(増補版)15A:気になった事柄を集めた年表(650年〜661年)

 題:(増補版)15A:気になった事柄を集めた年表(650年〜661年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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651年、新羅の知万という貢調使(こうちょうし、諸国か
 ら毎年献納する品物を朝廷に納める使い)が、唐国の服
 を着て筑紫に着いたので追い返した。
  唐へ冊封して属国化している新羅が、日本への使いま
 でもが唐服を着ているのでそれを咎めてのこと。
  当時の日本の独立自尊を表している史実。
652年、班田を完了した。
652年、班田収授法が実施された。
  朝廷は、水田を整然とした区画に分ける条里制を実施
 し、
  国民一人ひとりに、一定面積の水田を口分田(くぶん
 でん)として分配し、割りあて、
  収穫を、田祖として、収穫の一部を納めることにした。
  公地公民制に基づいて、6歳になれば、良民男子は2段、
 同女子はその3分の2が与えられた。
  キリスト教の地の様な、女子は人間じゃない的な日本
 ではなかった。
652年4月、初めて戸籍を作った。
  日本の戸籍制度の起源と言われている。
  この事によっても、口分田の分配・割り当てが、日本
 国民の隅々まで、公平に、落ちなく行われた。
  公地・公民の考え、すべての国民や土地は天皇のもの
 (家族)であるという基本があった。
  平等の理念があった。
652年9月、難波宮(難波長柄豊崎宮)が落成した。
  650年から造営を始めて完成したものだった。
653年、皇太子ら政府を飛鳥に移した。
  天皇難波宮にとどまった。
653年5月、唐に使節を送った。第2次船。
  緊迫した朝鮮半島情勢下で行われた。
  659年の第4次遣唐使は、唐による百済討伐の情報漏
 洩(ろうえい)を阻止するために、日本の使節が唐側に
 よって抑留された。
  2年後の解放されて帰国するまでの間に、日本側では、
 朝鮮半島百済救援のために、唐との対決を決断した。
  白村江の戦いへ至る。
653年6月、飛鳥時代の学僧・旻が亡くなる。
  中国系の渡来氏族。魏の陳思王・曹植系図の人。
  小野妹子と隋へ渡ったり、
  蘇我入鹿藤原鎌足へ講義したりし、
  645年の大化の改新時に国博士になり、高向玄理と八
 省百官の制を立案している。
654年、高向漢人玄理が、唐で客死(かくし、旅先で、ま
 たは他国で死ぬこと)した。
654年10月、孝徳天皇が、難波宮崩御(ほうぎょ、天皇
 皇后・皇太后太皇太后を敬ってその死をいう)する。
655年、飛鳥板蓋宮が火災になる。
655年、唐と新羅の軍事協力が660年に成立し、色々な戦
 いがあったが、
  655年、高句麗、靺鞨、百済の連合軍が、新羅北部の
 33城を奪ったため、真徳女王を継いだ新羅の29代の王・
 武烈王は唐の高宗に救援を求め、唐は高句麗を攻撃した。
655年1月、孝徳天皇崩御後、655年1月3日、斉明天皇
 62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位についた。
  史上初の重祚(ちょうそ、一度退位した君主が再び即
 位する事)。
  政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
656年、後飛鳥岡本宮、両槻宮、吉野宮をつくる。岡本宮
 炎上。
657年、新羅が日本の要請を拒否した。
657年、唐の高宗が、将軍・蘇定方に、西突厥アフガニ
 スタン北方の国)を征服させた。
  多くの戦いの中、激戦だった。
  権謀術数が、色々、渦巻いた。
  味方のようなふりをして出迎え、城に入ると、囲みの
 中に入ってしまい捕らえられるなど。
658年1月、巨勢左大臣が死んだ。
658年4月、阿部臣比羅夫が、蝦夷を征伐した。
658年11月11日、有間皇子の変。
  有馬皇子は飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子。
  天皇への謀反の計画が発覚し、処刑された。
659年、藤原不比等が生まれた(659年〜720年)
669年3月、天皇が、吉野・平浦に赴かれた。
660年、百済滅亡。
  この年に、唐と新羅の同盟は成立し、平壌以南を新羅
 以北を唐が領有する約束がかわされた。
  新羅も、高句麗百済との抗争の中で勢力を伸ばして
 いた。
  唐・新羅両軍は連合して、百済へ侵攻した。
  百済の福信も挙兵。
  日本軍も錦江河口で、連合軍に敗れ、百済は滅ぼされ
 てしまった。
660年、山上憶良が生まれた(660年〜733年)
660年、武后の執政時代がはじまる。
660年3月、阿倍比羅夫が、粛慎を討伐する。
  阿倍比羅夫は658年から3年間、遠征した。
  658年に、水軍を180隻を率いて、日本海側を、北は
 北海道まで行き、蝦夷を服属させた。
  粛慎は、中国の文献ではツングース族だが詳細は不明。
  比羅夫は、660年3月、大河のほとりで粛慎に攻めら
 れた。
  渡島の蝦夷に助けを求められる。
  比羅夫は、粛慎を幣賄弁島(へろべびのしま、北海道
 の奥尻島と言われている)まで追って彼らと戦い、破っ
 た。
  この年の5月には粛慎の37人を饗応したともいう。
660年、中大兄皇子が、遅刻(水時計のこと)を造った。
660年10月、百済の滅亡後、朝鮮半島の鬼室福信らによっ
 て、百済の復興運動が展開された。
  日本の朝廷は救援を求められた。
  このいきさつで、日本は朝鮮半島へ救援の軍を送り、
 白村江の戦いへ至る。
660年12月、天皇難波宮へ移る。
661年、元明天皇が生まれた(661年〜721年)
661年1月、斉明天皇らが西航された。熟田津(にぎたづ)
 で歌を詠まれた。
661年4月、唐が、蘇定方をして高句麗を討った。
661年7月、斉明天皇が、朝倉宮(朝倉橘広庭宮、あさくら
 のたちばなのひろにわのみや)で崩御する。
  その後、皇太子(後の天智天皇)は、長い間、皇位
 つかず皇太子のまま称制した。
661年、ウマイヤ朝(サラセン帝国確立)〜750年。
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