(増補版)13A:気になった事柄を集めた年表(591年〜618年)

 題:(増補版)13A:気になった事柄を集めた年表(591年〜618年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、
592年11月、蘇我馬子が、東漢直駒を使い、崇峻天皇を殺
 す。
592年12月、推古天皇敏達天皇の皇太后)が豊浦(とゆ
 ら)で即位した。
  小墾田(おわりだ)宮に遷都した。
  この頃、朝廷において、蘇我馬子が権勢をふるう。
593年、四天王寺が造立された。
593年、聖徳太子の宮殿は、斑鳩(いかるが)宮。
593年5月15日、、推古天皇が甥厩戸皇子聖徳太子)を
 皇太子とし、摂政とした(〜622年)。
594年2月、三宝興隆の詔。
595年5月、高句麗の恵慈が来朝する。
595年7月、筑紫駐屯の将軍らが大和に帰る。
595年7月、百済の僧・慧聡(えそう)が来朝して仏教を広
 めた。
  596年に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、
 高句麗から渡来した恵慈と住し、ともに三宝の棟梁と称
 された。厩戸皇子の仏教の師となった。
596年11月、法興寺が完成する。
597年4月、百済王子・阿佐が来朝する。聖徳太子の肖像を
 描いたと言われる。日本で一番古い肖像画とされている
 (お札の絵の聖徳太子)。原画は3人が立っているが、右
 が山背大兄王、左側が殖栗王。
598年8月、新羅が孔雀一匹を朝貢する。
598年、中国の官僚登用試験である科挙(高等官資格試験
 制度)が始まった。1905年までの約1300年間も続いた。
599年9月、百済が、駱駝一匹、驢(ろば)一匹・羊二頭・
 白雉一羽を貢した。
600年、新羅任那の使者が貢調(こうちょう、貢物を奉
 ること)する。
600年、初めての遣隋使を派遣した。618年までの18年間
 に5回以上派遣している。
600年、テオティワカン文化:メキシコシティ北東約50キ
 ロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した。
 7世紀には北方から「蛮族」の侵入を被り、急激に衰退に
 向かった。
600年、インドネシア:強力な王朝が出現するのは、7世紀
 にスマトラにシュリービジャヤ朝が出現して以後である。
600年頃、チベットチベットは7世紀の頃、吐蕃(とばん
 )という国から歴史に登場する。7世紀の初め、ソンツ
 ェン=ガムポ王が出てチベットを統一し、唐を脅かした。
  中国・ネパールから二人の公主(こうしゅ、天子の娘。
 皇女)が嫁したのを機に仏教が入り、その後、ラマ教
 発展し、インド文字を摸してチベット文字が作られた。
600年、境部臣(馬子の従弟ともいう)が征新羅大将軍
 新羅征伐の責任者)に任ぜられた。しかし、実際は赴任
 していない模様。
601年、聖徳太子斑鳩に宮を造る。
602年2月、来目皇子は、任那を滅ぼした新羅に対する新羅
 征討計画の際、征新羅大将軍として軍二万五千を授けら
 れた。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、
 6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせ
 ぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去した。
602年、百済の僧侶・観勒が渡来し、天文、暦本、陰陽道
 伝えた。観勒は書生を選んで教えた。聖徳太子によって、
 604年歴本が採用された。
603年2月、来目皇子が筑紫で死ぬ。当麻皇子を将軍とした。
 皇子の妻の死によって討伐を中止した。
603年10月、推古天皇(女帝)が豊浦宮(とゆらのみや)
 で即位し、新宮として小墾田宮を造営し移った。
603年12月、秦河勝に仏像を授ける。
603年12月、冠位十二階を制定した。冠位十二階は、徳・
 仁・礼(らい)・智・信・義をそれぞれ大小に分けたも
 ので、等級は冠の色と飾りとで示された。
604年1月、冠位を諸臣に授与した。
604年4月、聖徳太子が17条憲法を制定した。
604年9月、聖徳太子が朝礼を改めた。
606年4月、飛鳥大仏。
  明日香村の安居院(あんごいん)にある金銅製丈六の
