(増補版)17A:気になった事柄を集めた年表(689年〜717年)

 題:(増補版)17A:気になった事柄を集めた年表(689年〜717年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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690年、全国的な戸籍の庚寅年籍が作成され、人民を地域
 により編成するという作業はほぼ完了した。
690年1月、皇后(持統天皇)が即位。
  689年に草壁皇子崩御したので、その遺児で孫にあた
 る軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)が成長するまでの
 間という御心で自ら即位した。
690年7月、高市皇子(たけちのみこ、天武天皇の皇子)が、
 太政大臣になる。
690年、武后(武則天)が、唐室を尽殺し、国号を州都改め
 自ら聖神皇帝と称した。
694年12月、持統天皇が、本格的な都城である藤原京に遷都
 した。
697年2月、立太子軽皇子)。
697年8月、皇太子(文武天皇)が即位。
  祖母の持統天皇から譲位されて天皇の位につき、即位の
 詔を宣した。
698年、阿倍仲麻呂が生まれた(698年〜770年)
8世紀頃、ゲルマン民族の第二次移動と言われる海上活動を
 開始し、略奪者としての印象を残した。
8世紀頃、イスラム商人が、貿易のために、紅海またはペル
 シャ湾から、インドを経て、アジア大陸の海岸線に沿って
 発達した海上貿易のルートが海の道。
8世紀頃、中国で発明された火薬や磁針、陶磁器などが、イ
 スラム世界を経て、ヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人
 のアジアに対する強いあこがれを引き起こした。
8世紀、インドネシア:この頃に、ジャワにシャイレンドラ
 朝が興り、ボロブドール遺跡を残した。
8世紀、マレーシア:8世紀にスマトラ島にあった王朝の支配
 下に入った。
700年代(8世紀)、ベルベル人北アフリカに広く居住す
 る先住民族、7世紀以降イスラム化した)の侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。
  「ベルベル」というヨーロッパ・キリスト教徒の言う意
 味は、「ギリシャ世界の外に住む文明化されていない人」
 という意味で、まったく馬鹿にしている。
701年、聖武天皇が生まれた(701年〜756年)。
  即位前の名前は首皇子(おびとのみこ)。
  文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
701年1月、遣唐使が任命された。
  大通事は垂水広人(たるみのひろんど)
701年8月、大宝律令なる。
  刑部(おさかべ)親王藤原不比等が中心になって編集。
  文武(もんむ)天皇より、律令制定を命ずる詔が発令さ
 れた。
  律令による統一的交通網の整備が行われた。
  これは、江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
  また、位階は30階になった。
  律は、今の刑法に相当し、令は、民法に相当する。
  全国は、畿内・七道の行政区に分けられ、畿内は、山城・
 大和・河内・和泉(いずみ)・摂津の5か国である。
  七道は、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の
 各道であった。
  約16キロメートルごとに駅家(うまや)を設ける駅制が
 しかれた。
  駅家では、一定数の駅馬が置かれ、以前には、駅馬伝馬
 の制、牧と貢馬の制があり、政府に鷹狩り用の鷹養育施設
 などがあった。
  また、「三関」が定められ、多くの兵士が配された。
 「畿内を守る役割」とともに、「畿内での動乱が、東国へ
 波及させないという役割」もあった。
  日本は、古い時代から、不幸の源の争いを拡大させない
 知恵を働かせていた。
  遺跡の発掘調査では、西に崖を作り、残りの三方を土塁
 で囲んでいる事が分かった。
  中に建物を並べて建て強力な体制で、用に供していたも
 のだと分かった。
  また、大宝律令の制定で大切な事柄は、班田収授法の本
 格的な成立である。
  班田制は、これ以前の大化の改新などにも見られ、古代
 の日本政治の政策として実施したいとして来た政策であっ
 た。
  これは、古代の日本において、理想の社会を造りたい、
 造ろうという動きであった。
  それは、出身や民族を差別しないで、土地を国有化し、
 平等分配する班田制や編戸制の採用など、専制に基づいた
 とはいえ、公平な世の中を造りたいという政策だった。
  この理念は、現代にも通用する日本人の素晴らしいとこ
 ろ、一気に封建社会を飛び越した理念は誇るべきである。
701年、李白が生まれた(701年〜762年)
703年、「満濃池」が築造された。これは江戸時代以前の主
 な社会資本整備である。
706年、藤原仲麻呂が生まれた(706年〜764年)
706年、斑鳩(いかるが)の法起寺(ほっきじ)の造営を開
 始した。
708年、日本最初の貨幣の和同開珎(わどうかいちん)が、
 武蔵の国から銅が献上され鋳造された。
  和同開珎は、山城や周防などに置いた鋳銭司で鋳造され
 た。
  和同開珎から、平安時代の中頃までつくられた貨幣を総
 称して皇朝十二銭と言う。
709年、光仁天皇が生まれた(709年〜781年、49代天皇
710年、僧・行基が五泊の制を定めた。江戸時代以前の主な
 社会資本整備である。
  また、行基の社会事業が諸国を行脚して行われた。
710年3月10日、平城京に都が移された。
  この時の天皇は、元明天皇天智天皇の子)。
  条坊制によって、そのほぼ全体が整然と区画されている。
  平城京遷都は、六国史の中の続日本紀に記されている。
  しかし・・、
  唐の長安を真似たと教科書に書かれているが・・、
  唐の長安の町は、四角く区切られ、里(坊)は、外角と
 は別に、それ自体も城壁に囲まれていて、出入口として、
 里門が設けられ、里内には巷(こみち)が整然と通ってい
 た。
  正方形の里の四面に一つづつ門が開き、兵士が管理に
 あたっていた。
  里門建設の最大の目的は、治安の維持にあった。
  長安では、夜間になると坊門が閉鎖され、街路に出る
 事が禁じられた。
  これは、単に、閉じ込め機能だけでなく、君主の共同
 体(中に居る人たち)に対し、支配力浸透もあるが、富
 豪を集め守り、また、名門有力者を城郭内に移し、且つ、
 権力基盤を強める目的もあった。
  力の結集にもなった。
  科挙の採用によっても、地方氏族の中央官僚化が進展
 し、城郭内に続々と人が集中した。
  軍事制度も、天子の権力基盤を手厚く防備する体制が、
 一段と進めやすく整えられた。
  支配の安定が図られた。
  日本には、この様な坊門管理はない。
  坊城や坊門が、あったとしても、朱雀大路に面した辺り
 にしかなかった。
  故に、いくら坊門を管理しても、夜間通行の制限には効
 果はない状態だった。
  何故、日本はこの様にしたのか?
