聖なる(キリスト教の)神は、その聖であるが故に、人を殺す

 題:聖なる(キリスト教の)神は、その聖であるが故に、人を殺す
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教は言う。
 「聖なる神は、その『聖』という性格の故に、汚れた人
間=罪人(つみびと)を裁き、滅(ほろぼ)さざるを得な
い神である」・・と。
 まったく勝手なキリスト教の神だ。
 また、キリスト教聖職者の言い方だ。
 キリスト教は、勝手に「(キリスト教の)神の性格付け」
をして行く。
 そのキリスト教の神を、『人格的存在として』イメージ
して行く。
 「嫉妬深い神なのだ」と、神に言わせたりもしている。
 そして、ここのところでは「聖」を強調して話を展開し
て作っている(いつも、思いつき的にやっている)。
 ここでは、話のストーリーは、「聖なる神」である。
 こう設定したら、対する存在は「聖ではない」である。
 案の定、「汚れた人間=罪人(つみびと)」の登場であ
る。
 「聖なる神」の役者Aと、「汚れた人間」の役者Bが、
役を演ずる段階になると、ありきたりの「聖なる神が、汚
れた人間の罪人を誅するのである」。
 『誅』とは、正義が不正義を成敗することである。
 どちらが正義かは、本当は不明なのだが、キリスト教は、
何時も、「自分が正義」というキリスト教の教義になって
いる。
 馬鹿馬鹿しいほどだ。
 キリスト教なんて『愛の宗教』なんかではない。
 キリスト教の聖書のあちこちで、キリスト教の神が人殺
しをしている。成敗と称して。正義を掲げて。
 読む信徒は洗脳されていく。最初は変と思っても。
 キリスト教は、本当に、卑劣な思考展開をする宗教だと
思う。
 「汚れた人間=罪人を滅ぼすのだという」。
 この卑劣さに憤りが涌く。
 これで何人の方々が殺され、亡くなったというのか。
 「聖なる神なのだから、『殺さないでいいでしょう』と
言いたい。
 何時も、キリスト教は、このパターンで人を殺す。
 だから、南米などへ、キリスト教徒とキリスト教聖職者
たちが行った時も、キリスト教の、この思考パターンで殺
しまくった。絶滅民族が出た。
 『我々は聖なる者だ』。『お前たちは汚れた人間なのだ』
の思考パターンだ。現地人を「人ではない」と言った。
 オーストラリアの原住民のアボリジニの方々に対しても、
同じ事をした。
 キリスト教徒のイギリス人は、アボリジニの方々をまる
で狩猟の行為をするかの如くに、アボリジニの方々を狙い
撃ちにした。
 アボリジニの方々は、絶滅寸前まで行った。
 この様に、キリスト教の聖書記述者が、性悪に思考展開
した考えを、キリスト教という宗教の書=聖書であるが故、
反省される事なく、連綿と歴史を受け継がれ、
 そして、人類の負の遺産、魔女の大量焼き殺しもそうだ
し、人殺しの悪行を累々と積み重ねて来た。
 キリスト教の教義としてあるため、「変更不可」として、
存在し続け、処されて愚行されて来ている。
 これは、大間違いなのである。
 聖なる神の設定は良しとしても、何故、人間を汚れた者
と設定するのか?
 また、聖なる聖なる神だから故、人間を成敗する、滅ぼ
さなければならないと教義設定するのか?
 聖なる神だから故、佛教の仏の如く、温かく迎え、そし
て、教え、導き、悟さないのか、そうするべきではないのか?
 今、即刻、このキリスト教の教義を変えよ。
 また、キリスト教は、また、キリスト教聖職者は、当然
の如くに、この「殺人助長教義」で洗脳をするな。
 また、自分達も洗脳されていると気付きなさい。
 特に、感受性の鋭い小学生や幼稚園児などに、洗脳行為
をすることを止めよ。即刻、中止して下さい。
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