あまりにも・・プロパガンダ(嘘宣伝)されている。

 題:あまりにも・・プロパガンダ(嘘宣伝)されている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 エルサレム神殿の民の店は・・
 暴力団の様に・・イエスと、その弟子たちの群れによっ
て破壊された・・暴力をふるわれた。
 被害者は・・立場としては・・『民であり』、『弱者で
ある』。
 現代においても・・その良否判断を行っても・・、それ
は、悪行為であり、当然、『暴力行為』で、『逮捕される
べき行為』である。
 この法的以外の・・判断においても・・『弱い者いじめ
の行為だ』・・この批難からは逃れられない。
 イエスが・・、
 『正義に訴える』と主張するなら・・暴力をふるう相手
は、同じ事をするなら(本当は悪い行為なのだが)、
 少なくとも、『強い者へ』、その行為を向けるべきだ。
 完全な『弱者いじめ(弱い者いじめ)』の態をなしてい
る。
 イエス、及び、イエスたちは、『卑怯にも』この強い権
力を持つ者への暴力は逃げ、行わず、弱者の民へだけ、暴
力をふるった。卑怯者の態である・・。
 現代においても、『当然であるが』、暴力行為をしたイ
エスとイエスの弟子たちは・・逮捕されるべきで・・、イ
エスだけが捕えられ、イエスの弟子たちは逃げてしまった、
そして、逮捕を逃れた、免れた。
 何らためにならない話が、聖書という本には続く。
 まったく卑怯なことをする弟子たちである。
 後ろめたいところが無いならば、堂々とするべきなのだ
が・・、
 やはり『悪いことをしたという意識があった』のだろう。
 町の暴力を振るうアンチャンの様に逃げた。
 同じ様に「お縄になるべき」ところを、逃亡したのであ
る。逃亡罪も加味される結果となった。
 以上の様に、この一部始終は、『町の愚連隊のあんちゃ
ん』というところの状況を呈した。
 イエスは、エルサレムの『民衆の怒りを買っていた』。
 当然である。民は怒ったのである。今までの鬱積(うっ
せき)もあったのであるが、今回の弱者をいじめたからで
もある。
 故に、イエスは、救われる道までも『自ら閉ざした』。
 イエスは、強盗とどちらかを助けるかという時にも、イ
エスは民から選択されずに、救われる道があったのを『民
からの選択はなされなかった』。
 『ここまで憎まれていた』のである。『その様な行為を
していた』のである。
 裁判も行われ、それまでのイエスの行為によって、刑が
執行された。
 アメリカの第二次世界大戦の後の『東京裁判』の様な
『形式的な裁判』とも言えるが・・。
 『偽(いつわ)りの正義』の様な裁判であったが・・、
 でも、イエスの裁判には、一応、『民の意見を聞く』と
いう『民主的な側面』があった。
 アメリカの東京裁判は、戦勝国だけの狭い人員で『広い
ように見せかけてはいるが』・・その『リンチ(私刑)の
状況』の中で・・事は・・行われた・・。
 イエスの気性の『短気から起きた大暴れ』の結果が、
『直接原因』であった。
 民からも、『救うべき点が無い』、『救うべき理由が無
い』と判断された。『東京裁判にはない』民主の意見を問
うというところは・・存在した。
 イエスに、民の支持は全くないという状態。
 尋問において「お前は、メシアなのか?」とイエスは問
われ、イエスは肯定しているとされている。
 キリスト教の聖書は、後から、多くの者によって、追記
されたり、書き換えされたりしているので、真実はどうで
あったかが不明だが・・。
 それにしても、メシア意識を持つ人間が、その『メシア
の到来を願う民衆』へ、暴力をふるう行為をするというの
か?
 同じ暴力を振るうという行為をするのであるなら、まず、
エスも怖(こわ)かったのであろう、恐れたのであろう、
その暴力をふるうなら、まず、権力者へ向かうべきだ。
 その点の意識が・・少なくとも、イエスは、強く思って
いなかった・・と言える。
 メシア意識、救済意識がある人であるならば・・弱者へ
は絶対、絶対に向かわないはずだ。救済すべき相手に向か
わないはずだ。
 まったく、暴力団レベルの判断だ。『力で解決する』と
いう。相手がだれであろうと・・という。
 イエスは、刑の執行の時、「神よ、なんで、お見捨てに
なったのですか?」と言っているが・・、
 民衆からも『選択されず』に見放されたと思い・・、
 また、神からも『見放された』と思っていた。
 そして、肝心な・・その神からの・・『応答もなかった』。
 その点について、キリスト教の聖書には『何も記されて
いない』。故に確実に『無かった』としか判断はできない。
 この点について・・これから後、誰かが追記するかもし
れないが・・、書き換えるかもしれないが・・、キリスト
教聖書は『その様な書』で、歴史を経て来た書である。
 キリスト教は、後世に、次世代に、残してはいけない宗
教なのです。キリスト教の方々は、早く離れて下さい。
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(追伸)
 実は、1人、弟子の12人全員が逃げた訳ではなく・・、
 1人だけが・・イエスがどうなるかを見に来ていた弟子が
居た。
 しかし、女性に、「この人、イエスの関係者です」と言
われたら・・「おれは、違う」・と、否認したという。
 まったく人の川上(かわかみ)にも置けない野郎だが、
 そしてまた、別の女性に指摘されると・・、またまた、
 「おら、違う」・・と、言ったという。
 そしてまた、兵士に咎(とが)められると、またまたま
た、「おら。違う」と、三度目も恍(とぼ)けたという。
 そして、鶏が鳴いたという。
 この事をイエスが予言していたという。
 なんと、「三度否認」して、そして、「その時、鶏が鳴
く」・・と、数と鶏が鳴くところまでも予言したという。
 そして、当たったという。
 それ程、将来予測ができるのなら、その後についても、
正確な予測をして貰いたかった。そして、予測ができると
いうものだ。
 そうしたら、弟子たちもこんな恥ずかしい行動は、取ら
ないだろうし、こんな悪結果にもならなかったはずだ。
 しかし、イエスは刑場で『神に訴えた』。心の中では、
『こんなはずじゃない訳だ』と思っていた。
 ここは、イエスには予測はできなかった事だった。読み
落としだった。
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