(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年〜832年)

 題:(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年〜832年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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800年、バイキング:9世紀〜11世紀、250年間、西ヨーロ
 ッパ沿海部に侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿
 岸地域の海賊。ノルマン人。
  カール1世の侵略と拡大を繰り返す行為に対抗していた。
  また、キリスト教を掲げるカール1世に、宗教的対立だ
 と説く研究者もいる。
  キリスト教徒による不平等な通商・貿易面で苦しんで
 いた深刻な対立点もあった。
  また、土地が貧しく生産性は極めて低かったこと、食
 糧不足が生じたことなど。
  ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため、他の民族
 は対抗できなかった
800年、シーア派預言者モハメッドの従弟で、娘婿でも
 ある第4代正統カリフ=アリーの血統のみに、イスラム
 共同体の最高主権者の地位を認める派。
  今日のイスラム教徒の約1割を占める。
  歴史上、多くの分派を生じたが、現在、シーア派の主
 流をなすのは、イランの国教となっている12イマーム
 である。
  基本的な宗教儀礼そのものは、多数派のスンニ派と大
 きく違わないが、シーア派独特の祝祭や哀悼の行事があ
 る。
  思想面では、9世紀に姿を消し、現在なお「隠れてい
 る」イマームが、いつの日か救世主として再臨し、地上
 を正義と公正で満たすという「隠れメシア」思想を特徴
 とする。
  このイマームの「隠れ」の間は、イスラム法の法学者
 が、信者を指導する。
  イラン・イスラム革命の指導者・ホメイニ氏が提起し
 た「法学者の統治」もこれを指している。
800年、トルコ民族:ウイグル(744年に統一に成功して
 遊牧国家をつくった部族)の9世紀の西走は、中央アジア
 のトルコ化(トルキスタンの名称)をもたらし、
  イスラム教徒との接触を深めて、トルコ人のイスラー
 ム化をもたらした。
  トルコ人は、各地で傭兵(軍人)となり、やがて政権
 を握るものが出た。
  中国5代王朝の中の3王朝、西アジアのガズニ朝、イン
 ドの奴隷王朝マムルークを奴隷と訳したのであるが適
 切ではない、イスラム世界では奴隷を解放することは善
 行とされ、それ故、奴隷解放が盛んに行われ、解放され
 た奴隷は忠実な家来となった)。
  エジプトのマムルーク朝はその例である。
801年、坂上田村麻呂蝦夷の地を平定した。
801年、畿内の班田を12年に1度行うことに改めた。
9世紀初め、桓武天皇が、この頃、徳政相論を行わせた。
  徳政相論(徳政:徳のある政治、相論:互いに論じる
 事)で蝦夷征討と平安京造営が中止になった。
  今・現在の国会で議員の方たちが討議している形。
  民主主義は、西洋ヨーロッパから日本は学んだとマイ
 ンド・コントロールされているが、民主主義は昔から日
 本に根付いていた。
  また、坂本龍馬の生まれ育った高知の地には、商人の
 方たちの組織に、民主主義の形態が、既に、あったこと
 は有名。
802年、クメール帝国(カンボジア):8世紀まで、他国に
 征服されたりして、勢いがなかった。
  802年に、ジャバルマン2世が即位し、国の中心がアン
 コール地域に移って後、クメール帝国が栄える様になり、
 その繁栄が13世紀初頭まで続いた。
804年、藤原良房(よしふさ、804年〜872年)が生まれた。
804年、牛の屠殺を禁止した。
804年11月3日、空海最澄が、遣唐使として中国へ派遣さ
 れた。
  この後の遣唐使派遣は間遠になるが、
  この時の大使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)だった。
  この時、4200キロの行程を強行軍で行き、12月21日
 に長安に到着した。
  驚異的な速度で走破した。
  その理由は、正月元旦に開かれる元会議礼に参加する
 ためだった。
  日本国朝貢使が、この唐の元会議礼に参加する事の意
 味は極めて大きかった。
  元旦に先立つ12月24日に、藤原大使は供物を託して皇
 帝に進上し、皇帝からの懇(ねんご)ろな挨拶を伝達さ
 れた。
  大使一行は、内殿で目通りを果たした。
  日本国の朝貢使に対する唐王朝の待遇は、かなりのも
 のだった。
  こうして正月元旦、大使一行は、元会議礼に首尾よく
 参加した。
  含元殿は、高さ数十メートルの龍首原上に位置し、数
 千人の参列者が居並ぶ殿庭へは、長さ95メートルにおよ
 ぶ龍尾道が通じていた。
  元会の参列者が、玉座を仰(あお)ぎ見るに、天空の
 彼方(かなた)にあった。
  大使一行が、玉座にある皇帝の姿を確かめ得たかは、
 心もとない。
