(増補版)14A:気になった事柄を集めた年表(618年〜650年)

 題:(増補版)14A:気になった事柄を集めた年表(618年〜650年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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620年、聖徳太子蘇我馬子が、「天皇記」を編纂した。
 歴史書である。
622年、聖徳太子が病に死す(48歳)、翌日、妻も亡くな
 る。
622年、、マホメットがメッカよりメディナへ移る。イス
 ラム歴元年。
624年、唐の高祖が、官制を定め、律令を分かち均田とし、
 租庸調の法を定めた。
626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が生まれた
 (626年〜671年)
626年5月、大臣・蘇我馬子が死んだ。桃原墓に葬る。
  子供の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣(おおおみ)
 になる。
626年8月、中国唐の第二代皇帝・の太宗李世民が即位した。
  (貞観の治・じょうかんのち、627年〜649年)。
  この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言
 われ、後世、政治的な理想時代とされた。
628年、唐、中国大陸を統一する。
628年4月、推古天皇崩御した時、継嗣を定めていなか
 った。蘇我蝦夷は、群臣にはかって、その意見が、田村
 皇子と山背大兄王子に分かれていることを知り、田村皇
 子を立てて天皇にした。これが舒明天皇
630年、初めての遣唐使
  894年に菅原道真の建議によって停止されていた遣隋
 使以来、初めての第一次遣唐使が、630年の犬上御田鍬
 (いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。国交
 の再開。
632年、マホメットが亡くなった(571年〜632年)
637年、唐の太宗が律令を制定した。
640年10月、唐より、学問僧・請安、留学生・高向漢人
 理らが帰朝した。
641年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の父・舒明
 天皇崩御する。
642年、蘇我入鹿(そがのいるか)が勢力をふるった。
642年1月、中大兄皇子の母の皇極天皇(こうぎょくてんの
 う)として天皇となる。
642年、ササン朝ペルシャが滅亡した。
645年6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や
 中臣鎌足らが、蘇我入鹿(そがのいるか)を、飛鳥板蓋
 宮(あすかいたぶきのみや)にて暗殺し、
  翌日、入鹿の息子の蘇我蝦夷(えみし)が、自らの邸
 宅に火を放ち自殺した。蘇我氏が滅ぶ。蘇我体制に終止
 符を打たれた。[乙巳(いつし)の変]。
  大化の改新が始まった。
  唐にならった官僚的な中央集権国家体制樹立を目指し
 た。
  大化の改新に際し、皇極天皇は、孝徳天皇に譲位(軽
 皇子即位)し、
  都を難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)
 に移し、高向玄理や僧・請安を国博士に就任させ、
  中臣鎌足を内臣(うちつおみ)の官職に就けた。
  そして、初めての年号を定め、大化とした。
645年8月、東国へ、国司を派遣した。
645年9月、古人皇子の変。
  古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は亡くな
 る。舒明天皇の第一皇子。中大兄皇子の異母兄。
645年12月、都を難波(難波)に移した。
  天皇中心の中央集権国家への第一歩。
  初めて左右大臣、内大臣、国博士を置いた。
  仏教興隆の詔。
645年、「武蔵の国」という分国が出来た。
  当時は、ほとんどが原野と森林の国だった。
  国府は、多摩郡の府中に置かれた。
  府中に、国府の社として「大國魂神社(おおくにたま
 じんじゃ)」が出来たが、大社ながら7世紀の新設のため、
 一の宮とは言われなかった。
  それ以上の社として、氷川大社があった。
  聖武天皇(701年〜756年)の時、氷川大社は、武蔵の
 国の一宮の列せられ、武蔵の国の地の神々の筆頭となっ
 た。
  これにより、源頼朝が関東で幕府を起こした時も、社
 領300貫を寄進し、敬意を現わしている。
  これが先例になって、戦国期、小田原北条氏が関東を
 制した時も、礼を厚くし、
  また、徳川家康が江戸に入部した時も、朱印300石を
 寄進した。
  武蔵と言えば、氷川明神だったのである。
  徳川家は、江戸城内の鎮守神としても氷川明神を勧請
 している。
  明治になって、東京の遷都された時、明治天皇は、氷
 川大社に勅使を送り、一代のうちに三度参拝された。
645年1月、大化の改新の詔(みことのり)が出された。
  「大きな古墳造りを禁止」した。
646年1月、日本書紀によれば、この年の正月の改新の詔に
 おいて「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあ
 り、これが、班田収授法の所見である。
646年3月、中大兄皇子が、自らの入部と屯倉天皇に献じ
 た。
646年8月、諸々の部の廃止を宣告した。税制も改正した。
 品部を廃止し、旧職を廃し、百官を設け、冠位を叙する
 方針を詔した。
646年9月、高向玄理新羅に遣わし、任那の調を止めさせ
 た。
647年、七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)が
 制定された。冠位十二階に合わせて冠位十三階を制定。
647年1月、新羅が、官職にある金春秋(キム・チュンチュ)
 を日本に派遣した。
  そして、以前、日本から新羅に派遣されていた高向漢
 人玄理と中臣連押熊を送ってよこし、孔雀、オウムそれ
 ぞれ一羽を献上した。
  その際に、金春秋は人質とされた。
647年、善徳女王。新羅初の女王。
  百済高句麗は同盟していた。
  新羅は孤立した状態だった。
  643年9月に、新羅は、唐に使者を送って高句麗百済
 を討つ援軍を求めたが、
  唐からは、援軍を派遣するには、善徳女王を廃して、
 唐の王室から深奥を立てる事を迫られた。
  こうした唐の姿勢に対し、新羅国内では親唐派と反唐
 派の対立が生じ、
  女王自らが任命した上大等の毗曇らが、647年正月に
 女王の廃位を求めて内乱を起こした。
  女王は、正月8日に陣中に没した。
  その後直ちに、金庾信らが、真徳女王を立て、正月17
 日になって乱を鎮圧した。毗曇ら20余名は誅殺された。
648年、磐舟柵(いわふねさく)が、現在の新潟県村上市
 岩船の辺りに置かれた。
  蝦夷に備える柵で、越と信濃の民を選んで、はじめて
 柵戸を置いた。
648年4月、旧冠制が廃止されるが、古冠を使用する。
649年2月、冠位19階を制定した。8省100官を置いた。
  背景には、官職の増加がある。
  この頃から、冠位を持つ地方豪族も増えた。
  また、この頃から、冠位がより官僚的になった。
  昇進とか、選考といった原型が形成されたと考えられ
 ている。
  より律令位階制度に近づいた。
  お役所が形作られて行く。
649年3月17日、阿部左大臣薨去(こうきょ、貴人の死去
 すること)。
649年3月25日、左大臣薨去後、8日目に、右大臣蘇我
 山田麻呂が謀反の疑いをかけれれて自殺する。
649年4月20日、左右大臣が任命された。巨勢徳陀古左大臣
 と大伴長徳右大臣。
650年、詔によって、山口大口費(やまぐちのおおぐちあ
 たい)が千仏像を造った。
  山口大口費は、法隆寺金堂の広目天像の光背に名を残
 しており、当時、著名な仏師であった。
7世紀、玄奘三蔵は、インドからの帰途、シルクロード
 ルートを通り、
  4世紀頃、ロプノールが干上がって、楼蘭は衰退するが、
 その楼蘭の廃墟に立ち寄ったと「大唐聖域記」に記され
 ている。
  シルクロードは、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立
 していたとされる。
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