(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年〜732年)

 題:(増補版)18A:気になった事柄を集めた年表(712年〜732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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712年、古事記が作られた。
  日本最古の歴史書である。
  太安万侶(おおのやすまろ、太朝臣安萬侶・おほのあ
 そみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された。
  まずは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶し暗唱して
 いた事柄を元にして編纂されている。
717年〜741年、イコノクムス(聖像破壊運動)。
  この年に在位するレオ3世は、コンスタンティノーブ
 ルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラムス)を始
 めた。
  首都にあった聖像のほとんどを消滅させてしまった。
  多くの教会の装飾や美術品は、オスマン=トルコ時代
 のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に破壊された。
  ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィア教会にお
 いては、イスラム教徒によってモザイクやフレスコ画
 べてが漆喰で塗り固められてしまった。
  レオ3世は、799年に襲われて危うかったところをかろ
 うじて逃げ出し、アルプスを越え、フランク王国のカー
 ル1世のところへ逃げ込んだ。
  レオ3世のローマ教皇在位は、795年〜816年である。
  816年死去。66歳?(生年不明のため)。
718年、孝謙天皇が生まれた。(718年〜770年)
718年頃、大伴家持が生まれた。(718年頃〜785年)
718年、養老律令が成った。
  藤原不比等(ふひと)が、養老律令の撰修(せんしゅ
 う、書物を著すこと、または、編集すること)した。
  ここで、大切な事は、日本の律令を作ろうという自覚
 的姿勢があったこと。
  この頃の朝鮮の新羅は、唐の冊封(さくほう、中国か
 ら位を授けられること)を受け、中国の属国になること
 に甘んじていた。
  それに対し、日本は、その様な行動に出ず、日本独自
 の政治体制を敷こうとしていた。
  また、この頃、我が国の国号を「日本」と明確に宣言
 している。
  この事も、素晴らしい先進的意識である。
  この様な事例において、ヨーロッパの場合、現在のイ
 ギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどの国の意識が、
 おぼろげでも登場する時期は、10世紀より以前に遡るこ
 とが出来ない。
  13世紀の説もあるくらいである。
  10世紀としても、日本は、ヨーロッパより300年も早
 く、国、国体の意識が確立していた。
  中国からの国家体制を、モデルとしながらも、日本は、
 独立自尊の意識がある国であった。
  この様な独自の道を進む国は、東アジアでも日本だけ
 だった。
  唐の滅亡後も、特に、中国からの決定的影響を受ける
 ようなことがない日本だった。
  因みに、この頃の日本の推定人口は560万人だった(
 国民総人口)。
720年、日本書紀が完成。
  日本に伝存する最古の正史(帝紀・・天皇の系譜)で
 ある。
  神代から持統天皇の時代が記述されている。
  舎人親王らの撰で完成した。全30巻。
720年、藤原不比等が没した(659年〜720年、61歳)
  死後、長屋王(ながやのおおきみ、皇族)が政治の実
 権を握った。
720年、垂仁天皇が、殉死を悼み埴輪を立てた。
720年3月、隼人の反乱。
  九州南部の支持が完全に得られていなかった。
  中国との交流も活発な地域でもあった。
  朝廷は、大宰府を拠点にして体制強化もしていた。
  713年に大隅国を設置し、また、豊前国(ぶぜんのく
 に、福岡県頭部)から5000人を移住させ充実させたりし
 て来た、その中で、朝廷は、律令制、特に班田収授法を
 進めようとした。
  ここに軋轢(あつれき)が生まれた。
  この様な時、720年2月29日に大宰府から朝廷へ『大
 隅国の国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝え
 られた。
  朝廷は、3月4日に、大伴旅人(おおとものたびと)を
 征隼人持節大将軍に、笠御室巨勢真人を副将軍に任命
 し征討が行われた。
721年、元明天皇崩御した(661年〜721年)
722年、百万町歩開墾計画。
  この計画は、良田百万町歩計画とも呼ばれ、この年、
 この計画が出された。
  この朝廷から出された計画の『壮大な夢の考え方』に、