 釈迦如来像は、606年に元興寺(がんごうじ)金堂の本尊
 として鞍作止利(くらつくりのとり)が制作した。
  因みに、丈六(じょうろく)とは仏像の背丈の一基準。
  仏は、身長が1丈6尺(約4.85メートル)あると言わ
 れることから仏像も丈六を基準とし、その5倍、10倍、
 または2分の1などに造像された。
606年、日本書紀に、606年、聖徳太子勝鬘経を講説した。
  また、岡本宮法華経を講じた。
607年、法隆寺が建立された。
  用明天皇が、自らの病気平癒の為に発願した法隆寺
 立を、用明天皇が亡くなったため、遺志を継いで推古天
 皇と聖徳太子が、607年に法隆寺を完成する。
  飛鳥文化が栄えた。
607年、この年、大和・山背・河内に池溝を掘り、国ごと
 に屯倉を置いた。
607年2月、日本書紀に、壬生部を定めるとある。
  壬生部とは皇子の養育料を出す部とされている。
607年7月、遣隋使。
  小野妹子が、大唐国に国書を持って派遣したと、日本
 書紀に記載されている。第二回である。
  倭王から隋皇帝・煬帝に宛てた国書に、「日出ずる処
 の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)な
 きや」の書き出しの国書を中国・隋へ渡した。
  日本の対等な姿があった。
  煬帝は立腹したという。
  しかし、立腹したところは「日出処」「日没処」では
 なく、倭王が「天子」を名乗ったところだという。
608年、この年、新羅人が、多く帰化する。
608年4月、小野妹子が、隋使の裴世清とともに筑紫に着く。
608年9月、小野妹子をふたたび隋に派遣する。
  第三回遣隋使。この時、留学生や学問僧らが同行した。
610年、この頃、高麗の僧・雲徴によって日本に製紙術が
 伝わった。その後、和紙になった。
610年3月、高麗の僧・曇徴(どんちょう)が来朝し、儒学
 絵画工芸、紙墨彩色から農具までも伝え、中国製石臼も
 造ったという。
610年10月、新羅任那の使者が入京した。
610年、マホメットイスラム教が成立した。
611年5月、推古天皇が兎田野(宇陀郡大宇陀町)に薬猟(
 くすりがり)をした。
  山野に薬草や、鹿の若角を求めた記録が日本書紀にあ
 る。当時、宇陀などの山野は薬草の宝庫だった。
611年8月、新羅朝貢する。
612年、隋が、未曾有の大軍を引き連れて高句麗遠征を起
 こした。
614年、中臣(藤原)鎌足が生まれた(614年〜669年)
614年、再び、遣使が朝貢した。
614年7月、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が、最終と
 なる遣隋使として、隋に渡った。
  翌年9月に、百済使を伴って帰国した。
618年5月、隋が、高句麗の征討の失敗が一因となって、こ
 の年、滅びた。
  そして、唐が興った(〜907年)、
  隋の高官であった李淵が興した。
  李淵は、617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(
 長安)を陥落させると、煬帝太上皇帝(前皇帝)に祭
 り上げて、その孫・恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中
 央を掌握した。
  翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に、江南にいた煬
 帝が殺害され、李淵は、恭帝から禅譲を受けて即位(高
 祖)、唐を建国した。
  唐は、律令制を整備し、均田制を基礎に租庸調税制・
 府兵制を定め、官吏採用のための科挙を実施した。
  文化、芸術が、首都・長安を中心に開花し、儒教、道
 教、仏教のほか、西方から伝えられた景教マニ教、ま
 た、回教も行われ、国際的性格を示した。
  因みに、景教の事を、今・現在、キリスト教は、「景
 教はキリスト教だ」と言うが、キリスト教は、派閥争い
 が酷く、公会議などで意見が合わないと直ぐ殺戮したり、
 放逐したりした。
  この景教もこの様な処分になった宗教であった。
  「キリスト教ではない」という処分を受けた宗教であっ
 た。景教は放逐され中国へ流れてきた。
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