて遙かに強大であった。
  事件を知って熊野路から取って返した清盛は、天皇
 院を救い出し、重盛・頼盛などに内裏(だいり)を攻め
 させ、信頼を六条河原に破って、これを斬った。
  平氏の拠点・六波羅を攻めた義朝も、敗れて、関東に
 走る途中、尾張の国で長田忠致(おさだただむね)に殺
 された。
  13歳の頼朝も初陣をつとめ、敗れて父・義朝とともに
 東走した。
  しかし、途中、関ケ原の雪深い山中で、父達の一行に
 遅れたところを、平清盛の家人・弥平兵衛宗清(やへい
 ひょうえむねきよ)に捕らえられて、京都に護送された。
  当然、殺される運命にあった頼朝は、頼盛の母で継母
 に当たる池禅尼(いけのぜんい)や頼盛の懇請によって
 助命された。
  頼朝の兄・義平は、この戦いに加わったが、東国に脱
 出する事に失敗し、京都に戻って清盛を狙ったが、捕ら
 えられて斬られた。
  また、頼朝の兄・朝長は、父・為朝とともに東走の途
 中、戦傷のため行を共にしえなくなって自決した。
  武士の世が始まった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009