 国を、大きな心で、豊かにしたいとの心を感じる。
  古い時代にも、日本には、この様な心があった、また、
 この計画に、日本人のスケールの大きさを感じる。
  この計画には、政情が不安定で民が定住できにくいと
 いう事情もあった。特に、陸奥の地がそうだった。
  朝廷は、税である庸調を免じようともしていた。
  また、政情不安定で、都へ逃げて来ている民を、国へ
 帰れるようにしようとしていた。
  今・現在行われている「地方創生」である。
  そして、みんなで良田を開墾しようとしている。
  収穫をあげた人への報償も用意していた(勲位六階)、
 当然、罰もあったが・・。
  1000石以上の功績者には、終身に渡って庸を免除する
 という方針もあった。
  また、辺境の地の開墾や鎮守は大変で重要であるから、
 その貯えを貢進する人には叙位するという事も決められ
 ていた。
  しかし、計画通りにはいかなかった様である。
  この頃、世情が、公地公民の制が崩れ、浮浪・逃亡が
 多くなっていたことも関係している様である。
723年5月、三世一身の法が定まった。
  墾田の奨励のための法律。
  3世代、または、本人一代まで、墾田した田の私有を認
 めた。
  新しい灌漑施設を造って墾田をした場合は3世代で、
  既設の灌漑施設を改修して灌漑・墾田した場合は、本
 人一代の私有を許すというものだった。
  この背景は、食糧増産の政策があった。
  人口が増加していた。
  この事により、墾田開発は進んでいたことは確実。
  この頃、元正天皇のもとで、天武天皇の孫である長屋
 王が政治上の実権を握っていた事も関係している。
  そしてまた、平安時代以降、この班田収授法の実施が
 なされなくなった、公地公民制が崩壊して行ったという
 事と比較して考えると、この時代の政策に輝くものが見
 い出される。
723年、この頃、僧・行基が活躍。民を助け、また、施薬
 院・悲田院を建てた。
724年、陸奥の国に、多賀城が設置された。宮城県多賀城
 市。陸奥国府や鎮守府として機能した。
724年、聖武天皇が即位した。
  聖武天皇の皇后の父は藤原不比等
  聖武天皇の即位とともに、藤原不比等の子の藤原四子
 (藤原武智麻呂藤原房前藤原宇合藤原麻呂)が政
 界に進出した。
727年、中国の東北部に、渤海(ぼっかい)という国があ
 った。この年以来、日本との外交関係を持った。
  渤海使は、日本海を渡って、まず、出羽に来た。
  そして、京に入った。
729年、藤原四子は、長屋王と政権の座を争ったが、この
 年、長屋王の変で、左大臣長屋王を謀反の疑いをかけ
 て自殺させた。
  藤原四子は参議となり、9人の参議の大勢を占め、729
 年から737年までの間、朝廷政治を握った(藤原四子
 権)。
  四兄弟は、737年の天然痘の流行によって相次いで病
 死し、この政権の終焉を迎えた。
  この後、橘諸兄(たちばなのもろえ、葛城王)が、右
 大臣として政権を担った。
  そして、唐から戻った吉備真備や僧・玄纊(げんぼう)
 を登用した。
732年、トゥール・ポワティエ間の戦いが起きた。
  トゥールとポワティエの間で、フランク王国(5世紀
 から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系
 の王国)と、ウマイヤ朝イスラム史上最初の世襲イス
 ラム王朝、661年〜750年)の間で起こった戦い。
  フランク王国は、伝統的に均等分割相続の制度があっ
 た。
  そのため、王位継承の度に国土が分割され、王権は弱
 体化した。
  逆に、王に仕える宮宰は力を強くした。
  7世紀の後半、フランク王国は2国に分かれており、
 それぞれの宮宰どうしが争っていた。
  この争いに勝利したのがピピン2世で、実権を掌握した。
  この内紛に乗じ、イベリア半島西ゴート王国を征服
 したウマイア朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越え
 て、フランク王国内に侵入を始めた(720年から、大規
 模な侵入を始めていた)。
  イスラム軍の侵入の報を受けたカール・マルテル(ピ
 ピン2世の子)は、トゥールへ軍を進めた。
  トゥールにはイスラム軍が来ていなかったため、南の
 ポワティエに向かった。
  ここでイスラム軍との戦いが開始された。
  この戦いに勝ったカール・マルテルは声望が上がった。
  彼は、この戦いで兵を強くする必要性を痛感した。
  そこで、領土の3分の1を占有していたキリスト教
 の領を、騎士に貸与し、強化しようと教会領を没収した。
  ピピン3世(在位751年〜768年、カール・マルテル
 子)の代になり、メロヴィング家の王を廃し、自ら王位
 についた。カロリング朝が始まった。
  この頃、東地中海の一部が、わずかにビザンチンの手
 に残ったが、西地中海はほぼ完全にイスラムに制圧され
 ていた。
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