  「春秋左氏伝」という本にも、小国が大国からの侵略
 を免(まぬが)れるのは、使者を遣(つか)わせて礼物
 を献上するからであり、小国の君主が、大国に出向いて
 報告を行うからである。
  大国の方も、威儀を正し美辞によってこれをほめたた
 え、礼物の加増を行う。
  誅伐されて後、礼物を進上したとて取り返しはつかな
 い、と記述されている。
  中華秩序の中の朝貢外交のありさまである。
  この後、日本は、遣唐使の無益を説いた菅原道真の意
 見を入れて、『遣唐使派遣』を中止としている。
805年、参議・藤原緒嗣(おつぐ)の建議もあって、蝦夷
 征討が中止された。
805年、最澄が、唐から帰国し、天台宗を開いた(伝える)。
806年、桓武天皇崩御した(737年〜806年)
806年、平城天皇(へいぜいてんのう、在位806年〜808年)
806年、畿内および諸道に観察使を設置し、地方行政の実態
 を調べさせた。
806年、空海弘法大師)が唐から帰国し、真言宗を開い
 た(伝える)。
809年、嵯峨天皇(在位809年〜823年、52代)
810年、平安時代は、死刑の無かった時代だった。
  嵯峨天皇(810年〜823年)以来、死刑が、実際には
 廃止状態だった。
  後白河天皇の時代の保元の乱(1156年)の源為義など
 に対する処刑まで、346年間、実際上、死刑が執行され
 ることはなかった。
  仏教の影響である。
810年、仁明天皇が生まれた(にんみょうてんのう、810年
 〜850年)
810年、初めて、宮中に蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
810年、薬子(くすこ)の乱が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。嵯峨天皇藤原冬嗣
  この乱は、藤原薬子とその兄・藤原仲成(なかなり)
 が平城上皇の病を図って失敗した反乱で、この乱をきっ
 かけに藤原式家が衰えた。
  この乱の際、天皇側が機密保持のために蔵人所を設け
 た。
  初代蔵人頭藤原冬嗣が任命された。
  冬嗣は藤原北家である。
814年、大和田泊(神戸港)を修築した。江戸時代以前の主な
 社会資本整備に数えられる。
814年、防鴨河使、防葛野河使が任命され、京都の治水が
 行われた。
816年、空海高野山金剛峯寺(こんごうぷじ)を建てた。
816年頃、この頃、検非違使を置いた。
818年、この頃、鷹狩が盛んで、「私の立場の鷹狩」の禁
 令がしばしば出された。
822年、最澄が没した(767年〜822年)
822年、比叡山延暦寺は、伝教大師入寂後7日目の822年6
 月11日に、伝教大師出世の本懐たる戒壇建立の勅許が下
 りた。
823年、淳和天皇(じゅんなてんのう、在位823年〜833年、
 53代)
823年2月、初授戒が行われ、勅号を得て、「比叡山延暦寺
 と名を改めた。
824年、平城天皇崩御した(へいぜいてんのう、774年〜
 824年)
826年、藤原冬嗣が没した(775年〜826年)
827年、文徳天皇が生まれた(もんとくてんのう、827年〜
 858年)
828年、畿内に班田を行った(以後、50年間、班田が行わ
 れず)。
829年、9世紀の初頭に使徒ヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が、この年に、ヤコブの墓の上に教
 会と修道院を建てた。
  これが聖地とされているサンティアゴ・デ・コンポス
 テラの始まり。
  そして、1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サン
 ティアゴ・デ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの
 巡礼と同等の価値があると言ってから、この地への巡礼
 が増えた。
  因みに、ヤコブは「雷の子」と言われるほど気性の激
 しい人だった。
  イスラムの勢力が大きく、危険なイスラムの地を通っ
 てイスラエル聖地巡礼が出来なかったからである。
832年、バイト・アルヒクマ(知恵の館):アッパース朝
 7代カリフ、アル・マームーンが832年にバクダッドに設
 けた研究機関。
  古代ギリシャ文明の遺産である哲学・自然科学の大量
 の文献を組織的にアラビア語に翻訳する事業により、イ
 スラム学術の発展に寄与した。
  ササン朝時代のジュンディーシャーブールにおけるギ
 リシャ語文献のシリア語への翻訳事業を引き継づもので
 あった。
  アラビア語に翻訳されたギリシャ語文献は、さらにラ
 テン語に訳され、中世後期以後、ヨーロッパ思想の発展
 に著しく貢献した。
  この恩義あるイスラム世界を、キリスト教世界は蔑(
 さげ)んだ。
  医学などを教えてもらって、どれほどの人々の命が救
 われたというのか。
  「イスラムは文明の遅れた国だ」と嘘や間違った情報
 によるマインド・コントロールキリスト教は盛んにした。
  キリスト教には、この嘘つき体質が今・現代でもある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009