(増補版)16A:気になった事柄を集めた年表(661年〜689年)

 題:(増補版)16A:気になった事柄を集めた年表(661年〜689年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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662年1月、斉明天皇中大兄皇子は飛鳥を出て筑紫の朝倉
 の宮に移って、朝鮮半島の救援のための百済援軍の準備
 をした。
662年2月、中国・唐の武将・蘇定方が、朝鮮半島攻撃の為
 に平壌城に赴(おもむ)き包囲するが、雪により苦戦し、
 包囲を解いて帰国した。
662年3月、日本の救援軍が、現在の朝鮮半島忠清南道
 あった周留城に入った。
662年8月、倭国に631年から人質として来ていた朝鮮の百
 済の王子である豊璋を、急遽(きゅうきょ)、帰国させ
 るとともに(百済を復興させようとの軍の強化と、太子
 の豊璋王を王へ擁立しようとした)、そしてまた、阿倍
 比羅夫らからなる5000人の救援軍を朝鮮半島へ派遣した。
663年3月、日本軍、救援のために新羅へ出兵。
663年8月、日本と朝鮮の連合軍が、白村江(はくすきのえ)
 で戦うも(663年〜666年)敗北した。
  この戦いの結果、戦いに勝利した大国の唐が、大陸に
 出現した。
  また、この時、日本も、唐の占領下に入る危険性もあ
 った、属国化の危険性があった。
  朝鮮半島の白村江で行われたこの戦いは、倭国百済
 国の遺民の連合軍(倭軍第一派1万余人・661年5月出陣、
 第二派2万7千人・662年3月出陣、第三派1万余人)と、
 唐と新羅の連合軍(唐軍13万、新羅5万)との戦いだった。
  この頃、唐は、あちこちで諸民族を征服し、唐の勢力
 圏は広かった。強力な国だった。
  敗戦の結果、日本は朝鮮半島の権益を失った。
  敗戦による日本の属国化の危険性は、日本の為政者を
 慌てさせた。
  日本は、国防体制・政治体制の変革の必要性を感じ、
 国家体制の整備が急速になされた。
  律令国家の建設のピッチも上がった。
  国号も『日本』とした。
664年、朝廷、辺防に着手。
664年、対馬壱岐に烽火(とぶひ)を置き、また防人を
 置き、筑紫には防人を置き、防衛施設である水域をつく
 った。
  烽火とは、のろしを上げて外敵の侵入を急報する設備
 である。
664年2月、冠位26階を制定した。氏上、民部、家部を定め
 た。
664年2月、唐より劉仁願(白村江の戦いで倭軍を破った唐
 の武将)が来た。
  百済占領の軍司令官として日本と交渉を持ち、安定を
 図った。
664年2月、唐と新羅の同盟締結。
  新羅の金仁問は、唐の勅使・劉仁願、百済扶余輶と熊
 津で同盟を結んだ。
664年5月、蘇我臣連子が死んだ。
666年12月、唐が高句麗を討伐した。唐は、644年〜668
 年まで3次にわたって討伐している。
667年3月、天智天皇が近江の大津へ都を移した。
667年8月、新羅の大軍が、平壌に向かって出陣した。
668年、近江令ができた。
668年、東ローマ皇帝のコンスタンス2世が、滞在中のシチ
 リア島で暗殺された。
668年1月、中大兄皇子が即位した(天智天皇)。都を近江
 に遷都した。
668年8月、新羅の貢調使が来朝した。
668年9月、唐が新羅と共に平壌を攻略し、安藤都護府を置
 いた。
668年9月、高句麗が滅亡した。
  朝鮮半島は穏やかな時代が過ぎていた。
  北に高句麗、南に新羅百済があった。
  中国の地に唐が国を統一するや、その状態は一変した。
  新羅は、唐と手を結んで、半島に唐の大軍を引き入れ、
 まず百済が滅ぼされ、次に高句麗が滅んだ。
  そして、この年に、唐は、高句麗の地をおさめ、直轄
 地とした。
  その後、新羅は、唐に駆逐されない様に中国式国家を
 つくった。
  そして、唐に対し、無害の存在であることを示した。
  新羅の人たちの名前まで中国式にした。
  そして、この時、668年9月、新羅は唐と結んで、高句
 麗を滅亡させた。
  唐に敵対するのは日本だけだった。
669年、天智天皇は、唐との国交正常化を図り、この年に、
 河内鯨らを遣唐使として派遣した。
