「へブル人」は、渡って来たものの意・・、

 題:「へブル人」は、渡って来たものの意・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教の民は、メソポタミアの地「ウル」という町
を出立したという、
 ここから、話は始まる。
 歴史を見ると、紀元前2000年頃から紀元前1500年頃に
「アラム移住団」と呼ばれる民族の移動が、
 メソポタミアの地から地中海方面へ向けて、
 何度か、行われた事が分かっている。
 これは1つの史実であるが、
 キリスト教のカナンの民が、この史実の動きだったとは、
即座に、断定する事は出来ない。
 何しろ、この時代の人々は、生きるために、あちこちに、
移住と言うか、移動をしている。
 また、キリスト教の聖書は、『最初に』、メソポタミア
「ウル」の町から・・とは言うが、
 「ウル」に定住していたかは不明。
 移動する要件は色々ある。
 やはり、この頃、紀元前19世紀頃に、北方の蛮族が、メ
ソポタミアの地を脅(おびや)かし、圧迫している。
 これが、キリスト教聖書の人々の移住の原因だったかも
しれない。
 この蛮族の圧力は、強烈だったと言える。
 紀元前1720年〜1550年頃には、エジプトまで影響を与
えている。
 そして、エジプトまで支配をしている。
 キリスト教の聖書の最初の民のアブラハムは、
 この様な頃に、紀元前1800年頃に、パレスチナの方面
へ向かったと考えられている。
 ただし、出立後は、チグリス・ユーフラテス川の上流の
方向へ向かったと考えられる。
 そして、彼らがメソポタミア「ウル」に定住して居たの
かは不明であるが、(キリスト教は定住していたと言いた
いらしい)が、この時代、人々は生を求め、移住し、移動
しているから、メソポタミアの前の地もあっただろう。
 また、当時良くある、北方からの民族の南下して来る民
との軋轢(あつれき)もあり、移動・移住もし、また、当
時良くある、その民族との混血もあっただろう。
 聖書では、この時代を「族長時代」と言っている。
 キリスト教聖書の「創世記」の第11章以降の部分だ。
 この聖書の、ユダヤ人の祖先とされているアブラハム
イサク、ヤコブ、ヨセフなどは、遊牧の民の族長と言われ
ている。
 遊牧であるから、本来的に、あちこち移動はしていた。
 また、遊牧の民は、小さな部族の単位だった。
 その様な族が、あちこちに居るという社会だった。
 キリスト教は、『人祖』・アブラハムと言っているが・。
 そして、この様な状況は、今、現在でも、シリアやアラ
ビアの砂漠の地に、昔ながらに、セム遊牧民が、この様
な生活をし、暮らしている。
 この古代の族長たちの宗教は、キリスト教の『キの字』
も無い。
 また、キリスト教の前のユダヤ教の匂いも無い。
 その様な人々が、遠い存在の族が、あちこちに、存在す
るのだった。
 その様に、キリスト教とは何にも関係は無いが、聖書に
は、さも、あった様に、名前が書きつらねられている。
 はっきり言えば、キリスト教が忌み嫌う異教徒だった。
 キリスト教の教義からすれば、排斥すべき対象の族だっ
た。
 キリスト教の神も、何もかも、形も無い世界だった。
 有るのは、異教のものと異教の神だけ・・。
 彼らは、ただ、そこらにある頼(たよ)るべき物、木、
泉、井戸、川、岩、石、山などを信仰していた。
 また、「家族の結束のための神・テラピム」や、「命を
失う危険な動物の蛇のタセラピム」や、「彼らの生きる命
の綱の牧畜の神・アザゼル」や、「彼らの心を慰める月の
神」や、「エルの神(エルは、ただ、神の意)」だった。
 旧約聖書に出て来る「エル・ロイ」は、キリスト教の神
と何ら関係の無い、また、異教の神となる「泉の神」の事
を言っている。
 また、同じく聖書に出て来る「ぺテル」は地名のぺテル、
 「ぺト・エル」は「エル(神)の家」の意味。
 ここを美しく、キリスト教は無理に、関係づけ様として
いるが、無理に考える事はよした方が良い。理性を無理に
抑え殺し、盲信する事は止めた方が良い。
 今後も、キリスト教は変わって行く。キリスト教は、絶
対のものでは無い。その事は歴史を見れば分かる。
 いつの時代も、その状況の中で、コロコロと変わってい
る。絶対のものでは無い宗教だ。
 因みに、聖書に最初に書かれている人・アブラハムは、
「ベブル人」を意味し、ベブル人は「渡って来たもの」と
いう意味だ。
 そして、供犠(くぎ)を捧(ささ)げる野蛮な信仰の下
に居た。
 スケープ・ゴートの名の様に、ゴートであるヤギ・羊の
類いを、一般的に動物を生け贄(いけにえ)として捧げら
れる宗教儀式。
 幸を求めて、より過激な供犠を捧げることを求めるより
野蛮な宗教性への道をたどるものがある。キリスト教はそ
の様な形の中にある。愛する我が息子を供犠とする話もキ
リスト教聖書に出て来る。一生懸命、美しく語るが、常識
というものがない。その話を美化し、湧(わい)いている。
 キリスト教聖職者は、それを、何ら関係無い様に語ると
ころと、がまた、聖職者によっては、軽蔑してさえ言う時
がある。人身を供犠として美化して語るはるか彼方(かな
た)の昔のセンス。その様な聖職者もいる。注意をしたい
所だ。
 キリスト教聖職者はその場で美しく語る人。口まかせ、
出まかせと言っては可哀想だが、その様な宗教。
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