「使徒」とは?・・から、始まる話。

 題: 「使徒」とは?・・から、始まる話。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 「使徒」とは?(「マルコによる福音書」3・7〜19)で、
 「イエスが任命し、名付けた」と書かれている。
 また、「派遣して宣教させた」と書かれている様に
 「使い(宣教)に行く徒」の意味だけなのだ。
 そこを、後のキリスト教会が、もったいぶって威厳を付けた
り、格付けしたりと、格好良くした。
 「使いっぱしり」と言っては可哀想だが、そこまで言わなく
ても、その様なものだけだったのだ。
 キリスト教会は、何でもかんでも「権威、権威」の権威の
亡者だった。
 また、(「マタイによる福音書」1・37)で、
 イエスが、「みんなで行って・・宣教しよう」と書いている
様に、「イエスの、救世主との意味合いは、全くない」。
 この福音書の記述は、「イエスは、唯一のメシア(救世主)
キリスト」という主張はしていない。
 この主張は皆無、まったくない。
 生前のイエスを記しているのに「救世主・イエス」ではない。
 生前のイエスに接していて、行動しているのに、「救世主・
エス」がまったくない、感じさせない。
 イエスは、さも、『使徒の一人』ぐらいに位置付けている。
 そして、この後に記されていることが、
 「(使徒たちに)悪霊追い出しの権能を持たせた」とある。
 イエスだけの能力なのではない。
 誰でもできることなのだ。
 そして、この「悪霊追い出し」をする行為を宣教と捉えてい
た。
 イエスたちは、「宣教した」と、そしてまた、「宣教した」
と、聖書にたびたび書かれているが、
 肝心の『宣教の宗教的理念』が、聖書にまったく書かれてい
ない。
 どんな理念の宣教かと、どうしたものかと思っていたが、
 そして、その宗教的理念が、どこを見ても、不明であったの
だが、
 イエスたちは、何ら「宗教的理念を持って、それも高い次元
の宗教性を説いているのかと思ったが、
 その様な理念を、高らかに、言葉を、その宗教理念を、述べ
伝えているわけではなかった」。
 ただ「悪霊追い出し行為」を、
 ただ「それだけを」しているだけだった。
 悪霊追い出しとは、悪霊を追い出したという達成感で、
 心療的効果を得る事で、それを『目玉にしていた行為』で、
 医療的行為であって、宗教的行為ではない。
 キリスト教は、あえてここを『宗教だ』『宗教だ』と言って
いる宗教。
 そして、イエスは「心療療法師」だ。
     (詳しくは、以下のブログに)
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