  つまり、日本は、唐の様な悪い治安でもなければ、臣
 下や民を囲い込んでおかなければならないほど、人身・
 民度の低く、乱れた状態ではなかった。
  つまり、そこまでする必要はないと知っていた。
  では何故、朱雀大路に面した所にだけ、坊城や坊門を
 設けたのかと言うと・・、
  儀容(ぎよう、礼儀にかなった姿や態度)である。
  「続日本紀」には、唐や新羅からの使いが入京した際
 に、官人が騎兵などの一団を率いて彼らを出迎えたこと
 が記されている。
  そして、外国使節は、まず平城京羅生門をくぐり、
 宮城南面の朱雀門に続く朱雀大通りを直進した。
  朱雀大路の両側の坊城や坊門を、使節は見ながら宮城
 への大路を進んだ。
  その儀容だった。
  日本の皇帝の城に至る大路だった。
  日本の為政者には、民を軍事基盤に利用してやろうと
 いう心はなかった。
  自分のために住民を「閉じ込めよう」という考えはな
 かった。
  屯倉や三関を地域に設け、管理者を置くというスケール
 感で安全・安定を図っていた。
  基本的な人間観の違いにあった。
710年、日本は、厳密な意味で、唐から学んではいない。
  すべてを換骨奪胎(かんこつだったい、新味を加えて
 独自のものとする)して日本のものとしている。
  教科書や歴史書の多くが「唐から学んだ」と言うが、
  そこに、日本の叡智(えいち、優れた知恵)の取捨選
 択があり、日本のものに再構築されたものを造り上げて
 いたという所に気が付かねばならない。
  この日本の資質の高さを誇るべきである。
  昔から、日本には、この資質・智慧があった。
  もう1例を上げれば、
  平城京律令制においても、基本的なところで、大き
 く日本の制度へと改革して実施している。
  日本は、太政官に権能(けんのう、法律的に実施できる
 能力、公の機関の権限)を集中している。
  唐は分散していた。
  権力中枢の大きな考え方の違いだった。
  また、唐は、皇帝崇拝と神の代償としての絶対化による
 政治形態だったが、日本の天皇は、神の祭司として祭政は
 分離されていた。
  近代政治でも祭政分離(政教分離原則)が基本となっ
 ているが・・。
  唐の様な政治形態は、もともと日本にはなじまないもの
 だった。
711年、蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出して貨幣の
 流通を図った。
  当時は、米・絹・布などが貨幣の役目をした。
711年、7世紀の前半にアッラーの教えが説かれてから、イ
 スラムの勃興は凄まじかった。
  西方の伝搬は、アフリカの地中海岸を進み、この年の
 711年に、スペインへ渡った。
  そして、一気にゲルマン人の国の一つの西ゴート王国
 倒した。
  そして、ピレネー山脈を越えて、ガリア地方(フランス)
 に進出した。
712年、越後国陸奥国をさいて出羽国をおいた。
712年、古事記ができた。(上)(中)(下)の三巻。
  太安万侶(おおのやすまろ)による。
712年、杜甫が生まれた(712年〜770年)
712年、唐の玄宗皇帝が生まれた(712年〜756年)。(開
 元の治)。
713年、風土記撰上の詔が出され、風土記の編纂が命じられ
 た。
717年、遣唐使として阿倍仲麻呂吉備真備が唐に渡る。
  阿倍仲麻呂は、霊亀3年と養老元年(717年)に遣唐使
 となっている。
  717年の時は、多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行
 し、唐の都・長安に留学する。
  唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えた。
  後に、安南節度使としてベトナムに赴き総督を務めた。
  761年〜767年の6年間も、ハノイに在任した。
  大都督(従二品)官位が授けられたが、日本に帰る希望
 はかなえられなかった。
  770年1月、73で死去した。
  当時の日本政府は、彼の遺族に、絹と綿を贈った。
  彼の家族は貧しく、葬儀も十分に行えなかったという。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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