669年10月、藤原鎌足が死んだ(56歳、一説は50歳)
670年2月、全国的に戸籍作成(日本)。
  天智天皇庚午年籍(こうごねんじゃく)をつくった。
  これは、永久保存された戸籍。
670年7月、新羅が、百済の旧領の八二城を攻略した。
671年、唐と新羅が対立する(唐・新羅戦争)。
  新羅は、対唐戦争に対処するために対日外交を積極的
 に推進し、支配下に入った高句麗百済耽羅(たんら、
 済州島)の使者を日本に送った。
671年1月、太政官執政部の任命。
671年1月、唐人・李守真が、熊津郡督府から筑紫に来て上
 表(じょうひょう、意見を書いた文書を君主に奉ること)
 した。
671年10月、大海人皇子が出家した。
  病床にあった天智天皇は、弟の大海人皇子を呼び、天
 皇の位に(この当時はまだ「大王(おおきみ)と呼ばれ
 ていて、「天皇」という称号を使っていない)を譲るこ
 とを伝えた。
  大海人皇子はこれを辞退し、即座に髪を切り出家して
 吉野宮へ移り住んだ。
671年11月、五大官の誓盟。
  大友王子を含めた重臣たちが、織物仏の前で誓盟を交
 わた、これは、大友皇子天皇にするという事だろうと
 言われている。
671年12月、天智天皇崩御した。
672年、飛鳥京に遷都した。
672年6月、壬申の乱が起きた。
  近江(滋賀県)の大友皇子(おおともみこ)と、吉野
 で挙兵した大海人皇子(おおあまのみこ)の争い。
  大海人皇子が勝利した。
672年7月、近江朝が覆滅(ふくめつ、完全に滅びること)、
 大友皇子自害。
673年2月、大海人皇子が、飛鳥浄御原宮(あすかきよみは
 らのみや)で即位し、天武天皇になった。
675年、牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食用とすることを禁じ
 た。
675年2月、諸氏の部曲を廃止した。
675年2月、唐の武将・劉仁軌が、新羅を破った。
676年、新羅(しらぎ)、この年、唐を駆逐して朝鮮半島
 を統一した。
679年、ベトナムハノイが、唐の直轄地となった。
681年、律令の編纂(へんさん)開始。
681年、諸国に命じ天下に大解除(おおはらえ)を行う。
  おおはらえは除災行事のこと。
681年2月、律令改修の詔。立太子草壁皇子)。
681年3月、帝紀などの編述にかかる。
694年、藤原京に遷都した。
683年、唐の高宗が崩御すると、子の李顕(中宗)が即位
 するが、中宗の皇后・韋氏が、血縁者を要職に登用した
 ことを口実に、太平公主(高宗の娘)を使って中宗を廃
 位し、その弟の李旦(睿宗)を、新皇帝に擁立した。
  睿宗は、武后(武則天)の権勢の下、傀儡に甘んじる
 事を余儀なくされた。
  武則天(高宗の皇后)の専横に対して、皇族が次々と
 挙兵したが、いずれも打ち破られた。
  民衆は、武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至ら
 しめ、多くの浮戸(土地を持たない生活困窮者)や逃戸
 を招いたが、農民蜂起が起こる程の情勢ではなかったた
 め、反乱軍に同調する者は少なく大勢力には発展しなか
 った。
  高宗が没したが、皇后・武氏政権を握った。
684年10月、天武天皇は、八色の姓(やくさのかばね)を
 定め、豪族を天皇中心の身分秩序に編成した。
  八色の姓は、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰
 (すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・
 連・稲置である。
685年1月、冠位の制を改め、60階とする。
686年9月、天武天皇崩御する。皇后称制。
686年10月、大津皇子の異変。大津皇子が自害。
688年、鑑真が生まれた(688年〜763年)
689年6月、持統天皇天武天皇の皇后)が、この年、飛鳥
 浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行した。
  この令に基づく戸籍の庚寅年籍(こういんねんせき)
 をつくった。
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