空想で積み上げたもの・・・

 題:空想で積み上げたもの・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教新約聖書の中心人物のイエスは、完全なデ
ッチアゲによってつくられた物語だ。
 キリスト教に関する宗教学者の本にも記述されているが、
その概略を見ると・・、
 民族が錯綜する「パレスチナの地」は、人間の『欲も錯
綜する』地だった。
 その地は、長い歴史、長い時間、悲惨な欲による地獄図
が描かれる地だった。
 矮小な肥沃の地を奪(うば)い合った。
 卑劣な欲望からの戦いが、繰り返し、繰り返された。
 その地の、そのイスラエルの民に、
 「ダビデ」という戦いに優れた者が現れた。
 弱肉強食、動物の世界の様な地に現われた勇者だった。
 彼は、キリスト教聖書の「サムエル記」に描かれた。
 サムエル記は、紀元前560年〜500年頃に完成したと言わ
れている。
 色々な人がかかわって、色々な人によって書かれたもの
だ。
 比較的、ダビデ実在の時に近いので、ダビデの人格的欠
点や失政も、正直に記録された。
 しかし、この正直な書き方が不満だったのだろう、時代
が下がって、紀元前300年〜250年(先の書・サムエル記の
記述後、約250年後)に、
 「歴代志、上・下」が書かれた。
 この書は、サムエル記の気に入らない所の、「総べてと
言っていいくらい」を削除し、消し去った。
 ダビデとサウル王家との、卑劣な凄まじい争いや、
 ダビデの人妻姦淫行為や、
 ダビデの王宮内の暗黒面などなど、一切が削られた。
 そして、その代わり、ダビデとその時代を理想化し、
 ダビデが宗教儀式を、しっかり守る立派な王として描き、
 また、神殿制度が、君主制の初めから、しっかり行なわ
れていましたなどと、長い記述と共に書き加えられていた。
 この様な事から、この著者は、後世の宗教関係者の祭司
だとされている。
 この著者たちは、ダビデを理想的な宗教家とした。
 つまり、一般庶民ではなく、この様な記録が出来る立場
に居る宗教関係者たちが、
 時代と共に、自分に都合の良い様に、書き換えて行く。
 史実などそっちのけで、
 時代時代に、手を加え続けられて行った。
 ダビデは、理想的な王とされ、
 理想的な詩人とされ、
 理想的な宗教家とされ、崇(あが)められて行った。
 そして、「救世主(メシア)」思想が加わって行った。
 このメシア思想に、ダビデが結び付けられて行った。
 イスラエルの民は、ダビデの栄光に憧(あこが)れ、待
ちわびた。
 いつの日か、ダビデの様な力のあるメシアが現れ、
 虐(しいた)げる外国勢力を滅ぼし、
 神の民・選民を救ってくれるに違いないと、信じるよう
になった。
 やがて、イスラエルの民は、
 ダビデの子孫からメシアは現れるだろうと思う様になっ
た。
 そして、ダビデの故郷のベツレヘムという村から生まれ
るはずだと思った。
 キリスト教の信仰が生まれた。
 キリスト教新約聖書が、必死に、イエスが、ベツレヘ
ム生まれだと言うのは、この事。
 でなければ、イエスは、メシアでなくなってしまう。
 そして、新約聖書は、不必要なくらいに、洗脳的に、イ
エスを「メシアの子よ」と叫んだ。
 イエスが、メシアの子というのが、信仰の必須要素であ
るからだ。
 メシア思想で、信仰が成立っているからだ。
 つくられた「ストーリー」に乗せたかったのだ。
 油を注がれた者の話などで必死に、その筋を補強した。
 イザヤは、紀元前8世紀に現れたが、このメシア思想を、
はっきりと最初に表した人だった。
 この「イザヤ書」も、後代の人たちが、いい様に、色々
と手を加え、脚色した。それも複雑に。
 紀元前520年頃に書かれたと言われている。
 何しろ、キリスト教は、色々な人が、空想で積み上げた
もの。
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